第12章(4) 女王
「あんたに指図される筋合いは……!」
怒りに鼻の穴をふくらませたライデンの抗議は、途中でぶった切られた。部屋の壁をべりべり、めりめりと押し破って侵入してきた巨大な物体が奴と俺とを隔てたからだ。それは、スニーカーと紺色のスポーツジャージに包まれた人間の足だった――あり得ないサイズの。
俺の目の前で脚はぐんぐん伸び、ガラス戸を突き破ってテラスを越えていった。太さも成長し、天井にめり込むほどの高さになった。
今や寝室内の空間の大部分を一本の脚が占めていた。
隣の部屋の[アオムシ]の体が、寝転がった姿勢のまま巨大化したため、脚だけが寝室へ侵入してきたのだ。
巨大な肉の塊に押しつぶされて、何人かのギャングが苦痛の呻き声をあげている。下敷きにされたメグも「うぐぅ」と呻いて意識を失った。――[アオムシ]のスクリプトは敵味方の区別なく発動してるんだな。奴はターゲットを絞り込んだりはできないらしい。
「《♠7》! 指示してくれ!」
[アオムシ]の人間離れした大音声が、床をびりびりと振動させた。
「俺は動けないから、そっちの部屋の様子がわからないんだ。脚をどちらへ動かせば侵入者を倒せる?」
「待って! 動かしちゃだめ! 味方が全滅する!」
[料理番]がせっぱつまった叫びを発した。女はソファのすぐ隣に横たわっていたため、脚に押しつぶされずに済んでいた。
壁にぴったり背中をつけて肉塊から逃れている俺と、[料理番]の視線が合った。
俺から目を離さないまま、[料理番]が声を張り上げた。
「とりあえず、今の半分ぐらいのサイズにまで縮みなさい! それから、脚を左側へ向かってスイングさせて!」
「了解だ」
[料理番]の指示を受けて、[アオムシ]の脚が縮み始める。部屋いっぱいを占めていた肉の体積が見る見るうちに減り、視界が開けてきた。そこに展開しているのは「惨状」としか呼びようのない光景だった。砕けて押し潰された調度品の残骸の中、男たちが床に転がっている。骨折の痛みに泣いている者、気絶している者。ライデンが苦悶に顔を歪め、カーペットにしがみついて、祈りらしきものを唱えている。立っている者は誰もいなかった。
ベッドが壁に向かって横倒しになっている。ティリーはその向こうへ落ちたらしく、姿が見えない。
ギャングは全員戦闘不能だ。もう[収納自在]をかけておく必要もない。
気味悪いほど拡大された紺色の布地に包まれた、直径百五十センチの巨大な円筒状の脚が、床から持ち上がり、俺をめがけて猛烈な勢いで振られてきた。
俺は必死でジャンプした。急速に迫ってくる円筒の側面に取りついて駆け上がり、乗り越えて、反対側へ飛び降りた。間一髪、すぐ背後で脚が壁に激突する轟音が響いた。
ほっとしている暇はない。俺を蹴りつぶそうと、脚が壁から離れて再びこちらへ向かってくる。
[アオムシ]の脚から逃げようとして駆ける俺の動きを、身を起こした[料理番]が鋭い視線でじっと見据えていた。
――いかにも、何かを仕掛けてきそうな雰囲気だ。
負傷の痛みでライデンが[無間童唱]を維持できなくなったので、今の[料理番]は自由にスクリプトを使える状態だ。
普通に走って[アオムシ]の攻撃から逃げ切れるはずがない。俺は床に身を投げ出した。うつ伏せになり、できる限り平らになろうと努めた。次の瞬間、馬鹿でかい脚が俺の背中を半ばこするようにして通過していった。
すると、[料理番]の方角から猛烈な殺気が立ちのぼった。
illegal script detected ('hysterical_flier')
id ('pretty_cook')
[料理番]が[凶器乱舞]を発動させた。
俺はその瞬間を待っていた。
女のスクリプトを四重に増幅し、[アオムシ]へ振り向けた。
qualify target=('hysterical_flier')
id=('pretty_cook')
attribute=('amplify'+'amplify'+'amplify'+'amplify')
scope=('caterpillar')
寝室の床に散乱していた無数のガラスの破片、砕けた調度品の破片などが一斉に宙に浮き上がり、壁の穴の向こうに横たわったままの[アオムシ]の上半身へ向けて突進した。
[アオムシ]は巨大な腕を持ち上げ、身をかばおうとする仕草を見せた。
だが飛来する破片の数は圧倒的だった。尖ったガラス、折れた家具の脚、割れた天板などが、ざくざくと青年の腕や頭、胸に突き刺さった。
「いてぇっ! くそーっ、やめろ!」
[アオムシ]が悲鳴をあげながら悶えた。
吹き出す鮮血。痛みで精神集中を乱され、スクリプトを保てなくなったらしい。
[アオムシ]の[大小異同]の効果が消滅。奴の巨大化した脚で突き破られた寝室の壁が、何事もなかったかのように元の状態に戻った。寝室内の破壊された調度品も復活した。ただし、調度品の数は最初より大幅に減っている。――室内の家具や装飾品の大半は、俺が隣の部屋の[アオムシ]に投げつけてしまったからだ。
床に転がっている連中のうち、意識を失っている者はそのままだが、骨折を知覚して苦しんでいた者はたちまち痛みから解放された。ギャングたちは、何が起きたのかわからない、といった様子で、ぼんやりと横たわったままだ。
カーペットを掻きむしって激痛と戦っていたライデンが、呆けたような表情で顔を上げた。
俺は、戦意に目をぎらつかせた[料理番]と、視線を合わせた。
「……『公式試合』で俺に負けたこと、忘れたわけじゃねえよな? 降伏を勧めるぜ」
「馬鹿なこと言わないで。私は絶対に退かない。大事な時に逃げたら……楽な道を選んだら、一生負け犬になる。そんな人生はまっぴらよ」
真剣な顔と声。
――この女は、自分が幼女誘拐に加担していることを理解しているんだろうか。知っていながら、スナーク博士の主張に賛同して、俺に敵対しているのか?
それとも、何か適当な嘘を吹き込まれ、操られているだけなのか。
どちらだろうと知ったことか。だまされる愚かさは、悪意と同じぐらい罪深い。
[料理番]は再び、スクリプト[凶器乱舞]を発動させた。
俺はそれを増幅、反転させた。容赦はしない。
重厚なテーブルが宙に浮き上がって、高速で[料理番]の頭にぶつかり、女を夢の国へ送り込んだ。
――ようやく《ローズ・ペインターズ同盟》のスクリプト使いどもを片づけた。
ギャングたちは呆然と座り込んでおり、まだ戦える状態ではない。
これでティリーを取り戻せる。
急に静まり返ったように感じられる寝室で、俺はベッドに歩み寄った。大きなベッドの上で、女児は安らかな寝息を立てていた。
手を伸ばせば届く距離まで近づいたとき。
[仮想野]に表示されている男の存在が俺の注意を引いた。この寝室へまっすぐ接近してくる。三十代。コーカソイド七十五パーセント、オーストラロイド二十五パーセントのハイブリッド。
俺は、まだ床に座り込んだままのライデンを振り返った。
「おまえらの標的がお出ましだぞ。……立てるか」
「誰に向かって言ってるつもりです?」
ライデンは威嚇するように歯をむき出し、勢いをつけて立ち上がった。
寝室の扉が開いた。聞き覚えのあり過ぎる男の声が響いた。
「いったい何をやってやがるんだ、てめえらは。阿呆みたいに大騒ぎしやがって。この俺まで引っぱり出すんじゃねえよ」
ルーラント・サーフェリーが現れた。こいつも早朝だというのに、かっちりとスーツを着込んでおり、撫でつけた黒髪には乱れはない。眠ってはいなかったようだ。徹夜で警戒にあたっていたというわけか。
奴のスーツの襟には、銀色の♣(クラブ)のバッジが禍々しく輝いていた。
「俺の役目は『姫』の護衛、それだけだ。俺は騎士なんだ。……ガキを守るのはてめえらの仕事だろう?」
戸口で足を止め、胸を張って室内を見回す。出来の悪い部下を叱りつける上司の態度だ。その目線はまっすぐ子分たちに向けられている。まるで俺たちの存在が目に入らないかのようだ。
殺気も気配の変化も何も感じさせず、ごくさりげない動作でサーフェリーはスーツの内側から銃を抜いた。
「――!」
サーフェリーの無造作な外見に欺かれなかった俺たちは、即座に反応した。
俺が[収納自在]の二重発動でサーフェリーの両手両足を縮めるのと、ライデンが[千里爆伸]を発動させて自分の利き腕を十倍に伸ばし、離れた位置からサーフェリーの顔面を殴りつけるのとは、ほぼ同時だった。
サーフェリーは後方へ派手に吹き飛び、ぶっ倒れた。着地した拍子に銃が弾け飛んだ。
まだ床にへたり込んだままの子分たちの口から、がっかりしたような声が漏れた。
俺たちは慎重にサーフェリーに近づいた。
そう言えば、ハクトの奴は何をやってる? ロープを使って、屋上からこのロイヤル・ペントハウスへ侵入することになっていたはずだが。[仮想野]を検索してみても、半径三十メートル以内にハクトらしき人間が見当たらない。どこかへロープを探しに行ったのか?
サーフェリーに[泡沫夢幻]でとどめを刺せるのはハクトだけだ。
ハクトが現れるまで待つしかないが――その間、サーフェリーを無力化しておくべきだろう。
俺と同じ結論に達したらしく、ライデンが巨大な拳を握りしめるのが見えた。
サーフェリーは仰向けに横たわったまま、強い視線で俺たちを見上げていた。鼻血で汚れたその顔には、余裕ありげな薄笑いさえ浮かんでいる。
「――まあ、そうくるわな。てめえらは、銃が通用しねえバケモンだからな。《バラート》だったか? 宗教の皮をかぶった最悪の殺し屋集団、か……」
「最悪なのは否定しねえが、あんたにだけは『殺し屋』呼ばわりされたくねえな。あんた、これまで殺した人間の数を覚えてるか? 思い出せもしねえだろ?」
「なんで否定しないんですか!」
ライデンが横から俺にツッコミを入れてきやがった。面倒くせえ野郎だな、という俺の白眼視を気にもとめず、奴は糾弾の言葉をサーフェリーに浴びせた。
「あんた、四か月ほど前に、《ローズ・ペインターズ同盟》に入団したばかりの赤毛の男を殺したでしょう? 足元に落とし穴を開くスクリプトを使う男です。……それも忘れてしまったというんですか?」
――足元に落とし穴を開くスクリプト、か。懐かしいな。「アホ毛のハン」の昔からの得意技だ。
アルプス山麓の養成所にいた頃、ハンは子供同士の喧嘩にもそのスクリプトを発動させ、よく教師に叱られていた。
サーフェリーはふんと鼻を鳴らした。その拍子に、鼻血がぷつりと飛んだ。
「てめえは四か月前に食った飯のメニューを覚えてんのか? それと同じだ。くだらねえこと訊くな」
「……!」
たちまちふくれ上がるライデンの怒りと殺気が、物理的な「圧」として伝わってくるかのようだ。
俺はふと、連発されるサーフェリーの挑発に自分たちが乗せられていることを自覚した。
「おい。[無間童唱]を……」
俺はライデンに向かって叫びかけたが、遅すぎた。
illegal script detected: unknown script
id ('dodo')
サーフェリーがスクリプトを発動させた。
七分の一に縮んだ右腕がまっすぐ俺たちの方へ伸ばされている。小さくなったその手に、やけに大きく見える桃色の肉塊が握りしめられていた。肝臓だ。




