第11章(5) 帽子屋
「あのねー、《♠A》。いい加減にしなさいよ。暇だからって何度も電話してくるの、やめてもらえる? こっちは色々やることがあるんだから」
流れてきたのは聞き覚えのある女の声だった。《ローズ・ペインターズ同盟》の本部ビルの受付女だ。
俺も顔見知りになってからしばらく経つが、メグという名前だとは知らなかった。
「もうすぐ冷凍品の回収部隊がそっちへ着くわよ。《♣7》さんのおかげで人手に事欠かないから助かるわよねー。最高じゃない、子分が大勢いるギャングのボスなんて? ……あと少しの辛抱なんだから、おとなしく待ってなさい」
「き、聞いてくれ、メグ」
「仕事中は名前で呼ばないで。《♠K》よ」
「どうでもいいんだよ、名前なんか。まずいことになった。冷凍品が……強制解凍された。仲間が助けに来やがったんだ。俺は拷問された。なんとか隙を突いて逃げたが……そのうち見つかる」
メグは黙り込んだ。[帽子屋]はせっぱつまった声を張り上げた。
「どうしよう? 俺、どうすればいい?」
しばらくの沈黙の後、メグが固い声で言った。
「なんとか時間を稼げない? 回収部隊がそちらへ着くまで、あとほんのわずかのはずなの」
「無理だ……三対一なんだ。あいつら全員、でかい。おまけに、頭がおかしくなりそうな変な音楽を聞かせられる。たぶん、あいつらの能力だ。あの音楽が聞こえてきたら、脳の中のスクリプトが台無しになっちまうんだ。どっちみち俺の[無稽時計]はあと三十時間ほどは新規発動できないんだが……[暗中夜行]も使えないから、身を隠せない」
再び沈黙。[帽子屋]の荒い呼吸だけが、[帽子屋]=俺の耳に届く。
「……あんた今、本部長室にいるのよね? デスクの二番目の引き出しに入っている物を使いなさい。わたしの言っていること、わかるでしょ」
メグの声は冷たい決意に満ちていた。[帽子屋]の全身が小刻みに震え始めた。
「む……無理だよ、そんなの……俺にはできないっ……!」
「『できない』じゃないの。やるの! 今さら何をためらってるのよ。人を殺すのは初めてじゃないでしょ? 自然死に近い形で人を殺せる、あんたの[無稽時計]はとても便利だったわ。おかげで教団は警察に疑われずに済んできた。警察が捜査に力を入れたがるような、地位の高い相手を抹殺したときにも。……だけど、もうそんなことを気にする必要もないの。明日には警察も何もかも消滅するんだから。殺しの証拠なんかいくら残したってかまわないのよ」
「俺は……警察のことを気にしてるんじゃないんだ、メグ……いや、《♠K》……。血を見たら、俺、気分が悪くなるかも……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? 捕まってもいいの? 殺すか殺されるかよ。気分が悪くなったらその場で吐きなさい。やるべきことをやってからね」
電話の向こうの受付女は、母親のような威厳をもって[帽子屋]を叱咤していた。
「わたしは、《♣7》さんに頼んで、こっちの警備を増員してもらうわ。万が一に備えて。……今はスペードの幹部と《♣7》さんが守ってくれてるけど。ティリー様を奪われる危険を絶対に冒すわけにはいかないもの」
「……!」
[帽子屋]の血まみれの手が、痛みも顧みず、デスクの端を固く握りしめるのを俺は感じた。
「今、『万が一』って言った? それは、俺があいつらにやられたら、ってこと? おまえはそんな未来を想定してるの?」
「…………あらゆる可能性を想定するわ。だって、これは、決して失敗できない計画だもの」
「おまえはそれで平気なの? 俺が死んだときのための準備を、平気で俺に話すの?」
[帽子屋]は今や腹の底から絶叫していた。
メグはまったく感情を揺らした様子がなかった。電話口から流れてくる声はアイスキューブのように冷たいままだった。
「じゃあ、死なないようにがんばりなさい。《♠10》さんを殺すのよ」
「あの男は……殺しちゃいけないんじゃなかったっけ? 最後の切り札に使うから、生かしたまま冷凍しとけって《♢A》に言われたけど……」
「あんたが生き延びるためなんだから仕方ないでしょ。それに……わたし、本部長は甘すぎると思う。あんな危険な男を生かしておくなんて。ティリー様が計画の要なんだから、ティリー様を奪おうとする相手は何が何でも排除しておかなきゃ。本部長だってそんなこと承知してるはずなのに。
……しっかり後腐れなく殺しておいた方がいい。今のうちに」
[帽子屋]はぼんやりと前方を見据えたまま、震える手でデスクの引き出しを開けた。
俺は、その中に何が入っているのか、猛烈に見たかった。見当がついていないわけではないが、やはりこの目で確かめておきたい。
しかし[帽子屋]は決して引き出しに視線を向けようとしなかった。奴の感覚にただ乗りしている俺には、奴が見ようとしない物を見る手段はない。
「なあ。メグ。この会話が最後かもしれないんなら……俺、キングだのエースだの符丁で呼び合うのは嫌だよ。ちゃんと名前呼んでくれよ。そしたら俺、がんばれるかもしんねえ」
[帽子屋]のかぼそいつぶやきに対し、返ってきたメグの返事には、それまでになかった感情がこもっていた。
「わたしはこの世界が嫌い。[ダイモン]だけじゃなく、人間も大嫌い。みんなみんな消えてなくなればいいと思ってる。金持ちどもの欲望を満たすための道具として、クローン技術で作り出されたわたしたちは、生まれながらに呪われてるんだわ。
――こんなくそったれな世の中で、わたしにとって意味のある存在は、女王様とあんただけよ、レオ。
もしこれが最後の会話でも。地獄で待ち合わせましょ、レオ。ずっと一緒よ」
[帽子屋]の五感をモニタリングし続けるのも限界に近かった。
[冗長大脳皮質]に負荷がかかり過ぎ、俺は[鏡の国]を維持できなくなった。
スクリプトを解除。自分の体に戻った瞬間、全身を包み込む激しい痛みから逃れて、身が軽くなったような錯覚を覚えた。
ソファに座る俺を、ハクトとライデンが雁首揃えて見下ろしていた。
「どうやった? 何かわかったか?」
ハクトがアイシールドの奥の瞳を輝かせている。
俺は大きく息を吐いた。《ローズ・ペインターズ同盟》の最高幹部同士の会話はためになるどころの騒ぎではなかった。
「ティリーの居場所がわかった。ハルシオーネ・ホテル・コルカタの最上階だ。ルーラント・サーフェリーが警備している」
「ハルシオーネやて? えらい高級ホテルにおるんやな」
ライデンが戦意満々で、左手のひらに右の拳を叩き込んだ。
「ルーラント・サーフェリーといえば、[工作員]を殺害した野良スクリプト使いですよね? 本部から抹殺の命令が出てる? さっそく向かいましょう」
「『抹殺』言うな。おまえはちょっとは言葉を選べ」
ハクトがたしなめていたが――言葉遊びは時間の無駄だろう。こいつらが本部から受けているのはまぎれもなく抹殺命令なのだから。
俺には、まだこいつらに伝えなければならないことがあった。
「あー、それから。もうすぐここに、サーフェリーの部下のギャングどもが到着するそうだ」
子分が大勢いるギャングのボス、とくれば、《♣7》がサーフェリーであることは間違いがない。
そして、[帽子屋]とメグが話していた「冷凍品」とは、十中八九、俺のことだ。スナーク博士は、俺に計画を邪魔されないために、[帽子屋]のスクリプトで俺を眠らせたのだ。
メグの話によれば、「冷凍品の回収部隊」がもうすぐこの保養所へやって来る。




