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第11章(2) 帽子屋 7,486周目

迷迭香(ローズマリー)だよ。ここが()()()だ」


 謎めいたことをつぶやき、[帽子屋]はちらりと笑って見せた。


「逃げたりしないから、この腕、放してくれない? 尾行がバレちゃったのは計算外だったけどさ……けど、どっちみち、ここであんたと話をする予定になってたんだ。《♢A(エース)》にそう言われてる」


「……」


 俺はハクトと視線を交わした。


「俺はあんたから最終的な返事をもらってこいって言われてるんだ、《♠10(テン)》。だからまず、平和的に俺の話を聞いてくれないかな。……そこの椅子にでも座らない? 俺、長い時間立ち話するの苦手なんだよ」

「長い話は要らねえ。時間稼ぎはたくさんだ。端的に話せ、ティリーが今どこにいるのか」


 そうは言いつつも、俺たちは長椅子に移動した。ハクトと俺で[帽子屋]を間に挟むようにして座った。フーグリー・ライナーの次の上りの船が来るまで、あと一時間二十三分ある。多少の長話の余地はあるのだ。


 長椅子の正面の壁に額縁がかかっている。俺は画家という表向きの職業柄、その絵に目をとめずにはいられなかった。雰囲気からして、電脳ではなく人間が描いた絵だ。――ひまわり畑を描いたものだった。青空に向かって屹立するたくさんのひまわりが丹念に描かれていた。





 ふと、俺の脳内で原色の映像が爆発的に広がった。


 見渡す限りどこまでも視界を埋め尽くす、熱をはらんで揺れる黄色の花。花畑を突っ切って伸びる小道。長い金髪をなびかせながら懸命に自転車を漕いでいく少女の後ろ姿。まぶしいブラウスの白。


 自転車が止まった。こちらを振り返った懐かしい顔が、こぼれんばかりの笑みをひらめかせた。


「遅いぞ、アリス! 置いてっちゃうからねー!」





 俺の名を呼ぶレジィナの声を思い出すだけで、刺されたように心臓が痛む。





 ――こんなときに、俺はいったい何を考えてるんだ。思い出にひたっている場合じゃない。敵を尋問している途中だというのに。


「……あんた、『運命』って信じる?」


 日陰の苔のようにひんやりした[帽子屋]の声が、俺の意識に滑り込んできた。

 俺は眉をひそめた。


「何の話だ」

「俺さぁ、《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部だけど、信仰心とか全然ないんだよねー。神様なんて信じない。でも、『運命』っていうのはあると思う。人間がどうあがいても変えられない、何か目に見えない大きな仕組みで決まっていく、善悪とはかけ離れたところにある物事のなりゆきコース・オブ・イベンツ……」


 [帽子屋]は大きく息を吐いて、天井を仰いだ。


「《♢A(エース)》は復讐の鬼なんだよ。とりつかれちゃってるんだ。復讐に自分の生涯の半分以上を捧げてきたし、目的のためなら何を犠牲にしてもいいと信じてる。周りの人間はみんな、《♢A(エース)》にとって、復讐の道具に過ぎないんだ。女王様さえもね。

 その気になれば、いくらでも幸せな人生を歩めたはずなのに。合法的な科学者としてやり直せたかもしれないし……父親代わりとしてLCを立派に育て、穏やかな家庭っぽいものを築けたかもしれない。でも《♢A(エース)》は復讐の人生を選んだ。あの人、幸せになりたくないんだ。過去にとらわれてるから」

「…………」

「昔、研究所の仲間を《バラート》にめちゃくちゃにされた。だから復讐したいと感じた。……でも、それだけじゃない。《♢A》を苦しめてるのは、『あのとき私に何かできることがあったはずだ』という後悔だよ。『あの悲劇を止めることができたはずなのに、やらなかった』と自分を責め続けてるんだ。だから、幸せになることを自分に許可できない」


 一刻も早くスナーク博士の行方をつきとめ、ティリーを取り戻さなければならないのに。

 なんだって俺はこんなさびれた集落のさびれた施設で、こんな与太話に耳を傾けているんだろう。


 だが、スナーク博士を憎悪まみれの人生に追い込んだのは俺たちだ。バンダースナッチ研究所を潰し、研究員たちを全員廃人にした。あの頃の俺たちは――ハクトもレジィナも俺も、自分たちの行為の結果など考えもしなかった。軽口を叩きながら、ゲーム感覚で任務をこなしていた。

 俺たちが人生を狂わせたスナーク博士によって、ティリーが奪われる。

 それも因果応報の一つの形なのか。


 物思いから我に返ると、[帽子屋]の強い視線が俺の頬を焦がしていた。


「後から思い返してみると、襲撃のちょっと前から、いかにも怪しい奴が研究所の中をうろついてたんだって。《♢A(エース)》がそう言ってた。そいつは、目つきは悪いけど、やけに人なつっこくて、いつの間にかセキュリティエリアにもするっと入り込んできて……だけど、まだ子供みたいな奴だったから、誰も警戒してなかったんだって。でも研究所を襲ったのは、その子供みたいな連中だったんだ。……『あのとき、あの少年を止めていれば』って《♢A》はいつも言うんだけどさ。そんなの、後だから言えることじゃない? その当時は誰もそんなことになるなんて思ってなかったんだから。

 止められたはずがない。運命だったんだ。誰がどう努力しても避けられない悲劇だったんだ。……そう割り切ってしまえれば、楽になれるのにね」


 その「目つきは悪いが人なつっこいガキ」というのは俺だ。苦々しい感慨に顔が歪むのを止められない。


「……『運命』って言葉はそういう使い方をするもんじゃねえぞ」

「どーだっていいさ♪ 心を楽にするのは悪いことじゃない、そうだろ?」


 長椅子に腰かけた俺たちの斜め前に、かつて病院の受付だったらしいカウンターがあった。カウンターの奥は事務室になっており、主のない事務机がいくつか並んでいた。事務室の奥の壁に派手なポスターが貼られていた。[仮想野]の中で拡大すると「第七十七回コートボール 開会式:十一月二十六日、午後六時 会場:コルカタ・クリケット・グラウンド」の文字が見て取れた。

 奇妙だ。それは保養所の事務室に貼るたぐいのポスターではない。


「人が死んでも……その人を覚えている誰かが地上にいる限り、完全に死んだわけじゃない、とか言うよね。『あなたは私を蘇らせる』。思い出すたびに。そう、何度でも」


 [帽子屋]は子供っぽい笑みを浮かべた。


「それは本当に幸せなことなのかな? ――ここが、()()()だ」

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