第11章(2) 帽子屋
俺たちは雑木林の中を進んだ。舗装されていない斜面を登り、丘のてっぺんに立つ保養所まで三十メートルの距離に達したとたん、それまで大騒ぎしていた[帽子屋]がぴたりと口をつぐんだ。
三十メートルは、建物の中にいる人間の生物学的情報が俺たちの[仮想野]に表示され始める距離だ。
――建物内には誰もいないことを、俺たちは全員知覚した。
スナーク博士とティリーはここにはいない。《ローズ・ペインターズ同盟》の連中が船に乗ったと言った[帽子屋]の言葉は、やはり嘘だったのだ。
俺たちは無言で残りの道程を進んだ。
保養所の建物は小ぎれいに整えられた芝生の敷地に立っていた。川の眺望を楽しむためか、大きな窓が多い建物だ。
玄関には鍵がかかっていなかった。俺たちはガラス扉を引き開け、天井の低い、妙な圧迫感のあるロビーに踏み込んだ。病院として使われていた頃から改装されていないようだ。受付カウンターの前に白い長椅子が数脚並んでいる。今にも看護職員が顔を出しそうなたたずまいだ。
数歩進んだとき、足元で何かが砕ける音が響いた。同時に、甘い香りが立ちのぼってきて俺たちを包んだ。
[帽子屋]の奴が、手に持っていた酒瓶を床に落としやがったのだ。瓶に入っていたのは酒ではなかったらしい。
だが俺はそちらを見降ろしたりはしなかった。この程度のことで隙を作らされたりはしない。連行している[帽子屋]から一瞬たりとも気をそらさなかった。
「迷迭香だよ。ここが結び目だ」
謎めいたことをつぶやき、[帽子屋]はちらりと笑って見せた。
「逃げたりしないから、この腕、放してくれない? 尾行がバレちゃったのは計算外だったけどさ……ターミナルがあんなに何もない所だなんて知らなかったんだよ……けど、どっちみち、ここであんたと話をする予定になってたんだ。《♢A》にそう言われてる」
「……」
俺はハクトと視線を交わした。
「俺はあんたから最終的な返事をもらってこいって言われてるんだ、《♠10》。だからまず、平和的に俺の話を聞いてくれないかな。……そこの椅子にでも座らない? 俺、長い時間立ち話するの苦手なんだよ」
「長い話は要らねえ。時間稼ぎはたくさんだ。端的に話せ、ティリーが今どこにいるのか」
そうは言いつつも、俺たちは長椅子に移動した。ハクトと俺で[帽子屋]を間に挟むようにして座った。フーグリー・ライナーの次の上りの船が来るまで、あと一時間二十三分ある。多少の長話の余地はあるのだ。
長椅子の正面の壁に額縁がかかっている。俺は画家という表向きの職業柄、その絵に目をとめずにはいられなかった。雰囲気からして、電脳ではなく人間が描いた絵だ。――ひまわり畑を描いたものだった。青空に向かって屹立するたくさんのひまわりが丹念に描かれていた。
「ティリー様はまだコルカタ市内にいる。場所は言えないが、すばらしく快適な所にいるよ。心配しないで。大切な方だから、危害なんか加えてない。こっちには子守りがものすごく得意な女がいるんでね。そいつがつきっきりでお世話をしてる。本番までそのまま待機してもらうことになってる」
「『本番』か……」
狂信者の口から出ると、これほど嫌な単語もない。俺は自分の顔がひとりでに渋くなるのを感じた。
「おまえらが襲おうとしているのは……[ダイモン]の自我が収まってるというデータセンターは、コルカタ市内にあるのか?」
二十一世紀以降、世界中で数多くのデータセンターが建設されたが、その大半は気温の低い高緯度地域に置かれていた。だが、当時の科学技術の粋を集めた実験的なデータセンターは、どれもこの西ベンガル地方で建設されている。この地方が電脳開発の中心地だったからだ。
俺の質問に、[帽子屋]は軽薄にうなずいた。
「聞いて驚け? なんと、そのデータセンターは、コルカタ・クリケット・グラウンドの地下にあるのさ」
「何だと?」
「コルカタ・クリケット・グラウンド。明日から、全世界が注目する『コートボール』が始まる競技場だよ。なんでそんな所に、と思うかもしれないけど……地下のデータセンターを隠すため、[ダイモン]がわざわざそこへ競技場を建てたみたいだ。
何て言ってたっけ……そうそう、『第二世代機械製センター』だ。人工コンピュータが自律的に設計したデータセンターが『第一世代機械製センター』。で、その『第一世代』が自律的に設計したのが『第二世代センター』。……歴史を感じさせる言い方だよね。二十一世紀っぽい」
「『第二世代』なら……おそらくもう[永久施設]化されてるだろうな」
「あー、うん。《♢A》も何かそういう感じのこと言ってたな」
「そこにどうやって入るつもりや。[永久施設]には普通、出入口はついてへんぞ?」
横からハクトが口をはさんできた。
[永久施設]というのは、機械によって維持管理され、発電所をはじめとして消耗品や部品の製造施設、必要素材の再回収・合成機能も併設している完全自立の閉鎖系だ。理論上、自己完結したまま永久に稼働し続ける。
[帽子屋]はひょいと肩をすくめた。
「さーねー。そのへんは俺、詳しく聞かされてないんだよ。《♢A》がうまい手を思いついた、ってだけで。
……俺があんたに尋ねたいのはね、《♠10》。そんなヤバそうな場所へ連れていかれるティリー様を、あんたは自分の手で守りたくないのか、ってことだよ。ティリー様がデータセンターへ連れていかれる結末は確定している。《ローズ・ペインターズ同盟》が総力を挙げてその結末を実現する。あんたが何をしたってそれは変えられない。……あんたにできるのは、すぐそばにいてティリー様を守り、支えてあげるか、それともはるか遠くからティリー様の無事を神に祈るか、どちらにするかを選ぶことだけだよ」
こいつの提示した二択は気に入らない。まったく気に入らない。
俺はきっぱり答えた。
「俺の選択はそのどちらでもねえ。これからおまえをぶちのめして、ティリーの居場所を聞き出す。それだけだ」
俺の本気が伝わったらしい。[帽子屋]は明らかな怯えの表情を見せた。少し小さくなった声で「あー。やっぱりそうきたか。そりゃあ、あんたなんかから見たら、俺はひょろひょろの弱虫だろうさ。でも」と早口でまくしたてた。
「弱虫には弱虫なりの意地がある。俺は女王様に絶対忠誠を誓ってる。女王様は俺を解放してくれた恩人だから。……あんたは気を失うまで俺をぶん殴ることができる。でも、俺に口を割らせることはできないよ」
「……そう言い切るのは早すぎるんじゃないのか? 本当にできないかどうか、試してみるか」
「俺とメグは……《♠K》は、バンダースナッチ研究所で生まれたクローン人間だ。どっかの金持ちのおもちゃか生体部品になるため作られたんだ。成長してもろくな運命は待ってないと、ガキの頃からあきらめてた。女王様に会うまでは。……女王様は俺たちにスクリプトの才能があるのを見つけて、トレーニングしてくれた。だから俺たちはその力を使って研究所を逃げ出すことができたんだよ。自由になれた。全部、女王様のおかげだ」
――こいつはマキヤが廃人になってしまったことを知らないのか?
スナーク博士は幹部に対しても秘密主義を貫いているのか。
[帽子屋]は目を閉じた。息を止め、歯を食いしばり、打撃を待ち受ける態勢になった。
「やれよ。好きなだけ暴力をふるえばいい。俺は耐えてみせる、女王様のために」
「……この野郎。被害者づらするんじゃねえよ。まるで俺が悪役みたいじゃねえか。おまえらは、目的のために幼い子供を誘拐した犯罪者集団なんだぞ。悪の組織としての自覚を持て」
「じゃあ、殴らないのか?」
[帽子屋]が薄目を開けて俺を見た。
「いや、殴る」
即答しながら――ふと俺は、若者の瞳が気味悪いほど鮮やかな緑色であることに気づいた。こいつの目、こんな色だったか?
「ははーん、気づいたみたいだな♪」
[帽子屋]の表情からいつの間にか怯えが消えていた。
「あんたら《バラート》の連中は、他人がスクリプトを使うのが見えるんだってね。女王様が話してたよ。だけど、[暗中夜行]を使ってる間は、俺も、俺のスクリプトも、あんたらの[仮想野]には表示されない」
背筋が冷えた。俺たちはもう、こいつのスクリプトの支配下にあるというのか。
[帽子屋]から離れようとしてあわてて立ち上がったハクトが、何もないのに足をすべらせて尻もちをついた。
大きく微笑んだ[帽子屋]は、低い声で童謡の一節を口ずさんだ。
ラベンダーは青 ローズマリーは緑
あなたが王様なら 私は女王様よ
「円弧が完成した。ここが、結び目だ」




