第11章(1) 帽子屋
帽子屋が言いました。
「(中略)あんたが時間と親しくさせていただいておれば、時計の上のことなら、たいていのことはどうにかしてくださる。たとえば、これから勉強がはじまる朝の九時だったとしてごらん。時間にこっそり一言お願いしさえすれば、あっというまに時計がくるり! 一時半、お昼の時間という寸法だ!」
『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)
どんよりした風景の中、フーグリー川は、空の色を吸い取ったかのような鮮やかな青緑だった。河口に近いこの街では川幅も大きい。眼前に水面がのびやかに広がり、対岸の並木が遠くかすんで見える。大量の水の冷たいにおいが鼻を打つ。
このターミナルは、遊覧船だけではなく対岸へ渡るための市営フェリーの発着にも使われている。学校帰りらしい子供たちが俺たちを追い抜き、かん高い声を響かせながらフェリーへ駆けていった。
「さっき、大きな荷物を抱えた三十人ほどの団体客がフーグリー・ライナーに乗らなかったか?」
俺は改札の係員に尋ねた。小太りの中年女はフーグリー川の水のように濁った眼で俺を見返した。
「さあ……。ちょっと、わかんないです。私は五分ほど前にシフト入りしたばかりなので。それより前のことを訊かれても」
とりつく島のない不愛想さ。まるで壁に向かって話しているみたいだ。
そのとき、俺の背後から響いた若々しい声が空気をびん、と震わせた。
「あー、いたよ、団体客。前のライナーに乗ってった」
振り返った俺の目に映ったのは、チケット売場から改札まで下ってくる短い階段にだらしなく座り込んだ男だった。見たところ二十歳そこそこの年頃だ。ガキっぽい丸顔に無防備な笑みを浮かべてこちらを見上げている。ぼさぼさの砂色の髪、ビール会社のロゴ入りのウィンドブレーカー。手には酒瓶。人生順調に転落中、という雰囲気の若者だが、視線は定まっており、それほど酔っているわけでもなさそうだ。
「ものすごく太った、ボールみたいにまん丸な男が先頭に立ってたよ。……あんたが探してるの、そいつらで合ってる?」
若者の言葉に、俺は身の内に高揚が駆けめぐるのを感じた。尋ねる声が思わず大きくなった。
「その団体の中に、女の子供はいなかったか?」
「いたよ。人形みたいに可愛らしい子。青いワンピースを着たブロンドの子だ」
ティリーだ。
俺は果物屋の親爺から受け取った割引券を固く握りしめた。頼りないと思われたこの手がかりは、どうやら正しい方角を指しているらしい。
ハクトと俺はターミナルで二十分ほど待ち、ようやくやって来た次のライナーに乗り込んだ。階段に座り込んでいたさっきの若者も酒瓶をぶら下げて乗ってきた。
乗船しているのは、明らかに観光客らしい連中と普通の市民が半々ぐらいだ。
船が下流へ向かって滑っていく間、ハクトと俺は手すりにもたれかかって立ち、水面で踊る強烈な西日の破片を眺めやった。
ゆっくりと後方へ流れていく川沿いの並木は無限に続くかのように思われた。単調な風景には五分で飽きた。俺は突破口を求める気持ちで、手の中の割引券に視線を落とした。白い小型船が描かれた長方形の紙片。そこにまだ何か手がかりが秘められてはいないか。
ふと、ハクトが口を開いた。
「おまえさっきから、なんで自分の手の平じーっと見とるんや、アリス?」
「手の、ひら、だと……?」
見慣れた掌が急に俺の意識に飛び込んできた。空っぽの手の平。
この手で確かに何かを持っていた、手が何かの感触を覚えている。だが頭では、何も持ってなどいなかったことを理解している。俺は手ぶらだ。朝からずっとそうだ。
「くそっ。やられたかもしれねえ」
俺は思わず手すりを殴りつけた。
「やられたって、何をや」
「違和感がある……。今日のどこかのタイミングで、《♠K》と出くわして記憶操作を食らった可能性がある。いつ、どこかはまったく思い出せねえが」
――いつやられた? そんな攻撃を受けるような場面があったか? 俺は自分の一日の行動を振り返る。
朝、ティリーを茅尚ママに預け、ダルハウジー広場の《ローズ・ペインターズ同盟》の本部へ行ってスナーク博士と話をした。茅尚ママのもとへ戻ると、『媽媽的店』からティリーが消えていた。ティリーを取り戻すため、ハクトやライデンと共に馬車でダルハウジー広場へ引き返した。《同盟》本部のビルはもぬけの空になっていた。果物屋の屋台の親爺が、本部ビルから大勢の人間が荷物を持って出発したのを目撃した、と教えてくれた。それで、スナーク博士たちを追って、ハクトと船着場へ赴き、このライナーに乗り込んだ……。
――記憶はすべて鮮明で、切れ目なくつながっている。不自然な点はない。
『媽媽的店』にいた女たちのかん高い声。屋台の果物の甘ったるい香り。馬車から飛び降りて走っていくライデンの後ろ姿。何もかもはっきりと思い出せる。
「もし《♠K》と出くわしたんだとすれば……俺がおまえらと離れて一人で行動している間だな。最初に《同盟》本部へ行ったときか、二回目に行ったときか……」
俺が深刻に悩んでいるのに、ハクトからの返事はのんびりしたものだ。
「いっぺん[事実無根]を食ろたら、『本当はどうやったんやろ』なんて、いくら考えたって無駄やで。脳の中から正解なんか出てこぉへん。完全に上書きされとるからな」
「おまえ、なんでそんな呑気にしてられるんだ。罠にはめられたかもしれねえんだぞ」
「呑気になんかしとらへん。こう見えても、必死で考えとるんや、次の手を」
俺も再び、今日これまでの出来事を脳内で反芻する。どこにも、ほころびはない。どこにも。……いや、本当にそうか? 俺はどうして、《同盟》本部を出たスナーク博士たちが船に乗ったと判断したんだ? 果物屋の親爺にそう言われたのか? いや……そんなことを告げられた記憶はない。親爺との会話の一言一句を思い出そうと努めてみる。
妙だ。さっきまであんなにはっきりと思い出せた親爺の顔、交わした会話などが、心に浮かびそうで浮かばない。つかもうと手を伸ばすと指の隙間をすり抜けていく。煙のように。
ハクトの言う通りだ。スクリプトを食らったら、真実を感知することは不可能だ。
大事なのは、いま把握できている事実から推論することだ。
「もし、これがすべて敵の罠だとすれば……」
最後まで言わず、俺はハクトに視線を流した。
赤いフレームのアイシールドの奥から見返してくるまなざしが、奴も俺と同じ結論に達していることを伝えてきた。
船はやがてダイヤモンド・ハーバーに着いた。世界に「ダイヤモンド・ハーバー」という地名の場所は何か所かあるが、おそらくフーグリー川の河口に近いこの場所は、さびれ度合ではナンバーワンだろう。壊れかけた船着場に降り立ち、辺りを見回すと、気が滅入るような風景が目に飛び込んできた。
ここにはかつて集落があったのだろう。観光地だったのかもしれない。川辺から緑に覆われた小高い丘までの間に商業建物が散在している。営業している店舗は一つもない。どの建物もシャッターを下ろしており、次回の定期改修で解体されるのを待つ状態だ。清掃管理ロボットも稼働していないのか、浜辺も道路もごみだらけだ。
見渡す限り、人の姿はない。フェリーターミナルには券売所さえ設置されていなかった。
丘の上に、木々に埋もれるようにして、いかにも病院らしいたたずまいの純白の建物が建っていた。
「あれが例の《同盟》の保養所ってやつか?」
「座標からすると、そのようやな」
俺たちが船着場と岸をつなぐ橋の上に立って丘を見上げているとき、[仮想野]でアラートが輝いた。
illegal script detected ('tiptoe_step')
id ('mad_hatter')
ログインID[いかれた帽子屋]、スクリプト名[暗中夜行]。
ハクトと俺が揃って振り返ると、船着場に降り立ったばかりの酒瓶の若者が、居心地悪そうな顔をした。
船の出発を告げるベルがじりんじりん、と古典的な音色を響かせ、ライナーは岸を離れていった。ターミナルには俺たち三人だけが残された。
「……おまえ、もしかして、アホなんか?」
若者に向かって、ハクトが直球を投げつけた。俺はすばやく歩み寄り、若者の肩に腕を回して締め上げた。親愛の情を示すためではもちろんなく、逃がさないためだ。
――[暗中夜行]の作用で、若者は[仮想野]に表示されていない。[仮想野]では誰もいないことになっている所に人がいる、というのは奇妙な感覚だが、接触していれば惑わずに済む。
「よう、坊や。おまえのこととりあえず[帽子屋]と呼ぶぞ。[暗中夜行]というスクリプトは、周りに身を隠す場所がある時に使うもんだ。おまえは[仮想野]からは消えたが、肉眼には見えてるんだからな。こんな所で使っても意味がねえ」
「離せよ。あんたが何を言ってんのかわかんないよ。何のことだ、[帽子屋]とかティップトウとかって」
[帽子屋]は俺の腕から逃れようともがいたが、俺はさらに強く締め上げた。
「とぼけても無駄やで。俺らには見えとるんや、おまえの中身が」
ハクトが[帽子屋]の前に立ちはだかり、すごみのある笑みを浮かべてみせた。
――ハクトが運動神経ゼロの最弱野郎だということは、外見からはわからない。[帽子屋]は長身の男二人に詰め寄られた圧迫感を覚えていることだろう。
《♠K》が俺の記憶を書き換えて、「スナーク博士とティリーがフーグリー・ライナーに乗った」と思い込ませたのだとすれば。
「博士がライナーに乗ったのを見た」と言い切ったこの若者は、明らかに嘘つきだ。
俺たちと一緒に下船し、スクリプトを使ってきた時点で、こいつが敵であることが完全に確定した。あとは、口を割らせるだけだ。
「おまえはたぶんスナーク博士に、俺たちを尾行するよう命令されたんだろ、[帽子屋]? 俺たちが最後までだまされて、ちゃんと《同盟》の保養所まで行くかを確認するために」
「《同盟》のスタッフが全員で船に乗ってこのダイヤモンド・ハーバーまで来たなんて、嘘っぱちや。あの白い建物へ行ってみても、誰もおらへん。……そうやないんか?」
ハクトと俺は左右からたたみかけたが、[帽子屋]は首を横に振り続けた。
「何の話だかわからないよ! 変な因縁つけるのはやめてくれよ!」
「一緒に行こうぜ、あの保養所へ。おまえに最後のチャンスをやる。もしあの保養所に今スナーク博士たちがいれば、おまえが嘘つきじゃなかったことが証明される」
「もし誰もおらへんかったら、おまえは嘘つきっちゅうことで決定や」
「しゃべってもらうぞ……何が狙いで、俺たちをこの場所へ誘導したのか。ティリーは本当はどこにいるのか」
「覚悟せぇよ。この男、やると決めたらメチャクチャやりよるからな。二度と治せへんぐらい顔面叩き潰される前に、ティリーちゃんの居所を吐いた方が身のためやで」
[帽子屋]の顔色が次第に悪くなってきた。
「あんたら……頭がおかしいよ。誰か助けて! 助けてくれ! 殺される! 警察呼んで!!」
若者の声が無人の集落にむなしく響きわたった。
ハクトと俺は[帽子屋]を丘の上の保養所まで引っ立てた。




