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第1章(4) リデル

 俺たちはたぶん、「闇」という語の本当の意味を知らない。




 周囲が暗くなれば[補助大脳皮質(エクスパンション)]が自動的に視神経からの入力情報を増幅する。ほんのわずかでも周囲に光がある限り、俺たちはクリアに物を見ることができる。


 かつては、日が暮れると人は闇に包まれたので、再生不能燃料を景気よく使って光源を確保していた。夜の街は大量の照明素子(イルミネーション)で昼と同じぐらい明るく照らし出されていたという。

 俺たちにはそんな必要はない。[補助大脳皮質(エクスパンション)]のおかげで、俺たちの感じる明暗はごくわずかなものだ。


 何でも見える現代の人間は逆に、闇を知覚できない。まぶたを閉じた時に見える光景が「闇」というものだろう、と推測するぐらいしかできない。




 だから俺たちが「闇」という言葉を使うとき、それはもっぱら比喩的なものだ。


 ――社会の闇。

 心の中の闇。



「Et dedit ei unus, qui dedit illi duo,

Et dederunt nobis tres vel plures,

Regressus ab omnibus vobis

Facti sunt mihi ante.」



 参拝者の誰もいない、夕刻の聖堂。俺はタイルの敷き詰められた床に膝をつき、頭を垂れる。

 まぶたを閉じて疑似的な闇を作り出し、己の中の闇をのぞき込む。




 ――「悔恨」という名の巨大な黒い塊が俺の中心部に巣食っている。それはすべての光を吸収し、周囲に闇を広げる。


 不幸の置き土産の中でも、悔恨ってやつはことさら厄介だ。


「あんなことを言わなければよかった」、「もっとしてやれることがあったんじゃないか」。


 年月が過ぎても、後悔は薄らぐどころか、膿んだ傷口のようにじくじくと痛みを深めていく。




「Si forte vel debet esse non

Quae in re

Confidet in te dimiseris eos liberos:

Prorsus ut essemus.」




 厄介なのは、それが永遠に答えの出ないクイズだということだ。

 何が正解だったのか。どう振るまえば決定的な不幸を回避することができたのか。

 今となっては知るすべもない。残された者は、「しかし、何かしてやれることが()()()()()()!」という根拠のない信念の中で絶望するしかない。





「Meo animo fuit fuisses

(Antequam hoc fit cum illa)

Factum est obstaculum quoddam inter

Eo quod ipsi et.


 ――魂は元来無垢なり。神の授け賜ひた光明なり。

 祈りをもて迷妄を穿ち、闇を払え。

 尊き神の御名の下に」

 



 俺が聖堂を出ると、元は白かったと思われる教服に身を包んだ教父が玄関先に立っていた。四十前後の痩せた男だ。短く刈り込んだ黒髪に交じるしらが(・・・)の量は、年齢にしては驚くほど多い。


「あなたは教会におられたことがあるのですか」

 それが教父の第一声だった。

「いまどき、本を見ずに聖句をそらんじられる方は、なかなかいらっしゃらないから」


「ああ。ガキの頃に、ちょっとだけな」


 俺は視線を泳がせながら答えた。相手のまなざしは穏やかだが途方もなくまっすぐで、それに見据えられるのは居心地が悪かった。


「聖句は、ただ暗記させられただけだ。……祈ることの意味を教わるほど、教会には長居しなかった」

「それでも、あなたはここに来られた。祈りたい。神と向き合いたい。その気持ちが大切なのですよ」


 教父はくたびれた顔に優しい笑みをたたえて俺をみつめていた。優しすぎて諦観にしか見えない笑顔だった。


 俺は教父に会釈をして歩き出した。目の前には六十五番街の毒々しい街並みが広がっていた。「また、いらっしゃってください。お待ちしていますよ」という静かな声が背中で響くのと、俺の[仮想野(スパイムビュー)]に「あなたはイエローゾーンに入ろうとしています。ご注意ください」というコルカタ市からのアラームがひらめいたのはほぼ同時だった。市内の各地域は犯罪発生率に基づいて色分けされていて、イエローゾーンというのは「腕っぷしや逃げ足に自信のない奴は立ち入らない方が身のため」ぐらいの意味だ。


 まだ日も暮れないというのに、ばくち打ちとポン引きと淫売とスリとやくざが狭い街路にうごめいていた。


 表通りから一本奥へ入ると、そこは娼館ばかりが並ぶ路地だ。『後宮佳麗』『スルタン・パレス』『吉原(ヨシワラ)』『タージ・マハル』などといった看板が並び、間違いまくった時代考証に基づく奇抜な外装の建物がひしめいている。軒先から大量に吊るされた黄金色のミニ・ガネーシャ、カーテン代わりに入口に垂らされたトルコ絨毯、蓮の葉の台座の上に立つタヌキの像。それらの奥では、世界最古の職業が依然として隆盛をきわめている。


 怪しさ百パーセントの店内へ引きずり込もうとする呼び込みの男たちの手をかわしながら進んでいくと、路地の突き当たりに賭場『コーカス・レース』が見えてきた。

 賭場は拍子抜けするほど落ち着いた外見だった。

 レンガ風の壁に、飾りのない漆黒の扉。パブの看板を掲げている。


 依頼人と違って俺はすでに『コーカス・レース』について下調べを済ませていた。この時間帯、賭場がすでに営業中であることも調べ済みだった。

 扉の横に鼻のつぶれた大男が立ち、視線の在処(ありか)の読み取りにくい細い目で周囲を見渡している。賭場の用心棒兼門番だ。そいつに入場料の百CP (クレジットポイント)を払わなければ中へ入れないことも調べ済みだった。俺は大男に近づこうとした。


 誰かが、背後から、俺のジャケットの裾を引いた。


 しつこいポン引きだな、と拳を半ば握りながら振り返ったが、誰もいない。

 いや、ちょっと待て。――視線を下へ動かす。低い位置に金髪の頭があった。

 俺の服をつかんだアリスが、まっさおな瞳でこちらを一心に見上げていた。


「おまえっ! …………なんで、ここに!?」


 あり得ない事態に、俺はその場で硬直する。


 昨日コルカタ中央署に置いてきたはずのアリスが、どうしてこんな所へ現れたのか。まさか警察を脱走してきたのか? たかが四、五歳の子供に逃げられるとは、警察は一体どうなってるんだよ。


 これだけの大都会で偶然ばったり会うなんて――あり得ない。

 故意だとしても、あり得ない。アリスに俺を追跡する手段があるわけがない。


 そして――こんな柄の悪い界隈で、一人きりの女児が、平然とたたずんでいることも不自然すぎる。

 ここは、堅気(かたぎ)の女が一人でうろうろしていたら五分と無事ではいられない場所だ。たとえ大人でも。


 だが通行人どもは、まるでアリスの存在が目に入らないかのように、その脇を行き過ぎていく。視線すら向けない。誰もが異様なほど無関心だ。



 解釈不能な状況を前にして、俺は恐怖に似たうすら寒さを覚えながら、ただ呆然とアリスの顔を見下ろしていた。


 アリスは俺の服をつかんでいた手を離し、今度は俺の左手の指先をぎゅっと握りしめた。




 不意に、止まっていた時間が急に動き始めたような気がした。無音だった世界に喧騒が戻ってきた。フリーズしていた俺の頭がようやく再び回転し始めた。


 アリスがどうやってここへ現れたのか詮索するのは後回しだ。

 とりあえず、今は仕事だ。ガキを連れていたってやれない仕事ではない。問題ないだろう。

 この六十五番街の裏通りでは、アリスは俺の手につかまっているのがいちばん安全だ。

 明日になったら、アリスをもう一度コルカタ中央署へ連れて行こう。迷子に逃げられてんじゃねえ、仕事しろよ税金泥棒、とあのオオカミ警官にいやみの一つも言ってやる。



 そう決めると、俺は――誰かにかっさらわれないように――アリスと手をしっかりつなぎ直し、改めて『コーカス・レース』へ向かって歩き始めた。

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