第9章(6) 三月ウサギ
マキヤは口をつぐみ、うなだれた。[メアリー・アン]も次の動きを見せない。妙な緊張感に満ちた沈黙が続いた。
[メアリー・アン]がちらりと上へ視線を走らせた。いら立っている様子だ。
次の瞬間。
何か白い物が上からベランダに降ってきた。それは長い手足をばたつかせている人影で、派手な音をたてて背中から着地した。
「何やってるんスか、先輩!」
[メアリー・アン]の場違いな怒号が響きわたった。
降ってきたのはハクト・イナバだった。顔をしかめて、しきりと腰をさすっている。
「あ、痛ぁ! 骨折れたかもしれん」
「あんたは姿を表さないことになってたでしょ!? 何のための[暗中夜行]ですか」
「そんなこと言うたかて。ロープにぶら下がる手がもう限界やったんや。おまえ、話長すぎや」
「……話は終わりました。ターゲットは《バラート》に戻るつもりはないようです。さあっ! スクリプトをどうぞ」
「ちょ、今は無理。痛くて集中でけん。時間稼いでくれ」
「まったくもう、この人はーーーっ!」
「やっぱり出やがったなぁっ!」
荒々しい喜びに満ちた声をあげたのはサーフェリーだ。目を輝かせてハクトを見据えている。
「待ってたぜ、真っ白野郎。うちの女王陛下を狙ってただで済むとは思うな」
サーフェリーはハクトの方へ向けて拳を突き出した。握られたその拳が、敵を威嚇する毒蛇の口のようにかっと開かれた。今にも、例の肝臓をつかみ出すスクリプトを使いそうだ。
だが、[メアリー・アン]の方が速かった。
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id ('mary_ann')
スクリプト[無間童唱]が作動。
サーフェリーは自分のスクリプトを作動させることができなかった。両手で耳をふさぎ、「何だこりゃあっ! 畜生、うるせえ!」とわめきちらした。
ベランダで四つん這いの姿勢になったハクトが顔を上げ、ちらりと俺を見た。
俺がマキヤを守るつもりかどうか確認したかったのだろう。
――だが、俺にはこの女をかばってやる理由は一つもない。
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id ('white_rabbit')
ハクトは、ぞっとするほど無造作に、[泡沫夢幻]を発動させやがった。マキヤに視線を向けることさえせず。
マキヤは悲鳴ひとつあげずに壊れた。突然、白目を剥いて口から泡を吹いた。
室内に異臭が広がった――女は[泡沫夢幻]を食らうのと同時に失禁したようだ。理性を失ったマキヤは、まるで自分の体に臭いをつけようとするかのように、濡れた絨毯の上を転がり回った。
「やだっ! 女王様、どうしちゃったの。しっかりして!」
子供の甲高い声が響きわたった。ちょうど部屋に戻ってきたばかりの銀髪、白ずくめのヘアが、泡を吹いて暴れるマキヤにすがりついた。
両耳をふさいだまま、サーフェリーが荒々しく歯をむき出した。
「助太刀しろ、リデル! こいつらは殺し屋だ……教団の敵だぞ!」
俺は不意にひどく冷静な気分になってハクトと[メアリー・アン]を見返した。
人殺し野郎の命令など受ける筋合いはない。教団に義理立てする理由もない。
だが、《バラート》が俺たちの敵であることは厳然たる事実だ。この[メアリー・アン]は、たまたま見つけた野良のスクリプト使いである俺たちを、見逃したりはしないだろう。《バラート》は、《バラート》外にスクリプトが流出することを決して許容しない。
[メアリー・アン]の方も俺をじっと見据えていた。目を細め、記憶を探る表情になっている。
「あんたの顔……確か、どこかで見ましたよ。……手配書だったかな……?」
やるしかない。まるでサーフェリーの命令で動いているみたいなのが腹立たしいが、そんなことを言っている場合ではない。
focus target=('mary_ann')
run ('easy_contraction')
俺はスクリプト[収納自在]を発動。[メアリー・アン]の左脚と右腕を七分の一サイズに縮め、すっ転ばせた。動けなくなった相手にとどめを刺すため、俺はベランダに向かって突進した。
倒されても巨漢は動じなかった。強い視線で、駆け寄る俺を睨み続けていた。
――奴のスクリプトが来る。おそらく[無間童唱]で俺のスクリプトを封じにくるだろう。マキヤやサーフェリーに対してやったのと同様に。
[メアリー・アン]のスクリプト発動と同時に、俺は限定した。[無間童唱]を相手に向けて反転。
qualify target=('circular_canon')
id=('mary_ann')
attribute=('direction:reverse')
俺の予測は外れた。
[メアリー・アン]は縮んでいない方の左腕でパンチを繰り出してきた。
illegal script detected ('instant_stretch')
id ('mary_ann')
奴が使ったのは[無間童唱]ではなく[千里爆伸]だ。
巨漢の左腕がゴムのように伸び、でかい拳があり得ない距離からまっすぐ俺の顔面めがけて飛んできた。
俺は右腕で相手の打撃をきわどくガードした。スクリプトにより速度と力を付加された拳はずっしり重く、腕がしびれた。
俺がその攻撃に気をとられている隙に、[メアリー・アン]はすかさず第二弾のスクリプトを放ってきた。
illegal script detected ('circular_canon')
id ('mary_ann')
畜生。食らっちまった。[無間童唱]を。
子供たちの歌声が俺を取り巻く。遠のいたり近づいたりしながら延々と続く。微妙に外れる音程やところどころ怪しい歌詞などが気になって……集中が乱される。脳内でスクリプトを組むことができない。
ラベンダーは青 ローズマリーは緑
あなたが王様なら ボクは女王様さ
誰がそう言ったのかって? それはね
ボクの心が そう教えてくれたんだ
ら
ラ ンダーラベノダーラ
ラ ベ ベ
ラ ラ ラベソダ ン
ラ | | | ダ
ラベンダーラベンダー ラ |
ン ン ラ ペ 緑
ベ ベ ン ラ
ラ ダ ベ
ーダンベらー ン
ダ
|
ラ
ベ
ン
だ
ベランダで、手足の長さを取り戻した[メアリー・アン]がのっそりと立ち上がった。
[無限童唱]で攪乱され、俺のスクリプト[収納自在]の効果が切れたせいだ。
スクリプトが使えないなら肉弾戦だ。俺はサーフェリーを振り返って叫んだ。
「あの野郎をぶちのめすぞ!」
「――命令すんじゃねえ! ボスは俺だ!」
いまいましげにわめき返しながら、それでもサーフェリーは走り出した。
俺たち二人は[メアリー・アン]に向かって突進した。
巨漢は一歩も退かず俺たちを迎え撃った。右拳を顎につけ、左拳を腹部に構えるポーズがやけに堂に入っているところを見ると本職のボクサーかもしれない。左右に体を揺らしながら、時おり左のフリッカージャブを打ってくる。ひらひらひらめく速い拳だ。リーチの長さをフル活用していやがる。
隙がない。近寄れない。
俺が正面で奴の注意を引きつけている間に、サーフェリーが側面から奴に襲いかかった。
[メアリー・アン]はためらいなくボクサースタイルを捨て、サーフェリーの顔面に肘打ちを叩き込んだ。血が高く飛んだ。
俺は、サーフェリーが床に沈むところまで見届けなかった。一瞬できた隙をつき、[メアリー・アン]の下半身に渾身のタックルを食らわせた。
巨漢が重々しく仰向けに倒れた。
俺は急いで体勢を立て直し、奴に飛びかかろうとした。だが俺が動く前に、床にへたり込んでいたサーフェリーが脚を伸ばし、巨漢のこめかみを蹴りつけた。
俺をしつこく取り囲んでいたガキどもの歌声がぴたりと止まり、静寂が戻ってきた。スクリプト[無間童唱]が停止したのだ。
[メアリー・アン]がサーフェリーの足首をつかみ、恐るべき怪力でぶん回した。
投げ飛ばされたサーフェリーは宙を飛び、ぶざまに顔から床に落ちた。
この[メアリー・アン]は強敵だ。スクリプトを使わなくても強い。サーフェリーと俺の二人がかりでも制圧は難しいかもしれない(サーフェリーはギャングのくせに、あまり腕っぷしは強くねえからな)。
そのとき、まだベランダで腰をさすっていたハクトが、鋭い声を発した。
「援護するで、ライデン! 俺の[茶菓山積]で」
どうやらライデンというのが[メアリー・アン]の本名らしい。
――わざわざスクリプト名を宣言するということは、俺に限定させようってことか。俺を助けるつもりか、それとも逆に陥れるつもりか。
illegal script detected ('sweets_paradise')
id ('white_rabbit')
[仮想野]にハクトのスクリプト発動を示すアラートが輝くより早く、
qualify target=('sweets_paradise')
id=('white_rabbit')
attribute=('amplify'+'amplify')
scope=('white_rabbit'+'mary_ann'+'dodo')
俺はハクトのスクリプトを増幅し、拡散していた。
高く掲げられたハクトの手から四百個のキャラメルが褐色の奔流となって噴出した――ハクトのやつ、自分も食らう可能性があるので『VIVA☆カプサイシン』を避けやがったな。
もともと創出された飴は百個だったが、俺が二重に増幅したので四百個まで増えている。
キャラメルは空中で溶けて一体化し、三枚のキャラメルシートと化した。
シートは高速で飛行し、ハクト、ライデン、サーフェリーの顔面にぴたりと貼りついた。
「――!!」
三人の男たちは言葉にならないわめき声をあげて、シートを顔から剥がそうともがいた。べたべたのキャラメルシートは奴らの目、鼻、口を効果的に塞ぐ。
しばらくは呼吸もできなくなるが、命に別状はない。ハクトが酸欠を知覚して気絶したらスクリプトの効力が消えるからな。
俺は奴らに背を向けて、部屋の扉へ向かった。
巻き込まれなくてもいいトラブルに、すでに巻き込まれ過ぎてしまった。もう、おさらばだ。《バラート》の刺客とも、殺生を何とも思っていないギャング野郎とも、二度と接点を持つつもりはない。
駆け出しかけた俺は――双子の少女たちがいつの間にか部屋の隅でより添っていることに気づいた。同じ顔、同じ風体の二人だが、片方は血の散った布切れを頭に巻いているので区別がつく。マーチは意識がしゃんとしたらしく、強い視線でこちらを睨んでいた。
「あたしたちはいつでも本気でしゃべっているよ」
「あたしたちの言葉は、文字通りの意味なの」
俺の[仮想野]でアラートが明滅する。マーチが名称不明のスクリプトを使い、すかさずヘアがそれを増幅したことがわかる。
「魚はみんな海の中で生きてるよ」
「人間も魚も生き物だよ」
「結論! だから人間もみんな、海の中で生きてる。ドーン!」
ドーンじゃねえよ。そんなめちゃくちゃな三段論法があるか。
と、ツッコむ暇は与えられなかった。次の瞬間、俺はほの暗い水中に浮かんでいたからだ。見渡す限り全方向、どこまでも水だけが続いている。深海か。
溺死に対する本能的な恐怖でパニックになりかけた。俺は必死で水をかき、上と思われる方向へ向かって進んだ。だがいくら泳いでも水面に到達しない。肺が空気を求めて震えた。俺の意思に反して、体が勝手に吸い込もうとした。鼻孔から侵入してきたのは冷たい水だった。苦しさに開いた口から、ごぼっと空気が漏れて上昇していった。
まずい。水が入り込んでくる。苦しい。溺れる。
世界が明転した。我に返ると俺は絨毯に膝をつき、荒い呼吸をしていた。苦痛と恐怖の経験は圧倒的で、現実に戻るのに時間がかかる。
「いったーい。つねるのやめてよ、ヘア」
顔の形が変わるほど頬の肉を引っぱられながら、マーチが抗議した。ヘアはつまむ手を離したが、怒った表情のままだ。
「馬鹿マーチ。このおじさんを助けるためのスクリプトなのに、おじさんまで巻き込んじゃだめでしょ」
「あ、そうだった。あたしを手当てしてくれた人だもんね。うっかりしてた」
「やり直すよ。いい?」
「うん。……宇宙には、空気がないよ」
「地球も宇宙の一部だよ」
「結論! だから地球には、空気がない。ドーン!」
ハクト、ライデン、サーフェリーの三人がのたうち回って苦しみ始めた。
こいつらは今「空気がない」状態を知覚しているのだ。
ハクトが急に動かなくなった。気絶しただけで、まだ死んではいないようだが、顔が紫色だ。チアノーゼを起こしている。
ヘアは俺を見上げ、にっこりした。
「さあ、今のうちだよ、おじさん。早く逃げて」
「……殺すなよ。殺生は魂に消えない穢れを残すぞ。永遠に」
「大丈夫。こらしめてるだけだから。……マーチのスクリプトには『死ぬ直前で停める』っていうルールが組み込まれてるの。だから、死なない」
双子の無邪気な笑顔には、本物の善意があった。
別にこいつらに助けてもらわなくても、自力で三人を制圧して出て行くところだったんだがな。
だが、[茶菓山積]の効果範囲にこの双子は含まれていなかったので、こいつらは男たちの顔に貼りついたキャラメルシートを知覚できなかった。こいつらの目には、暴れている俺たちしか映っていなかったわけだ。
サーフェリーは《バラート》の一員だから、本当は双子はこの男を攻撃しなくてもいいはずだ。
あまり深く考えていないんだろう。そして俺も、それをわざわざ双子に指摘してやるほど親切ではない。
自分の吐いた血にまみれて転がるグリニング・タイガーは、すでにまったく動かなくなっていた。
俺は奴の魂のために短い祈りを唱え、そしてマキヤの居室を後にした。




