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第9章(5) 三月ウサギ

「ふん。てめえもリデルに負けやがったのか」


 サーフェリーがなぜか上機嫌にうなずく。出来の良い部下に満足するボスのような態度だ。


 俺はつっこまずにはいられなかった。


「何だ、その面白い格好は? ついに性病が脳にまで回ったか」

「黙れ、くそ野郎。この城じゃ、全員おとぎ話の服装(コスプレ)をするのがルールなんだよ。ドレスコードってやつだ」

「いかれてるぜ。……そもそも、あんた、こんな所で何やってんだ。あの白いのっぽ野郎を追いかけてるんじゃなかったのか」


 このやくざは教団の始末屋として、ハクトの探索をスナーク博士から命じられていたはずだ。


 サーフェリーは両手のひらを天井へ向け、大仰なしぐさで肩をすくめた。


「《♢A(エース)》にここで張り込めと言われたのよ。あの白い野郎は必ず女王を狙いに来るから、ってな。……敵が現れるまではのんびりしてるつもりだったが、あまりに耳ざわりな泣き言が聞こえるもんでな。つい、黙らせに来ちまったぜ」


 そのせりふに、タイガーはうなだれたままの姿勢から視線だけをぎょろりと動かして見上げた。サーフェリーを睨むその眼に剣呑な光が宿った。


「……そうだニャ。この際、おまえと直接ケリをつけた方がよさそうだニャ」


 LCに執着する男二人が、床に座り込んだままのマキヤをはさんで激しく睨み合った。


 つき合ってられねえ。俺はさっさと引き上げることにした。

 アホどもが女をめぐって決闘したいのなら、勝手にいつまでもやっていればいい。

 サーフェリーがいる限り、マキヤも双子も安全だ。サーフェリーは殺人者であって護衛ではないが――奴が教団でのし上がりたいという野望を抱いている限り、タイガーに女王と上位幹部をむざむざ傷つけさせはしないだろう。


 ドアへ向かって再び歩きかけた俺の[仮想野(スパイムビュー)]を、おなじみのアラートが横切った。


illegal script detected ('tiptoe_step')

id ('mary_ann')


 俺の後上方、直線距離二十五メートルで、誰かがスクリプトを使いやがった。

 後上方二十五メートル、ということは、フランス窓の外だ。


 ログインID[メアリー・アン]。スクリプト名[暗中夜行ティップトウ・ステップ]。

 [暗中夜行]を使った人間は、目には見えるが、[仮想野]に表示されなくなる。相手に気づかれずに接近できる、暗殺や泥棒にうってつけのスクリプトだ。


 俺はマキヤを振り返った。

 マキヤにも《バラート》のセキュリティフィルタがインストールされている。新たなスクリプト使いの出現を感知できたのは、この室内で俺たち二人だけだ。


「おい、おばさん。()()は、あんたの部下か?」


 俺の問いかけに、マキヤは首をふるふると横に振った。心なしか顔色が悪い。


「違う。知らないよ、メアリー・アンなんて。もしかして……」


「LCはもう俺の女だ。未練がましく追いかけるんじゃねえ。ひねり潰すぞ」


 サーフェリーの馬鹿でかい声が広い室内に響きわたった。


「それは、おまえの思い込みニャ、この腐れやくざめ。LCは誰か一人のものになったりしニャい。おまえに利用価値があるから、嫌で嫌でたまらないけど仕方なく、相手をしてやってるだけニャ」


 タイガーが言い返す。サーフェリーは胸をそらせ、鼻で笑った。


「その言葉はそっくりそのままてめえにも返ってくるんだぞ、アホめ。あの淫乱をさんざんよがらせて『他の男じゃ満足できない』と言わせられなかった時点で、てめえの負けだ」

「おまえがあの娘を満足させてるって言うのか? はん、ハッタリだニャ。短小野郎は顔を見ればわかるニャ。……あの娘がおまえのものになったと自信を持てニャいから、そうやって、他の男を必死で追い払おうとしてるんだろ?」

「黙れ、くそが。ぶっ殺されたいらしいな」

「図星を突かれて怒るところが、まさに短小野郎ニャ。人間としての器もアソコも小っちゃいニャ」


 ――何も知らないとは言え、こいつらのんきだな。かなり高い確率で、《バラート》の刺客が窓の外から接近してるんだぞ。


「おい、おまえら気をつけろ。窓の外に……」


 俺が警告を発しかけたとき。

 サーフェリーがタイガーに向かって右腕を伸ばした。


illegal script detected: unknown script

id ('dodo')


 目いっぱい開かれた右手の指が、不吉な意図を秘めてぐっと折れ曲がる。何かをつかみ取ろうとするように。

 唐突に、その掌に桃色の肉塊が出現した。タイガーの肝臓だ。


 サーフェリーはにやりと笑い、優しいとさえ言える声を出した。


「ほれ。受け取れ。てめえにくれてやるぜ。プレゼントだ」

「……」


 タイガーは何度かまばたきをした。苦痛を感じている様子はない。ただ戸惑っているだけだ。

 サーフェリーの差し出している肉塊へ向かって、吸い寄せられるように足を踏み出した。


 その瞬間、俺はこのスクリプトの作動経路の見当がついたような気がした。

 駆け寄って、タイガーの腕をつかんで止めた。


「おっさん、あれを受け取るな。受け取ったら死ぬぞ」

「あれは……僕のものニャ。僕のものだという気がするニャ。だから受け取らなくちゃいけニャい。どうしても……」


 うつろな瞳。うわごとのような声。

 タイガーは俺の腕を振り払った。人間離れした馬鹿力に、俺は吹き飛ばされ、ソファにぶつかった。


 タイガーは夢遊病者のようにふらふらと進み、サーフェリーから肉塊を受け取った。

 そのとたん、サーフェリーが頭をのけぞらせて高笑いした。


「そう。てめえの言う通りさ。それは正真正銘てめえのもんだ……大事な大事な、てめえの肝臓だからよ」


 ぐぼぁ、とタイガーは呻いた。右手で肝臓を握りしめ、左手で口元を押えた。だが口から流れ出してくる大量の鮮血はとても抑えきれるものではなかった。たちまちのうちに手が、顎が、深紅に染まった。ぼたぼたとしたたり落ちる血が奴の足元の絨毯を汚した。次の瞬間、両方の鼻の穴からも血が吹き出した。タイガーの顔の下半分は完全に血で覆われてしまった。


 俺は身を翻し、サーフェリーに殴りかかった。奴の精神集中を断ち、スクリプトを中断させるためだ。

 タイガーを()ることに集中しているサーフェリーはまったくのノーガードだった。俺の拳は頬をとらえ、奴を床に倒した。


 タイガーの手から肝臓が消えた。サーフェリーのスクリプトが停止したのだ。


「遅ぇんだよ!」


 サーフェリーの嘲笑が響く。


 タイガーの体は、肝臓の喪失をいったん信じ込み、それに合わせて変容した。内臓と血管が致命的に傷ついた。その損傷は、肝臓が体内に()()()()()()治るわけではない。


 大量の血をまき散らしながら、中年男はゆっくりと眼球だけを動かし、俺を見た。何も映していないかのような透明な眼だった。そしてそのまま前のめりに倒れた。


 チェシャーサーカスの人気者、グリニング・タイガーの体が無残に痙攣した。


 ――だが俺は奴の断末魔を最後まで見届けてやることができなかった。


「目標確認」


 ひどく事務的な男の声が響き、次の瞬間、俺の[仮想野]でアラートが輝いた。


illegal script detected ('circular_canon')

id ('mary_ann')


 漆黒の男が音もなくベランダに降り立った。上階から垂らしたロープを伝って下りてきたようだ。

 筋肉の塊のような巨漢だった。ウェイトは相当ありそうだが鈍重な感じはしない。黒い服、黒い肌のせいもあって、まるで影が降ってきたように見える。


 こいつが[メアリー・アン]か。

 ぎょろりとした瞳、ふてぶてしい面構えに女性名は似合わない。まあ、俺も人のことは言えねえが。


 [メアリー・アン]が使ったのは[無間童唱(サーキュラー・カノン)]。強烈な不協和音を聞かせて対象者の集中を乱し、スクリプトを使えなくする。《バラート》からの脱走者の処分を任されてる連中がよく使う攻撃手段だ。


 だが、俺は事象変化を知覚しなかった。つまり、[無間童唱(サーキュラー・カノン)]は範囲を絞り込んで発動されている。[メアリー・アン]の狙う相手に。


「こんにちは、マシュマロリボン・シンノウさん。探しましたよ。私は《バラート》の者です」


 巨漢の視線はまっすぐマキヤに向けられていた。

 マシュマロリボン何とかという珍妙な名前は、マキヤの《バラート》での通り名だろう。


「あなたが《バラート》を去って約十九年が過ぎましたが。人類を守るための戦いはまだ世界中で続いています。我々には一人でも多くの戦力が必要です。どうです? 《バラート》に戻る気はありませんか? 今戻っていただければ……無断で脱走したことも、《バラート》の機密文書を持ち出して私利のためにばらまいたことも、不問に付す用意があります。いかがですか?」


 マキヤは、まるで[メアリー・アン]の言葉が耳に入らなかったような顔をしていた。相手のスクリプト[無間童唱(サーキュラー・カノン)]を食らっているなら相当不快な状態のはずだが、それも(おもて)に表していない。表情の欠落したまなざしで、フランス窓の外に立つ黒ずくめの男を見返した。


「一つだけ教えて。ゲイブが……ロセッティ枢機卿が亡くなったというのは、本当なの?」


 意外な質問を受けた、と言わんばかりに[メアリー・アン]は小首をかしげたが、「はい。何か月か前に」と即答した。

 マキヤは、ふうううっ、と細い息を漏らした。


「じゃあ、ボクは、もう生きてたって仕方がない。あの人はボクの魂の片割れだった。ボクは世界に二人のための王国を作ったの。いつの日か二人で治めることができるように。あの人がキングで、ボクがクイーン……」

「その返答は、『《バラート》には戻らない』という意味だと解釈させてもらっていいですか?」

「……ボクたち二人のためのバラ色の王国。もう少しで世界を完全に征服できるところだったのに。あの人がいないんじゃ、もうそんなもの、何の意味もないんだ」

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