第9章(4) 三月ウサギ
「ざまあ見ろ! 僕はちゃんと知ってるんだぞ、おまえらは二人揃ってないとスクリプトが使えニャいんだろ? これで、おまえらも打つ手なしだ。いつも僕がやられるだけだと思うニャよ!」
タイガーは勝ち誇ったように叫んだ。そして、立ちすくんで固まっているマキヤに視線を移した。
「久しぶりだニャ、マキヤさん。どうしてもあんたに言ってやりたいことがあったんだ。今日は邪魔者抜きで話せるニャ」
タイガーが大股に歩み寄る。それと同じ歩数だけ、マキヤが後ろへ下がった。貞操の危機にさらされた乙女よろしく、ブラウスの胸元を懸命にかばっている。
「ああ、もう、絶望しかないよ。自分の魅力が恨めしい。望まないのに男を引きつけてしまう、この体質が恨めしい! どんなに深く隠れても、情欲に燃えたけだものがこうやって次々と寄ってくる。ボクには平穏な生活は許されないの? 好きで美しく生まれたわけじゃないのに!」
「黙れ、このいかれババア。何が情欲ニャ」
「キミなんかの毒牙にはかかってあげないよ、おあいにくさま。ボクにも選ぶ権利はある。ヘア! ボクに力を!」
illegal script detected ('crazy_rhetoric')
id ('beautiful_dreamer')
マキヤのものと思われるスクリプトが俺の[仮想野]で明滅する。
スクリプト名は[空言遊戯]。LCと同じスクリプトだ。
だが驚いたことに、表示されたアラートはそれだけではなかった。
illegal qualification detected
target=('crazy_rhetoric')
id=('beautiful_dreamer')
attribute=('amplify')
ほぼ同時にひらめいた第二のアラートメッセージ。
誰かがマキヤのスクリプトを限定しやがった。
それはどうやら、涙で濡れた目でタイガーを睨みつけている双子の生き残り、ヘアだ。
ヘアによって増幅されたマキヤのスクリプトが、タイガーに襲いかかる。
タイガーが呻いて頭を抱え込んだ。立っていられなくなり、床に膝をついた。苦しげに顔を歪めている。
このおっさんには、空間を埋め尽くす大量の文字列が見えているんだろう。
俺はカリガート公会堂でLCのスクリプトを食らったときのことを思い出した。あの脳味噌をかき回されるような激痛は強烈だった。あれを食らえば、自分のスクリプトを発動させるどころではない。
マキヤの鋭い視線が俺に移動した。
「ねえ、《♠10》。キミも、このまま返してあげるわけにはいかないな。ボクに意地悪をするために、ティリーを《バラート》に引き渡すなんて言うんだもの。あの子をボクに返す気になるまで……這いつくばらせてあげるっ!」
マキヤ、そしてヘアから伝わってくる攻撃の気配。
illegal script detected ('crazy_rhetoric')
id ('beautiful_dreamer')
マキヤの[空言遊戯]を、俺はヘアより速く限定した。
作動原理がわからなくても、《バラート》のデータベースに登録されているスクリプト名さえわかれば限定できる。
qualify target=('crazy_rhetoric')
id=('beautiful_dreamer')
attribute=('amplify'+'direction:reverse')
マキヤ自身のスクリプトの威力は弱そうだと予測できたので、増幅した上で反転。
ふべらっ、というような悲鳴をあげてマキヤが体を二つに折った。
痛みは一瞬だったはずだ。己のスクリプトを食らった瞬間、その苦痛でスクリプトを維持できなくなったはずだからだ。だがマキヤは「あー、頭痛いよ痛いよ、割れちゃうよ」と泣きわめきながら、みっともなく床の上を転がり回った。
マキヤのスクリプトから逃れたタイガーが、苦痛の残滓に息を荒げながらのろのろと立ち上がった。足がふらついている。
俺は双子に歩み寄った。倒れているマーチは、死んだわけではなさそうだ。出血量は多いが、息はある。かつらを慎重に外してみた。褐色の地毛が現れた。頭皮がばっくりと裂けている。タイガーのやつ、こんなガキ相手に容赦ねえな。
かつらはどっしりと持ち重りがし、分厚い。これが少女の頭を守る役割を果たしたことは間違いなかった。
かつらがなければマーチは、本当に殴り殺されていたかもしれない。
ざっと室内を見回したところ、いちばん清潔そうに見える布地は、テーブルのティーセットにかぶせられたナフキンだった。それと引き裂いたテーブルクロスを使って、マーチの頭の止血をした。少女が軽く呻いた。
ヘアが食い入るような目つきで俺の手元をみつめていた。
「おじさん。……マーチ、助かる?」
真剣な瞳が見上げてくる。
「そう簡単には死にやしねえだろうが、頭だからな。早いとこ医者に見せた方がいい。ここには医療スタッフは常駐してるのか?」
「お医者は、いつも町から来てもらってる」
「じゃあ電話で連絡しろ。連絡先を知ってるか」
ヘアはこくりとうなずき、「お城の管理室なら」と言い残して、ドアへ向かって駆けていった。
俺が視線を戻すと、タイガーと床に座り込んだままのマキヤが今にも第二ラウンドを開始しそうな様子で睨み合っていた。
めんどくせえ。俺は二人の間に割って入った。
「おい、おっさん。もう帰るぞ。俺はあんたと手を組んだことを後悔してる。今度消えるスクリプトを使おうとしたら、ぶん殴るからな」
「……暴力的だニャ、君は」
「あんたに言われたかねえよ。それから、おばさん。俺たちを攻撃しようとするな。あんたのスクリプトは俺には通用しない。そのことは、もうわかってるよな?」
「……『おばさん』だなんて。ボクに気持ちが動きかけてるのをごまかすため、わざと乱暴な口をきいてるんだね。気にしないよ。ボク、そういうのには慣れてるから」
俺はタイガーの襟首をつかみ、ドアへ向けて引きずっていこうとした。
タイガーが抵抗した。
「ちょっと待つニャ。まだ、僕の方の話が終わってニャい!」
「知らねえよ、そんなこと」
「この女に、どうしても言ってやらなくちゃならないニャ。……マキヤさん。いくら教団のためだからって、どこまでLCをこき使ったら気が済むニャ? あの娘が今どんなヤバい野郎とつき合ってるか知ってるのか? あんた母親だろ? わが子が心配じゃニャいのか?」
俺は思わずタイガーからマキヤへ視線を移した。
マキヤはスカートの裾を懸命に引っ張り、「脚を男の視線にさらしたくない」という小芝居に励んでいる。その顔には、真実の内心を何一つ表さないとりすました仮面がへばりついていた。
――タイガーのせりふに、俺は驚きを感じなかった。すでに察しがついていたことだった。
だがその瞬間初めて、「LCもマキヤの子だとすると、ティリーの《原型》はLCかもしれない」という可能性が頭に浮かんだ。
もちろん百パーセントの可能性ではない。マキヤにはLCとティリー以外の子がいるかもしれない。
俺は、つかんでいたタイガーの襟首を離した。
タイガーはマキヤに向かって一歩踏み出した。
「LCはな、この街で最悪のギャングのボスに体を与えてるんだぞ。そいつに教団の仕事をさせるために。あの娘は優しいから、母親のためだったらどんな嫌なことでも我慢できるニャ。……あんた恥ずかしくニャいのか!? 娘にそんなことまでさせて!」
激昂するタイガーに対し、マキヤの白い顔はあくまで冷ややかだった。
「キミは勘違いをしているよ、猫ちゃん」
理解の鈍い相手に言い聞かせるような、いかにももったいぶった尊大な口調。
「残念ながら、LCちゃんとボクはそんなに仲が良い親子じゃない。昔からLCちゃんが好きになる男はみんなボクに夢中になってしまうので、彼女はボクを一方的に恨んでるのさ。『ママに彼氏を盗られた』って」
「嘘つけ! LCよりあんたみたいな性悪不細工を選ぶような男なんか、この世にいるはずないニャ!」
「LCちゃんはボクのために自分を犠牲にしたりしない。あの子が荒れた生活を送ってるのはむしろ、ボクに対する当てつけだよ。ふだんから芸術に触れたり、社長や芸能人や、そういう一流の人たちとつき合ったりして自分を磨いてほしい、というボクの希望に、わざと逆らってみせてるんだ。『私もママと同じぐらいモテるのよ』というアピールかもしれない」
流暢に繰り出される女の毒に圧倒され、タイガーは反論の言葉を思いつかないらしい。体の脇で拳を握りしめ、口をぱくぱくさせている。
マキヤはふうっと芝居がかかったため息をついてみせた。
「困った子だよね。かたっぱしから男と寝ることでしか自分を証明できない。自暴自棄になってるのかな……そうでもなきゃ、キミみたいな不格好なダメ男を相手にするはずないものね」
「……!」
タイガーがびくりと肩を震わせた。
「……わかってるニャ。あの娘が僕に近づいてきたのは単に、僕を《ローズ・ペインターズ同盟》に入れたかったからだって。僕が入団したとたん、あの娘は全然デートしてくれなくなったからニャ。……僕はろくでもない男ニャ。あんな若くて可愛い子には釣り合わニャい……」
声がだんだん小さくなっていく。虎の尾が力を失って垂れ下がるのが目に見えるようだ。
「ふーん。キミみたいな人間でも、正しく自己評価できる程度の知性は持ち合わせてるんだね」
「でも、LCは……本当は純粋で優しい子ニャ。サーカスは夢の国みたいだから大好きだって言ってた。うちの団員に何度も手作りのお菓子を差し入れてくれた。目をきらきらさせて僕たちのショーを観てた。あれは絶対に嘘じゃなかったニャ。……あんたが悪いニャ、マキヤさん。あの娘は幹部をスカウトし、教団に引き留めておくために、どんな男とでも寝るけど……好きでやってるわけじゃニャい。きっと心で泣いてるニャ。あんたはそれで平気ニャのか。それでも母親か。わが子を自分の野心のための道具に使うニャんて……!」
「聞いてられねぇな、《♠10》。捨てられた男の繰り言はみっともねえぞ」
控えの間に通じるドアが開くのと、嘲りをしたたらせた男の声が響くのとは同時だった。
ルーラント・サーフェリーがにやにや笑いながら現れた。こいつもマキヤに負けず劣らずの珍妙な服装をしてやがる。原色の水玉が散った白い服、紅白の縞模様のシルクハット。伝統的な道化師の格好だ。
その襟元に♣(クラブ)のバッジが輝いている。
「……もう今は《♠10》じゃニャい。《♠9》ニャ」
タイガーが視線を絨毯に落としたままぽつりと訂正した。




