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第9章(1) 三月ウサギ

「もしそれがおなじだったら、『食べるものはなんでも見える』でも『見えるものはなんでも食べる』でもおなじだということになる!」

「同様に」と、三月ウサギがつけ加えました。「『もらえばなんでも気に入る』でも『気に入ればなんでももらう』でもおなじだということになる!」


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)

 門扉を抜けるとだだっ広い庭だった。門から白亜の建物に向かってまっすぐ小道が伸びており、その左右では色とりどりの花が咲き乱れていた。小道を遮るようにして、庭の中央に巨大な噴水が設けられている。


 入場料を取ってもいいぐらい立派な庭だった。甘い花の香りが空気に満ちている。


 だが、自然の美をのんびり愛でている状況ではなかった。花といっても植えられているのは高さ一メートルを超える灌木ばかりで、そこそこ視界を遮ってくれる。俺たちは身をかがめるようにして、灌木の合間を疾走した。


「『サーカス男』が侵入したぞ!」

「探せ! 必ず見つけ出せ!」

「用心しろ!」


 殺気立った叫び声がメルヘンな花園に交錯する。大勢の武装した警備員が庭を駆け回っている。


 突然、俺たちの目の前に警備員の一人が飛び出してきた。二メートルにも満たない至近距離だ。


 俺は反射的に、相手を殴り倒すために拳を固めていた。


 だが警備員はこちらを見ようともせず棒立ちのままだ。回避が間に合わず、俺たちは疾走の勢いのまま警備員に正面からぶつかった。男はあっさりと吹き飛び、仰向けに地面に倒れた。



 ――対決らしい対決といえばそれだけだった。俺たちは通用口を蹴破って城の本館に侵入し、使用人向けの狭いごちゃごちゃした区画を駆け抜けた。調理室や事務所、警備員詰所などを通過したが、城の使用人たちは俺たちに気づきもしなかった。


 狭い場所ばかり選んで進むのは、「二十五メートル以上離れた所から見られる」状況を避けるためだ。

 長い直線の廊下、だだっぴろいホールや大広間。そういう開けた場所はタイガーのスクリプトにとっては鬼門だ。


 前方から駆けてきた警備員ときわどくすれ違った。タイガーが突然足を止め、振り返った。


「あー。あいつ、こないだ来たとき僕を蹴った奴だ。……追いかけていって殴ってもいいかニャ?」

「よせ、おっさん。起こさなくてもいいトラブルを起こすな」

「トラブルにはならないニャ。僕たちが二十五メートル以上離れるまで、奴は自分が殴られたことにも気づかないんだから」

「遊びに来たんじゃねえ、って言ってんだ。先を急ぐぞ。教祖の部屋はどこにある?」

「本館を通り抜けた奥にある主塔の四階ニャ」


 ようやく先導役としての立場を思い出したらしく、タイガーは警備員の後ろ姿から目を離し、再び駆け出した。


「主塔の一階には出入口がない。本館(ここ)の三階と渡り廊下でつながっているから、主塔に入るにはその渡り廊下を通るしかニャいんだ」

「……向こうとしては、渡り廊下の警備を固めるだけでいいってことか。厄介そうだな」

「なーに、大丈夫ニャ。警備員なんか何人いたって同じニャ」


 俺たちは螺旋階段を三階まで駆け上り、見るからに安っぽい建材でできた殺風景な廊下を通り抜けた――どうやらこの城は、豪華なのは外側だけで、来訪者の目につかない所は質素にこしらえてあるようだ。

 廊下のつき当たりに金属製の扉があった。

 タイガーはその扉を細く押し開けて向こうをのぞき、すぐに扉を閉じた。


「何やってる? 向こうに何があるんだ?」


 謎の教祖にもうすぐ会える、という期待にはやっている俺は、タイガーのためらいにいら立ちの声を浴びせた。

 [仮想野(スパイムビュー)]で状況を確認してみると、扉の向こうに十二人の人間がいることがわかった。全員が男で、年齢分布は二十代から四十代までだ。俺たちを待ち構えている警備員だろう。


 タイガーのスクリプトのおかげで、警備員どもの[仮想野]には俺たちは映っていない。


「ついてないニャ。今日はあいつら(・・・・)が起きてる。……あいつらのお昼寝タイムを狙って来たつもりだったんだけどニャ」


 タイガーは芝居がかったため息をついてみせた。

 俺は敵の気配を求めて、[仮想野]全体を慎重に探った。異変は感じ取れない。半径三十メートル内に存在している人間は、扉の向こうの警備員たちだけだ。


「『あいつら』ってのは何者だ?」

「《♠J(ジャック)》と《♠Q(クイーン)》ニャ。渡り廊下の向こう端に立ってこっちを睨んでる。廊下は長いから、僕のスクリプトは奴らに届いてニャい。だから、その扉から顔を出したら奴らに見つかるぞ」


 常にへらへらしているタイガーが、《♠J》と《♠Q》に発見されることを本気で恐れているようだ。


「どういうスクリプトを使う連中だ? あんた、やり合ったことがあるんだろ?」

「あいつらは、言葉で世界を変えるんだ。世界があいつらの言葉の通りになる。だから何でもありニャ。いきなり水の中へ落とされたり天井に押しつぶされたり……どんなことだって起こり得る。戦ったらいつも、殺される寸前までいくニャ」

「……その事象変化に、法則はないのか? パターンのようなものは?」

「さあニャー。いつも、考える間もなくこてんぱんにされちゃうからニャー。……ああ、一つだけ。奴らは二人ペアでないとスクリプトが使えないみたいニャ。二人で言葉のキャッチボールをしながらスクリプトを使ってくるんだよ。だから、不意打ちでどちらか一人を先に倒せれば、奴らのスクリプトを封じられるんじゃないかニャ」


 そこまでしゃべると、タイガーは両手を腰に当てがって胸を張り、「作戦会議はここまでニャ。それじゃ行くぞ」と言い放ちやがった。

 俺はあわてて、扉を開こうとするタイガーを押しとどめた。


「待ておっさん。まだ何の作戦も決まってねえぞ」

「ん? ちゃんと言ったじゃニャいか、『片方を先に倒す』って」

「作戦それだけかよ」

「そうニャ。あとはいつもの手順で」

「いつもの手順って何だ。まさか、また俺に囮になれっていうのか?」

「その通り~~~♪ あ、そう言えば、まだターゲットを決めてなかったニャ。狙うのは《♠J(ジャック)》にしよう。あいつの方がアホっぽいから倒しやすそうニャ。それじゃ、いっくニャー」


 高らかに宣言して、タイガーは扉を大きく押し開けた。


 扉の向こうは、半円形のテラスになっていた。テラスの先端から渡り廊下――と言うよりむしろ、屋根つきの橋――がまっすぐ伸びて、主塔と思われる白い塔につながっている。

 テラスは見渡す限りのバラ園の上に張り出していた。常花種(エバーブルーム)らしく、冬だというのにバラは満開だ。濃緑の中に点在する無数の真紅と白と黄。

 むさくるしい警備員どもで埋め尽くされていなければ、このテラスからの眺めは最高だっただろう。


 扉を囲む半円を描いてテラスいっぱいに警備員たちが展開していた。全員が銃を構えている。


 タイガーはいつの間にか「消える」スクリプトを解除したようだ。というのは、警備員たちは戦意あふれる目つきでこちらを睨み据えていたからだ。――奴らには俺たちが認識できているのだ。

 十二個の銃口が俺たちに狙いを定めていた。


 次の瞬間、俺の[仮想野]をアラートがよぎった。


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 id ('cheshire_cat')


 おどけた様子で「バイバイ」の手を振りながら、タイガーの姿が俺の隣から消えた。


 くそっ、いかれ親爺め。武装警備員十二人を、本当に俺一人に押しつけやがった。誰かを倒すより先に、まずこの猫野郎をぶん殴ってやりたい。


 俺は頭上の空を眺め、ひとまず気持ちを落ち着かせようと努めた。

 青地のキャンバスに軽く筆を走らせたような雲が、のんきに俺たちを見下ろしていた。


 近距離で銃を突きつけられるのは確かに良い気分じゃないが、俺は恐怖を感じていなかった。[収納自在イージー・コントラクション]を二重発動させて相手の両手両足を縮めてやれば、一瞬で片がつく。


 問題は、屋根つきの橋の向こう側に立ってこちらを睨んでいる、《♠J》と《♠Q》と思われる二人連れだ。


 橋の長さはきっかり三十三メートル。その向こうに佇んでいるのは、驚いたことに、子供だった。十歳前後の少女。

 一卵性双生児らしく、鏡で映したように同じ顔をしている。二人とも、明らかにかつらと知れる、極端に量の多い白髪のおかっぱ頭をしており、全身を白いレオタードに包んでいた。遠くから眺める限り、二人を区別する手がかりは何もなかった。


 《♠J》と《♠Q》というから、なんとなく男女のペアを想像していたのだが。これじゃどちらが標的の《♠J》かわからないじゃねえか。タイガーのアホめ。



 状況は厄介だ。警備員を片付けても、スクリプト使いの少女たちを倒せる見通しが立たない。

 奴らは、俺が橋を渡る間じっと待ち構えていて、二十五メートルまで近づいた瞬間スクリプトを使ってくるだろう。タイガーを毎回「こてんぱんにする」というスクリプトを。


 手の内がわからない。手足を縮めたぐらいで奴らを制圧できる保証がない。


 だが――ちょっと待てよ。こいつらは本当に「敵」なのか?


 マキヤが警戒しているのはタイガーだ。表の庭を駆け回っていた警備員も「サーカス野郎を探せ」とわめいていた。初見の俺に対して敵意はないはずだ。

 ここはなんとか、話し合いで切り抜けられないだろうか?


 タイガーが傍らにいないこの状況は、俺にとってはむしろプラスかもしれない。


「待ってくれ、撃つな。怪しい者じゃねえ。俺は《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部の《♠10》だ」


 俺は大声を張り上げ、戦いの意思がないことを示すために両手を高く上げてみせた。

 上着の襟につけたスペード型のバッジが相手の注意を惹くことを願う。


「勝手に中へ入っちまったことは謝る。城門が開いたままになってたから、つい入り込んじまったんだ」


 ――そんな嘘が通用するとは、俺も期待していない。

 もし門番からの報告が上がってきていれば、俺が手足を縮めるスクリプトで強引に門を突破したことは知れ渡っているはずだ。


 だが、完全にだませなくてもかまわない。大事なのは「完全な黒」から「グレーゾーン」ぐらいにまで持ち込むことだ。あとは勢いで何とか押し切る。


 期待通り、半数程度の警備員の顔に混乱が浮かんだ。どうすればよいのか考えあぐねている様子だ。


「女王に大切な話があるんだ。ティリーのことで。……会えないかどうか訊いてみてくれ」


 俺はためらっている男たちのただ中へ爆弾を放り込んだ。

 ティリーの名前は切り札になる、という確信があった。


 だが警備員たちの態度は俺の予想とは異なっていた。


「ティリー? なんのことだ」

「女王様は誰にもお会いにならない。さっさと出て行ってもらおうか。不法侵入で警察に突き出されたくなければな」


 警備員たちは再び完全な臨戦態勢に戻った。表情に敵意がみなぎり、俺を狙う銃口は揺らがなかった。こいつらは本当に、ティリーという名前に心当たりがないようだ。


『……教祖マキヤ・アスドクールの末娘。死んでるように生きてるの。宮殿の庭園の隅っこにある、綺麗に飾りつけられた牢屋で』


 ティリーのことをそう言っていたLCの言葉は嘘だったのか?


 その可能性は十分すぎるほどにある。

 ティリーが本当に教祖の子なら、警備員たちが知らないはずはない。LCの言っていたことは何もかもがでたらめで、ティリーは教祖とは無関係なのか?


 内心で急速に膨れ上がる焦りに、俺は唇を噛みしめた。

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