第1章(3) リデル
夕方、俺がアパートに戻ると、階段のいちばん下の段にアリスがちょこんと腰を下ろしていた。女児は、歩み寄る俺を大きな目で見上げた。
俺は思わず舌打ちした。
――事態は思ったより深刻だ。
あきらめてどこかへ行っちまうか、探しに来た親に連れ戻されているんじゃないかと期待していたのに。
この子供は一日中ここに座って俺の帰りを待っていたのか。
たかが傘を貸したぐらいで、そこまでなつかれる筋合いはないんだが。
アリスの不自然なほど赤い頬、速い呼吸が俺の注意をとらえた。
俺の意識の動きに呼応して、[仮想野]が相手のバイタルデータを表示する。体温38.1度。脈拍110回/分。呼吸数29回/分。風邪をひいているらしい。
「おい、おまえ。家へ帰れよ。このままじゃ熱が上がってぶっ倒れるぞ。なんなら送って行ってやる。家はどこだ?」
そう言ってやったが返事はない。アリスは表情のない顔で俺を見上げ続けている。
風に乗って、アリスの方から小さいがはっきりと「ぐう」という音が届いた。
――たぶん昨夜からずっと何も食ってねえんだな。腹が鳴るのも当然だ。
風邪をひいた腹ぺこの子供。
俺は髪をかきむしりたい気分だった。
《バラート》に見つからないよう偽造IDで暮らしている身としては――そして、泥棒の手助けをするためギャングの金庫の情報を集めようとしている身としては、警察とはできる限り距離を置きたいんだが。目の前の子供をこれ以上放っておけない。
親とはぐれた子供を保護するのは警察の仕事だ。
俺は通りで馬車を拾い、アリスと共に乗り込んでコルカタ中央署へ向かった。
コルカタ中央署は、ダルハウジー広場に面して建つ、いかにもお役所らしい建物だ。
署内はどこもかしこも真新しいぴかぴかの有機合成素材でできており、人間の目にはちょいとまぶし過ぎる純白で統一されている。見晴らしの良いフロアはとてつもなく天井が高く、何本か配置されている柱は無駄に太く、一面の壁がすべて透明になっているので緑豊かな広場の様子がよく見て取れる。
すべてが壮大すぎる館内を歩いていると、豆の木を登って巨人の家に迷い込んだジャックの気分になる。[ダイモン]から人的統治機関に支給される特別公式建物はどれも、こんな感じだ。
閉庁時刻が近いので、だだっぴろいフロアに人影はまばらだ。
生活安全課のカウンターの奥から、絵本に出てくる悪役オオカミをそのまま具現化したような男がこちらを睥睨していた。凶悪きわまりない三白眼。めくれあがった唇からのぞく、牙みたいに尖った歯。獣じみた体毛。
中央署には何百人も警官がいるだろうに、なんでよりにもよってこんな人相の悪い奴を、市民の窓口である生活安全課に配属したんだよ。
こんなパンチの利いた顔した男が近寄ってきたら、迷子、泣くだろ。いや迷子じゃなくたって泣くだろ。
オオカミ警官は、終業ぎりぎりに仕事を持ち込まれて迷惑がっている様子を、隠そうともしなかった。
「昨日からうちの前にずっと立っている。名前を聞いても答えない。迷子だろうから警察で保護してくれ」と言いながらアリスをカウンターの方へ押し出すと、警官は大きな口を不機嫌に歪めた。
どこから齧ってやろうかと吟味しているようにしか見えない目で、ゆっくり俺たちを見比べる。
公務員には、俺たち一般市民よりも、はるかに多くの情報が開示されている。たぶん警官の[仮想野]には俺たちのID情報まで映っているはずだ。
相手がいつまでもこちらを凝視するのをやめないので、俺は居心地が悪くなってきた。俺のIDは下っぱ警察官が雑に調べた程度で偽物とバレるほど安い造りはしていないが、それでも、万が一ということがある。
やがて、オオカミ警官の口から飛び出したのは、意外な言葉だった。
「この子、ID情報がありませんね。戸籍登録されてないみたいだ、世界のどこでも」
「IDがない?」
思わず、聞き返さずにはいられなかった。警官はおざなりにうなずき、
「それに、この子に該当するような捜索願も出されていない。ちょっと、厄介ですよ」
そう言いながら、扉のようになっているカウンターの一部を押し開けてこちらへ出て来た。アリスに歩み寄ってくる。
「アリス……ちゃん? 下の名前は何ていうの?」
アリスが意外なほどすばやい動作で移動し、俺の後ろに隠れた。
小さな手が俺のシャツの背中をぎゅっと握りしめた。
子供に避けられるのには慣れているのか、警官はそれ以上距離を詰めようとはせず、平然と質問を続けた。
「うちはどのへん? きみの家の近くに何があるか、お兄さんに教えてくれないかな? パパかママのお名前は?」
「……」
背後からは何の答えも聞こえなかった。
オオカミ男は、面倒なことになった、という内心を露骨に顔に表して、ため息をついた。
「ID情報もないし、本人が名前も教えてくれないのじゃ身元の確認のしようがない。[補助大脳皮質]スキャンをかけるしかありませんね」
すべての人間は、頭蓋内に[補助大脳皮質]と呼ばれる器官を持っている。生後半年以降、ナノマシンにより神経細胞の一部を人工神経と置換する処置を受け、形成されるのだ。
地球全体をあまねく覆い尽くす電脳ネットワーク[ダイモン]と常時接続している我々人間は、ネットワークから送り込まれる大量の情報を処理し、また知覚した情報をネットワークに送信するためのインタフェースとして、[補助大脳皮質]を必要とする。流通する情報の量が圧倒的で、自前の大脳皮質ではとても処理しきれないからだ。
[補助大脳皮質]には、人間から[ダイモン]への送信内容の履歴がすべて保存されている。
つまり、[補助大脳皮質]の中身を分析すれば、その人間のすべてがわかるといっても過言ではない。
「ご苦労様でした、リデルさん。あとは警察の方で処理します。あなたはもう帰ってくださって結構です。場合によっては、詳しく話を聞かせてもらうかもしれないんで……しばらくは市外へ旅行へ出ないようにしてもらえますか」
俺に向かってそう話しかけながら、オオカミ警官は腕を伸ばし、俺のシャツをつかんでいるアリスの手を離させようとした。
アリスの反応はすさまじかった。
「いやああああああああああっ!」
けたたましい悲鳴が広大なフロア中に響きわたった。
丸一日何も食ってない、風邪をひいて熱がある子供とは思えないほどの大音声だった。
俺のシャツの背中が激しく引っぱられた。少女がしがみついているのに違いなかった。
「いやっ、いやっ、いやああああああっ!」
悲痛な叫びが高い天井にこだました。フロア内にいたすべての人間がこちらを振り返った。
二人の婦人警官が駆けつけてアリスと俺をなんとか引き離したが、その間アリスはずっと泣き叫び続けていた。本気の涙が青い瞳から次々とこぼれ落ちた。あまりの抵抗ぶりに「あんた本当はこの子と知り合いじゃないんですか」とオオカミ警官に疑いの目で見られたが、俺はきっぱり否定した。
冗談じゃねえ。これ以上、関わり合いはごめんだ。
アリスは大泣きしながら婦人警官に別室へ引っぱって行かれた。
――警察署を出ても、泣き声がいつまでも耳に残り、後味が悪かった。とてつもなくひどい事をしたみたいな気分だ。自分になついている子供を、こちらの身勝手で切り捨てたかのような。そんなのではまったくないのだが。
アリスが俺と離れるのを嫌がって泣いたなんて、そんなことがあるはずがない。
おそらく、凶悪な面相の警官にいきなり手をつかまれたのが怖くて泣いたんだろう。俺が引け目を感じる必要はない。
アリスのことは、もう警察の仕事だ。
ぽろぽろ涙をこぼす幼い顔が目に浮かぶが、俺には関係ない。忘れちまおう。