第8章(2) チェシャ猫
タイガーは頭上で手を組んで大きく伸びをしてから、
「君、マキヤさんと会ったことはあるかい」
と、やけにはっきりした口調で尋ねた。
――この男は教祖のことを《女王》様とは呼ばないんだな。
いずれにしても、答えに迷う質問ではない。「いや、一度も」と俺が答えると、タイガーはわかっていたとでも言うように何度もうなずいた。
「あの人最近、教団の運営に興味なくしちゃってるからニャー。昔はよくコルカタまで来て、新入りの幹部と面談してたものだけど。で、どう? マキヤさんと会ってみたいかい?」
「ああ。会えるもんなら、会ってみてえな」
これも即答だった。ティリーのことは母親であるマキヤに尋ねるのが一番だ。
「じゃあ、僕と一緒にマキヤさんに会いに行かニャいか。僕はあの人の城の場所を知ってる。どうしても、あの人に言ってやりたいことがあるんだよニャー」
「なんでわざわざ俺を誘う? 場所を知ってるんなら一人で行きゃいいじゃねえか」
「そりゃあ、だって、城は警備が厳重だから。戦える連れがほしいんだニャ。……城にはいつも幹部の《♠J》と《♠Q》が詰めてる。僕一人であいつらとやり合うのは心もとニャい」
タイガーのにやにや笑いは、着ぐるみをかぶっている時と同じぐらい本心を読ませない。
俺は反論した。
「初めから、戦うこと前提かよ。普通に会いに行けねえのか? 俺たちはいちおう教団の幹部だ。教祖にとっちゃ味方のはずだ。戦う理由なんかないだろう」
俺の言葉に、タイガーは芝居がかったしぐさで肩をすくめ、首を横に振ってみせた。
「マキヤさんは誰にも会ってくれニャいよ。あの人、本気で信じてるんだ……自分は生まれつき、男を引き寄せずにおかない特殊なフェロモンを放出してるって。街中で暮らしていると、次々と男に惚れられ、時には襲われたりもするから危ないって。前々から身を守るため親衛隊を連れ歩いてたんだけど。とうとう被害妄想が高じて、城を作って閉じこもってしまったニャ。お金がたっぷりあるからこそできることだよね。だから、あの人に会おうと思ったら、強行突破が必要なんだ」
「……」
この男の言葉をどこまで信じてよいのかわからない。だが選択の余地はなかった。
「わかった。行こう」
きっぱりと答えた。
そうこなくっちゃー、と軽薄な口調でつぶやき、タイガーは歩み寄ってきて右手を差し出した。俺たちは握手を交わした。奴の垂れたまぶたが痙攣のようにまたたいた。
「一つ訊いてもいいかニャ、《♠10》」
「何だ?」
奴は握った手をなかなか離そうとしない。
「……君はLCと寝たのかい?」
顔にはまだ薄っぺらい笑みが張りついているが、目は少しも笑っていない。
俺は奴の手を振り払おうとした。
「寝てねえよ。いい加減その手を放せ」
「……誘われニャかった?」
「誘われたら誰とでも寝なくちゃいけねえのか。ふざけんな」
タイガーはぱっと俺の手を離した。
「そっかぁ。――喜べよ、《♠10》」
「何をだ?」
「君はたった今、命拾いしたんだ。君の答えによっちゃ、僕はマキヤさんの城に君を置いてきぼりにするつもりだったからニャ」
――面倒臭さが加速する。この教団の連中はどいつもこいつもLCにこだわり過ぎだろ。
とりあえず、タイガーと俺の間には協定が成立した。そしてこの男をやはり完全に信頼してはいけないことも明らかになった。
『媽媽的店』のディナータイム。オーナーの人柄のせいもあって、この店は静かに上品に食事を楽しむ場所ではない。違うテーブル同士の客でさえ大声で会話を交わしており、店内はいつも騒々しい。
国民的行事『コートボール』が近づいている今日この頃は、クリケットの話題が白熱し過ぎて、乱闘でも起きかねないほどの盛り上がりぶりだ。
俺たちはいつもの窓ぎわのテーブルに座っていた。
俺はティリーに向かって、「明日は帰りが遅くなる。夜中か、下手すると次の日の朝になるかもしれない」と説明した。
「なんだったら茅尚ママの家に泊めてもらうか?」
――茅尚ママは、いつでもティリーを預かると約束してくれているのだ。ティリーもママにはなついている。誰もいないアパートで丸一日留守番しているよりはいいだろう。
ティリーは首を横に振った。あどけなくふくらんだ頬にかかる髪が、勢いよく揺れた。
この子供は俺の行動にどこまで勘づいているのだろう、と思う。俺が《ローズ・ペインターズ同盟》に食い込んでいることを、ティリーは知らないはずだ。俺はティリーのいる前で例のスペード型の幹部バッジを身につけたことはない。だがどういうわけか、こいつにすべて見抜かれているような気がしてならない。
女児は口を開いた。数日ぶりに聞く声が飛び出してきた。
「ずっと、一緒。……一緒がいい」
囁きのようなかぼそい声だったが、そこに込められている感情は痛々しいほどだった。
こいつは悟っているのではないか。俺がこいつを手放す方法を求めて、明日こいつの母親に会いに行こうとしていることを。
くそっ、心が痛む。情に流されそうだ。
俺みたいな立場の人間は、いつまでもガキなんか連れ歩いていられない。俺の所在をハクトがつきとめたということは、《バラート》の他の追手にもつきとめられる可能性があるということだ。とりあえず、なるべく早くコルカタを後にする。一人に戻って、世界の反対側まで逃げのびる。この先レジィナの追悼ミサを依頼する時は、潜伏場所から遠く離れた教会まで行くことにしよう。
「置いてきゃしねえよ。ちゃんと戻ってくる」
少なくともこの言葉は嘘ではないと自分に言い聞かせながら、金髪頭をぽんぽんと叩いてやった。
チェシャーサーカスの休演日に、マキヤ・アスドクールの住む「城」を訪れる約束になっていた。俺はコルカタ中央駅でタイガーと待ち合わせ、西へ向かう列車に乗った。
タイガーはもったいぶって、行先を明かそうとしない。
「教祖の城ってのはどこにあるんだ」
と尋ねたが、いつものにやにや笑いのまま「僕がマキヤさんと初めて会ったのは四年前のことニャ」と、全然関係のない話を始めた。
「うちの公演を、マキヤさんがたまたま見に来たんだよ。どういう仕掛けか知らニャいけど、マキヤさんには、誰かがスクリプトを使うとそれが『見える』らしい。その日の夜に僕のテントを訪ねてきてさ、『君は今日スクリプトを使ったね』ときたニャ。当時、僕はスクリプトなんて聞いたことがニャかったから、正直『頭おかしいんじゃニャいのか、このおばさん』と思ったんだけどね。マキヤさんは全部説明してくれた」
車窓から差し込む日光を片頬に受け、タイガーの顔は普段よりいっそう仮面らしく見える。
「……そのまま《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部にスカウトされたニャ。僕は宗教にはあまり興味がニャかったんだけど。幹部になったらお金くれるって言うし。サーカスの経営にはお金が要るから、幹部を引き受けたニャ」
――スクリプトが使われたら「見える」ということは、マキヤの[冗長大脳皮質]にもセキュリティフィルタがインストールされている、ということだ。つまりマキヤは《バラート》の元メンバーだ。
列車の旅は長かった。世間話をするような間柄でもなかったので俺たちは口をつぐんで窓の外を見やった。沈黙が時の経過を余計に遅く感じさせた。
コルカタを出た時には多かった客もほとんどが近郊の駅で降りてしまい、車内には数えるほどしか客が残っていなかった。
窓の外には典型的な《郊外》の風景が広がっている。冬の弱々しい日光が降り注ぐ、淡い色の世界。
街に近い所では、強化汎用合金でできた巨大な工場ドームの群れと錯綜する物流線が巨人向けの迷路を形づくる。動く物といえばロボットの姿だけだ。
それを過ぎてしまうと、動物の生息区となる。
捕食関係を排除した都市内の生息区と違って、広い《郊外》には肉食動物もおり、食物連鎖が成立している。線路から三十メートルほどのところで、ライオンの親子が倒した草食獣を取り囲んで食らっていた。顔を上げた仔ライオンの口の周りが鮮血で真紅に染まっていた。
人間はこの大きな惑星の一部に間借りしているちっぽけな存在に過ぎないのだと痛感させられる。
街という囲われた空間でしか生きられない。俺たちは、囲いの中で飼育されている、[ダイモン]の膨大な生物コレクションの一アイテムでしかないのだ。
「次の駅で降りるニャ」
と、ようやくタイガーが宣言したのは、四時間ほど列車に揺られた後のことだった。
小さくてみすぼらしい無人のプラットフォームしかない駅。
駅の外には、同じぐらい小さくてみすぼらしい集落が広がっている。
俺は足を止め、記憶にあるのとほとんど変わらない風景を見回した。
はるかな過去から伸びてきた長い腕に、いきなり襟首をつかまれたような気分だった。
駅の名前はラッシュプール。
十二年前、ここにあったバンダースナッチ研究所という違法団体を、俺たちは潰した。
研究資料をすべて破壊し、研究員たちを全員ハクトの[泡沫夢幻]で廃人にした。
細かいことはよく覚えていない。それは、当時俺たちが毎月のようにこなしていたミッションの一つでしかなかった。高価な研究機材を打ち壊すとき、手に伝わる衝撃。知性を失った研究員たちの恨めしげな遠吠え。そんなものは毎度おなじみだ。
このラッシュプールの研究所が俺の記憶に残っていたのは、中途半端に終わった作戦だからだ。
バンダースナッチ研究所では六十二歳以上の老人に闇医療を提供していたが、そのために必要な生体材料を、傘下の別の研究所から調達していた。そこでは生体部品を製造するために人間のクローンまで行っている疑いがあった。
俺たちは早速そのもう一つの研究所へ調査を進めようとしたのだが。どういうわけか《バラート》上層部からストップがかかったのだ。作戦中止の理由は明かされなかった。
潰せずに終わった、西ベンガル地方のもう一つの違法研究所。それはしばらく俺たちの心にわだかまりを残した。
俺は西の方角に視線を飛ばした。
十二年前には、そこに農場風の施設があった。多すぎる発電用風車を背負った不吉な三階建ての建物。
だが今そこにあるのは、童話の絵本から飛び出してきたような中世ヨーロッパ風の城だ。
城としてのリアリズムを追求する気はないらしい。鮮やかすぎる白壁、紺碧の屋根、乱れのない楕円形に刈り込まれた木々などは、完全にメルヘン路線を目指している。
それがマキヤ・アスドクールの住処であることは、説明される必要もなかった。
「覚悟はいいかニャ、《♠10》? あのお城じゃ、招かれざる客への扱いは手厳しいよ?」
タイガーが真っ白な歯をむき出し、陽気に笑ってみせた。俺は肩をすくめた。
「歓迎されないのには慣れてる。行くか」
――マキヤの居城がバンダースナッチ研究所の跡地に建っているということ。
スナーク博士がなぜか、ハクトが《バラート》であると初めから知っていたこと。
スナーク博士のオフィスの卓上に、バンダースナッチ研究所の古い写真が飾られていたこと。
ティリーが亡きロセッティ枢機卿と同じスクリプトを使うこと。
ばらばらだったそれらの事実が、俺の頭の中で一つにつながりつつあった。




