第7章(3) ヤマネ
俺たちが教会を出ると、そっけない灰色の空の下、強めの風が吹き荒れていた。道路のど真ん中で数頭のホルスタインどもが座り込んでいるせいで馬車の通行が妨げられ、怒声が飛び交っていた。管理清掃ロボットが、怒れる馬車の乗客から牛を守るかのように、牛と人との間に立ちはだかっていた。
その向こうでは六十五番街が、昼間だと言うのにいかがわしい稼業に湧き立っている。上半身裸に近い女たちがこれ見よがしに胸を揺すりながら闊歩している。
――哺乳類同士にそれほど優劣はないのかもしれない、という気になるのはこういう時だ。
教会の扉のすぐ外にハクト・イナバが立っていた。
その手にはブルーハーミットローズが一本握られていた。
純白のタキシードを着て、白手袋をはめた手で薔薇を持っている、というのは相当キザな絵柄だ。
こんな悪目立ち野郎と知り合いだと思われるのはごめんだ。俺は奴を無視して行き過ぎようと試みた。無駄な努力だとはわかっていたが。
「ええ習慣やな。『命日』に死者を偲ぶというのは。……うちの宗派には『命日』という考え方はあらへんねん」
背中にハクトの間延びした声が飛んできた。
「……おまえはずっと、レジィナの死んだ日を忘れへんかったんやな」
俺は足を止めずにはいられなかった。たった今教父から聞かされた話を思い出す。――今日という日に、ハクトがここで俺を待ち受けていたという事実が、多くのことを物語っていた。
振り向かないまま――ただし背後の気配を注意深くモニタリングしながら――俺は言葉を紡ぎ出した。
「毎年十一月十一日に鎮魂ミサを頼む人間を、ガイナント伝道教会本部に調べさせてたのはおまえか」
間髪入れず、飄々とした答えが返ってきた。
「そうや。《バラート》本部経由で要請した」
「おまえはこの五年間、ずっと知ってたわけだ……俺の居所を」
「ああ。そもそもおまえ、俺から五年も逃げ切れるなんて思てたんか? 本気を出して探してる俺が、おまえを見つけられへんとでも? そんなわけないやろ」
「じゃあ、なんでもっと早く俺を始末しに来なかったんだ」
ハクトは答えるまでに少し時間をとった。
「……もし俺が[泡沫夢幻]でおまえの記憶を消去したら……おまえがレジィナのことを忘れてしもたら……天国のレジィナが悲しむからや」
その語尾が、はっきりと震える。
俺は振り返った。
ハクトはアイシールド越しに、まるで泣いているみたいな赤い目で俺を睨んでいた。
「こないだ、おまえに対する[泡沫夢幻]の使用許可が取り消されたって言うたが、あれは嘘や。俺は今でも、おまえを処断しろという命令を受けとる。せやけど、おまえが世界のどこかで毎年この日にミサを頼み続ける限り……レジィナを忘れずにおる限り、俺はおまえを見逃すつもりや」
奴の手にした薔薇が、強風に頼りなく揺らいだ。
ときどき、こいつの気持ちがわからなくなる。レジィナがからむと、たいていそうだ。
ロセッティ枢機卿は、自分の娘がハクトのような前途有望な[工作員]とつき合っていることを歓迎する、と何度もはっきり口にしていた。だから《バラート》内ではハクトとレジィナは親公認の婚約者みたいに扱われていた。
その割に、ハクトのレジィナに対する態度はいつも妙に弱腰だ。死んだ後でさえも。
『おまえがあいつをもっとしっかり抱きしめて、余計なことを考えてる暇がないぐらい愛してやれば、あいつはあんな風にはならなかったんじゃないのか?』
そんな言葉が口先まで出かかったことは一度や二度じゃない。死ぬ前から。
ハクトは俺に背を向け、まるで急にホルスタインに興味が湧いたかのように、路上の様子を注視し始めた。
「おまえは知らんかもしれんけどな。ちょっと前にロセッティ枢機卿が亡くなったんや……枢機卿の体が、な。点滴だけでもたせるのも限界が来たらしい。
そのとたん、ダンテ六芒聖教の本部が、手のひら返しや。自殺は絶対的禁忌やから自殺者を教団墓地に埋葬しとくわけにはいかへん、とか言い出して、レジィナの墓をエルサレムの教団墓地から撤去しよった。六年も経った今になってやで? 今まで枢機卿に遠慮してただけなんや、あのおべっか使いども。
幻冥大師が墓を引き取ってくれたんで、今は大師個人の寺に埋葬されてんねんけどな」
「レジィナは自殺してねえぞ」
俺は反射的に声を荒げていた。俺を見ようとしないまま、ハクトもうなずいた。
「そうや。あの火事は事故や。レジィナは離れで本を読んでいるうち、ぐっすり寝込んでしもて、火事に気づかへんかったんや。だから椅子に座ったまま煙に巻かれた……!」
――確かに六年前、レジィナの死は自殺ではないかと疑われた。死ぬ前の一、二年は気鬱がひどくなって、仕事も満足にこなせない状態だったからだ。亡霊のように生気のない顔で、寮の離れに一日中こもってテキストを読みふける。食事も摂ったり摂らなかったりだった。
離れから火が出たのは真夜中のことだった。出火の原因はわかっていない。
火災現場を調べた結果、離れに一人でいたレジィナが、まったく逃げようとしていなかったことが判明した。離れの一番奥の小部屋で、机に向かったままの姿勢で命を落としたのだ。そのことも自殺説を裏づける根拠となった。
「……ところで、枢機卿の体が死んだら……電脳の中にいた枢機卿の心はどうなった?」
「ああ。上の方の連中がな、枢機卿の体が息絶えるのと同時に電脳をシャットダウンして、物理的にも破壊した。電脳の筐体を崖から投げ落とした、って意味やが。……上層部は、答えを知るのが怖かったんやろな。あらゆる信仰の根幹が揺らぐような事態になりかねんからな。電脳の中にいた枢機卿が本当は何やったのかは、わからんままや」
「あいかわらず、とんでもねえな。もみ消し、臭いものにはフタ……上層部の得意技だ」
ハクトは答えず、黙って遠くをみつめ続けていた。
びゅおおおっ、と音を立ててひときわ強い風が吹きつけた。ティリーの小さな体があおられてバランスを崩した。リボンをつけた金髪頭が俺の腰にぶつかってくる。
子供がすっ飛んでいかないように、その肩に腕を回して支えた。
そして、そんな仕草を半ば無意識にやってしまった己を自嘲した。完全に父親化してるじゃねえか。
「《ローズ・ペインターズ同盟》の調査におまえの手を借りよかと思ってたけど。その必要はなくなったわ。ようやくメッカからハンの代替要員が派遣されて来てん。……局長が幻冥大師に替わってから、本部も官僚主義が進んでなー。何でも会議、会議で、物事がなかなか決まらへんのや」
ハクトが俺に向き直った。昨夜観たミュージカルの説明をするみたいな、気楽な口調だ。
「ハンを殺したのは、かなり高い確率で《同盟》内部の人間や。市警の情報によると、内臓を潰されて死んだ被害者は、一人を除いて全員が《ローズ・ペインターズ同盟》の信者やったそうや。その残りの一人ってのはギャングのボスらしいが。ウィリアム何とかっていう。
――ブラーフモ・ドクトリン総本山から、下手人をみつけたら[泡沫夢幻]を使ってもええという許可が出た。[工作員]を殺せるぐらい危険な奴は野放しにしといたらあかん、ということや」
「……素直に言えよ、『ハンの仇討ちだ』と」
「そんなこと言えるか。仇討ちなんてもんは神の御教えにはあらへん」
ホルスタインがようやく歩み去り、路上の交通が回復した。軽快な音を立てながら馬車が俺たちのそばを行き交った。そんな道路の向こう端、六十五番街側の舗道を、七人ほどの男たちが群れをなして歩いてくる。
道路に背を向けてこっちを見ているハクトは、その様子に気づいていない。
――遠目でもわかる。男たちの先頭に立っているのはルーラント・サーフェリーだった。奴はどうやら俺たちを凝視しているようだった。




