第6章(2) アオムシ
LCは俺の頬に軽くキスをし、「またねぇ、リデル。今度はもっと濃いデートしよぉ♡」と言い残して傘を飛び出していった。激しい雨の中、一目散に駆けていく。
俺は精神的なダメージを受け、反応できなかった。――キスされる側とする側を同時に知覚するのは初めてだ。自分の頬の感触なんか、こんな形で知りたいとは思わなかった。
駅舎の横、人波から外れた場所へ移動。集中するため目を閉じ、LCの知覚情報を優位に切り替える。
――LCはびしょ濡れになりながら駆けていた。高い靴を履いているせいで、足が着地するたびにふくらはぎやアキレス腱に結構な負荷がかかるのを感じる。
LCが目指しているのは、まだシャッターの閉じている店の前でピンクの傘をさして佇んでいる人物だ。
傘が揺れた拍子に、その人物の顔が見えた。――ルーラント・サーフェリーだった。
LCは息を弾ませながら傘の中に飛び込み、そしてサーフェリーの手から傘を奪い取って独占した。
「おい、何しやがる」
雨に全身をさらされる形になったサーフェリーが威嚇の唸り声をあげた。だが――その声の響きは驚くほどソフトだ。
「いーじゃん。だってこれ、あたしの傘だよぉ? って言うか、待ってる間に馬車拾っといてくれなかったのぉ? なんで、ただぼーっと立って待ってんのよ。雨の中歩くなんてやだぁ。馬車がいーいー!」
「わかったわかった、拾ってやるよ。……ったくよぉ。この俺に指図できる奴なんざ、この街にはいねえんだぞ?」
「あたし以外には、でしょ? ちょっとぉ! 無理に傘に入ってこないでよぉ。狭いんだからぁ!」
「文句たれるな。おまえ、あいつとは楽しそうに一つの傘で歩いてたじゃねえか」
「あーっ。それ、やきもちってやつぅ、ルー? たかが一回一緒に寝たぐらいで彼氏づらしないでほしいなぁ」
「ルー」ときたか。俺は、傘の中でもつれ合いながら歩く二人の会話を、驚愕に呆然としながらモニタリングする。
LCの目は隣のサーフェリーを見ようとはせず、路上を往復していた。空いている馬車を探している様子だった。
サーフェリーはLCの腰に腕を回し、髪に鼻をうずめてきた。その生温かい感触を俺は自分のものとして知覚し、おぞましさに打ち震えた。今すぐLCの感覚情報から離脱したい、という本能的な衝動を懸命にこらえる。もう少し我慢だ。もっと話を聞いてからだ。
「おまえは俺の女だ。そうだろ、LC?」
「ちーがーうって何度言わせるんだよぉ。しつこい」
「おまえも昨日、俺のこと好きだって言ったじゃねえか」
「やだなぁ、もう。あれは『その場のノリ』ってやつだよぉ。あんた、やくざなのにそんなこともわかんないのぉ? 昨日のは、ただのボーナスの前払い。あんたが任務に成功したら、もう一度抱かせてあげてもいいけど、それまではお・あ・ず・け」
LCはサーフェリーの顔を肘で押し返した。コルカタの裏社会を一手に仕切るギャング団のボスに対して、なかなかいい態度だ。
平手打ちの一発ぐらいは来るかと思ったが、サーフェリーは不服そうに唸っただけだった。
「……お高くとまってんじゃねえよ。安売り女が。てめえ結局、リデルを落とせなかったじゃねえか。口ほどにもねえ」
「あー。うーん。そうなんだよねぇ。……ああいう男は清純で健気なタイプに弱いから、その路線で攻めてみたんだけどぉ。ちょっと『清純』に無理があったかなぁ」
サーフェリーが腕を振って合図をすると、辻馬車が進路を変え、舗道に立つ二人にゆるゆると接近してきた。雨はいっそう激しさを増し、十メートル先さえ見えにくいほどだった。LCがサーフェリーに視線を移した。濡れて色の変わった男のスーツの襟元に銀色のバッジが光っていた。ちらりと視界をよぎったそのバッジは、どうやらスペードではない。――むしろクローバー(♣)に近いように見える。
もう一度見直して確認したい、というのが俺の衝動だったが、LCは近づいてくる男の顔をじっと見上げており、バッジには目もくれない。
「てめえみたいに汚れた女にはな。俺みたいな奴の方が合ってんだよ」
囁かれる月並みな台詞。LCの冷えた体が男の腕に包まれる。
サーフェリーの顔が至近距離まで迫ってきた。
もう限界だ。
俺はLCの感覚神経から離脱し、「自分の体に戻」った。高い位置からの視点、余分なもののついていない体の感触に心底ほっとする。女の感覚情報と同期するととんでもない経験をする率が高いが、今回のは格別だ。サーフェリーからの抱擁なんて、できる限り迅速に忘れたい。
自分の体の制御をおろそかにしている間に、傘を取り落としていたらしい。
俺は地面を転がる傘を拾い上げた。すでに全身は着衣水泳の後のような状態で、今さら雨を防ぐことに意味はなかったが。水音を立てる靴を引きずって、アパートまでの道を戻った。
――[鏡の国]でのぞき見た情景は、ひどく苦い感触を俺の中に残した。
一つだけ確かなのは、LCが俺に話した内容は信憑性が低いということだ。最初から最後まで、俺の気を引くための作り話だった可能性もある。LCの母親が変人だということも、《♢A》がLCの父親ではないということも。
ただ、ティリーについての話は本当かもしれない、という気がした。
LCには、ティリーについてあんな嘘をつく理由がないからだ。
――心のない子。「死んでるように生きてる」子。教祖マキヤ・アスドクールの末娘。
「宮殿の片隅の牢屋」に閉じ込められていたのを、LCが解き放った、という。
《女王》を名乗っているのはマキヤなのに、ティリーが《♡Q》(ハートのクイーン)だというのは妙な話だが。
コルカタ東部の保存庫へ赴くのはもう三回目だ。おなじみとなりつつあるこのドーム型施設で、俺は《♠9》と対面していた。
高い天井から、打楽器とかん高い笛のみで構成される原始的な雰囲気の音楽が降り注いでくる。
《♠9》は二十歳そこそこの青年だった。小柄だがひどく面構えがいい。戦う気満々の不敵な顔つきでこちらを睨んでいる。
金回りが良いためか、一流ブランドのスポーツウェアで全身を固めている。見たところ筋肉はかなりつけてある。腰の辺りまで伸ばした黒髪を革紐で一つにまとめている。
――スナーク博士のデスクに置かれていた幹部リストが、ランキング順に幹部を並べたものだったとすれば、この男のスクリプトの特徴は「伸び縮み」ということになる。
博士は俺の[収納自在]を「手足縮む」と表現したのだから、《♠9》が使ってくるスクリプトはそれとは別だ。




