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第4章(7) ドードー鳥

 この話題に踏み込んだのは失敗だった。馬車がダルハウジー広場へ着くまでの間、《♠6》はLCのことばかり話し続けたのだ。俺は何度か話の方向性を変えようと試みたが無駄だった。老人はもはやこちらの言葉など耳にも入れようとせず、自分のしゃべりたいことだけを一方的にしゃべった。

 それほどたくさんLCについてのネタがあるわけではないので、爺さんは途中から同じ話を繰り返すようになった。


「それ、さっきも言っただろ」「もう四度目だぞ、その話」


 俺は容赦なくツッコんでやったが、相手はものともせず語り続けた。

 ――この融通の利かなさは加齢のせいなのか、それともこの爺さん固有の性格か。


 《♠6》によると、LCは母親とそりが合わずに飛び出してきた家出娘で、今は《同盟》のビルの最上階で暮らしている。好きな食べ物は苺とウェッソス・デ・サン・エスペディート、趣味は化粧道具集め、好きなブランドはロージー・ジュジュ。好きな色はピンクで、住んでいる部屋の内装はすべてピンク色で統一している。


「あんた、ジャックの部屋に入ったんですか!?」


 老人の話の間、渋面を深める一方だったスナーク博士が尖った声を張り上げた。

 さすがに老人もばつの悪そうな顔になった。


「いや。入ったというか。ほんの数分間だ。彼女が『どうぞ』と言ってくれたから。何もやましいことはしていない……」

「当たり前でしょう。何を考えているんですか、いい年をして!?」


 くだらねえ。俺は救いを求めるような気持ちで窓の外へ視線を飛ばした。路端では鹿の群れが妙に分別臭い目つきであさってを見つめていた。




 ダルハウジー広場のロータリーで馬車を降り、夜だというのに活況の衰えないバザールを通って《同盟》のビルへたどり着いた。建物内はいかにも「閉館後の施設」らしい閑散とした佇まいだった。受付も無人だ。


 ロビーを横切っている途中で、ふと《♠6》が身をこわばらせ、顔色を変えた。動物ならぴんと耳を立てるところだ。


「悲鳴だ! 悲鳴が聞こえる!」


 叫ぶや否や、階段へ向かって駆け出した。


 年寄りのくせに大した聴力だな。俺には何も聞こえなかったぞ。


 聞こえなかったが、悲鳴と言われれば放っておくわけにはいかない。俺は老人を抜き去り、階段を二段飛ばしで昇った。二階に達したとき、確かに聞こえた。「いやあ」というような、くぐもった女の声だ。


 俺は声に導かれて走った。

 二階の廊下を進み、「応接間」という銘板のある扉を開けると、最初に目に飛び込んできたのは黒いソファの上に乱れて広がっているショッキングピンクの髪だった。

 ルーラント・サーフェリーの野郎が、LCをソファに組み敷いていた。

 LCは上半身裸だった。真っ白な肌に、手荒に扱われたことを示す赤い痣がいくつも散っていた。

 涙の溜まった目が、乱入してきた俺を見上げた。


 理屈抜きの怒りで視界がぶれ、俺はサーフェリーの襟首をつかんでLCから引き離した。体勢が完全に崩れている男の顔面に、渾身の力をこめて拳を叩き込む。

 サーフェリーは尻もちをついた。

 俺は奴の胸倉をつかみ上げた。もう一発食らわせてやろうと拳を引いた。


「ま、待て、誤解だ。……無理やりじゃねえ。合意だ」


 鼻を手で押さえているのでサーフェリーの台詞は聞き取りにくい。指の隙間から鮮やかな鼻血が漏れ出してくる。


「んなわけあるか。泣いてるじゃねえか」

「……()過ぎて涙が出たんだろ」

「黙れ、げす野郎が」


 俺が二発目を入れると、サーフェリーは騒々しい音を立てて洒落たデザインのテーブルに倒れ込んだ。テーブル上の小物が派手に吹き飛んだ。


 《♠6》とスナーク博士が息を切らしながら戸口に到着した。

 ソファに転がっていたLCが勢いよく身を起こした。短い泣き声を立てて、戸口に立つスナーク博士に駆け寄った。博士は父親めいた手つきで、上着を脱いでLCに着せかけてやった(博士の上着はLCが三人ぐらい入れそうなほどでかかった)。


 《♠6》はわなわなと身を震わせていた。

 階段を駆け上がる激しい運動が年寄りにはこたえたか、心臓発作でも起こすんじゃねえだろうな、と思ったがそういうわけではなさそうだ。


「このっ……下劣な、卑しい、腐れやくざめ。よくもその汚らわしい手で私の女神に触れたな!」


 老人の[冗長大脳皮質(リダンダント)]が急激に活性化する。その変化を、ネットワークを介して俺は『気配』として察知する――!


illegal script detected ('holy_scream')

id ('caring_pigeon')


 耳をつんざく高音を発生させる[破調賛歌(ホーリー・スクリーム)]。シンプルなスクリプトだが効果は強烈だ。目に見えない巨大な手で両耳をぶん殴られたかのような衝撃と圧力。激痛が脳を刺し貫き、俺は立っていられなくなった。頭を抱えてうずくまった。

 サーフェリーだけに食らわせればいいものを、《♠6》はスクリプトの対象を絞り込むことができないらしい。室内の全員が耳を押さえて悶絶した。

 おい爺さん、いい加減にしろよ。あんたの大好きなLCも苦しんでるぞ。


「シックス! やめなさい!」


 床にしゃがみ込み、苦痛に顔を歪めながら、それでもスナーク博士は威厳のある声を発した。


「命令もないのに、『公式試合』以外でスクリプトを使うのは禁止ですよ。除名されたいんですか?」


 騒音は、始まった時と同じぐらい唐突に止んだ。《♠6》は夢から醒めたばかりのようにぼんやりした顔で立ち呆けていた。「除名」のひとことで我に返った様子だ。

 まだ耳のどこかに騒音の余韻が残っている気がする。俺は頼りない足をはげまして身を起こした。スナーク博士もLCもよろよろと立ち上がり始めた。


 サーフェリーだけがテーブルに腰かけたままだった。下半分を鼻血で染めたその顔に、ふと獰猛な笑みが浮かんだ。ギャングは瞳をぎらぎら光らせて老人を睨み据えた。


「上位の幹部として、教団のルールを破った下っ端には制裁を加えなきゃなぁ? 組織のけじめってものがある。そうだろ、《♢A(エース)》?」

「それを決めるのはあなたじゃありま……」


 スナーク博士は反論を最後まで言い終えることができなかった。

 サーフェリーは老人に向かってまっすぐ腕を伸ばした。その拳が毒蛇の口のように大きく開かれ、何かをつかみ取ろうとするかのように指が曲げられた。


 俺の[仮想野(スパイムビュー)]の下端を再びアラートが走った。


illegal script detected: unknown script

id ('dodo')


 ログインID[ドードー鳥]。スクリプト名、不明(アンノウン)

 俺の[冗長大脳皮質(リダンダント)]にインストールされてるフィルタで名称を特定できないということは、《バラート》のデータベースに登録されていないスクリプトだということだ。

 畜生、そう言えばこの男、「俺のスクリプトはオリジナルだ」とか言ってやがったな。


 サーフェリーの手に、いつの間にか桃色の肉塊が握られていた。

 それは俺が知っているどんな食肉とも違っていた。表面がつるっとした妙な光沢を帯びている。それでいて妙に生っぽい(・・・・)。何に似てるかと言えば、まだ毛の生えていない生まれたての四足獣の仔だ。サーフェリーが握っているそれ(・・)は、手足や頭がついているわけではなく、ただのぼってりとした塊だったが。

 スナーク博士が息を呑む音が、こっちまで届いた。


 サーフェリーは立ち上がり、悠然とした足取りで《♠6》に歩み寄った。手にした肉塊を、ぽかんと口を開けている老人に差し出す。


「ほれ。プレゼントだ。受け取れ」

「……何だい、これは?」


 老人はためらいながらも、鼻先に突き出された物を素直に手に取った。サーフェリーのにやにや笑いが広がった。


「てめえの肝臓だよ」


 文字で表せない音声が《♠6》の口から湧き起こった。口から飛び出たのは苦鳴だけではなかった。濃い色の血液がびちゃびちゃっと床に落ちる。一瞬で、老人の顔が土気色に変わった。白目を剥き、仰向けに倒れかかった。


 俺はとっさに飛び出し、後頭部を床で強打する直前に老人の体を受け止めた。

 意識を失った《♠6》は口から血を垂らしながら、もう痙攣を始めている。明らかに死期が近づいていた。


 俺はサーフェリーを見上げて怒鳴った。


「おい! スクリプトを解除しろ! 本当に死んじまうぞ」


 枯れた手に固く握りしめられた肝臓、大量の出血。これは俺たちの[補助大脳皮質(エクスパンション)]が知覚している現実に過ぎず、実際に肝臓が体内から取り出されたわけではない。

 だが老人が感じている苦痛とストレスは本物だ。

 老いた体はおそらく、この負荷に耐えきれない。


 苦しむ《♠6》を見下ろすサーフェリーは、カナリアを平らげた猫のように上機嫌な表情だった。


「くたばりゃいいさ。エロジジイが正義の騎士ぶりやがって。いつも物欲しそうにLCのケツ眺めてやがったくせによ」

「中学生の喧嘩みたいなこと言ってんじゃねえよ。早く止めろ」

「セブン! いい加減になさい! 今度こそ、もう許しませんよ。除名では済まない……!」


 LCを背後にかばいながら、スナーク博士も叫んだ。丸顔に恐怖がはっきりと浮かんでいるが、毅然とした態度は崩れていない。


 サーフェリーは気のないそぶりで博士を横目で見やり、ち、と舌打ちをした。

 『エース』の権威に従う気はあるらしい。唐突に、《♠6》の手から肝臓が消えた。サーフェリーがスクリプトを解除しやがったのだ。


 だが、老人の口から流れ出す血は止まらない。死体のような灰色の頬に血色は戻ってこない。


「市の救急隊に連絡を……!」


 俺の言葉に、スナーク博士は黙って首を横に振った。

 そうだ。公定寿命の六十二歳を超えている《♠6》は医療を受けられない。たとえ救急隊を呼んでも病院には搬送してもらえないだろう。



 サーフェリーは高笑いと共に立ち去った。

 《♠6》は応接間のソファの上で息を引き取った。

 ――瀕死を知覚したショックのせいじゃない。スクリプトにより実際に内臓が損壊したのだ。

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