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第4章(1) ドードー鳥

「しかし、このお嬢さんにも賞品がいりますな」と、ネズミが言いました。

「当然のこと」と、ドードー鳥が重おもしく答えました。そして、アリスのほうをむくと、「そのポケットに、ほかには何をお持ちですかな?」と言いました。

「指ぬきがあるだけ」と、アリスは悲しそうに答えました。

「では、それをこちらへいただきましょう」と、ドードー鳥が言いました。

 するとみんなはまたアリスをかこみ、そのまんなかでドードー鳥がおごそかに指ぬきをさし出し、「このうるわしき指ぬきをお受けくださるよう、われら一同、つつしんでお願いいたす」と言いました。

(中略)アリスはただおじぎをして、なるべくまじめくさった顔で指ぬきを受け取りました。


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)

 ハンプティ・ダンプティのまん丸な体は、公会堂の小会議室の椅子に収まりきらず左右に豪快にはみ出していた。だが別に座り心地が悪そうな顔もしていない。鋭い知性の光をたたえた瞳が俺を刺し貫いた。


「リデルさん。あなたがどのような悩みや思いを抱えて信仰を志したのかは知りませんが。一つだけ確かなことがあります。それは『この世の悩みはたいてい金さえあれば解決できる』ということです。死への恐怖さえも、です。金さえ払えば六十二歳以降も医療を受け、長生きすることができます、もちろん非合法ですが」


 俺は唖然とし、「ああ」というような曖昧な返事しかできなかった。


「金がすべてです。この世の中では、金がすべてを解決してくれます」


 ベイカー・スナーク博士は肉のたっぷりついた拳を握りしめて力説した。


 それは宗教関係者が言っちゃいけねえ台詞だろう、絶対に。

 この男は確か《同盟》の本部長と名乗ってなかったか? そんなことでいいのか、《同盟》?


 公会堂の二階にある小会議室で、俺はテーブルを挟んでスナーク博士と対面していた。司会者用の演台の上にLCが座り、自分の爪を眺めながら、退屈そうに足をぶらつかせている。ドアの前に双子の若者が並んで立ちはだかっているのは、明らかに俺を逃がさないようにするための用心だ。

 窓のすぐ外には域内循環列車の線路が走っており、行き過ぎる夜行列車の振動が窓をびりびりと震わせていた。


 俺は食い下がった。


「おたくの教祖は、『何でも望みをかなえてくれる神様がいる』とか言ってなかったか?」

「いるわけないでしょう、そんなもの。子供にだってそれぐらいのことはわかります」


 博士の態度は朗らかと言ってもいい。俺も正直者は嫌いじゃないが、この男の実もふたもないぶっちゃけぶりには眩暈を覚える。逆に何か裏があるのではないかと疑いたくなるほどだ。

 俺は腕組みをした。


「じゃあ……あんたらの団体は結局、あれか。宗教じゃなく、人間中心主義ってやつか。『電脳の支配から逃れて、人間を中心とした世界を作りましょう』とか何とかいう……」

「ああ。先ほどの私の話のことですか。あれは、気にしないでください。……実を言うと、今夜の講演の内容には意味はないのですよ。私は、ここにいる《♡J》(ハートのジャック)の準備ができるまで、おしゃべりで時間稼ぎをしていただけです。あの話は単なる私個人の見解であって、教団とは何の関わりもありません」


 スナーク博士は指をぴったり揃えた妙に上品な手つきでLCを指し示した。

 指さされたLCは俺に向かってにっこりし、「はぁい。あたしがハートのジャックちゃんでぇす」と顔の横に立てた手の指をひらつかせた。


 俺は拳で机を殴りつけた。


「……あんたら、いったい全体、何なんだ!? 神を信じていない宗教団体って何だ、ふざけるのもいい加減にしろ。嘘を並べ立てて人を集めて……いったい何がしたいんだ!?」


 スナーク博士は眉毛をぴくりともさせなかった。癇癪を起こされることは織り込み済みだとでも言わんばかりに、淡々と説明を続けた。


「私たちの教団では、この《♡J(ジャック)》が重要な役割を果たしています。彼女こそが教団の中心だと言ってもいい。彼女はスクリプトと呼ばれる特殊な力を持っています。人を洗脳し、その思考を操る力です。口当たりのいい宣伝で人を集めて、《♡J》の力で洗脳して入信させる……その洗脳は決して解けないので、信者たちは借金してでも教団に金を寄付し続ける……それが私たちの教団の仕組みです。

 『祈れば何でもかなえてくれる神様』なんて、人を集めるためだけの釣り文句ですよ。教義の中身など何でもいいのです。大事なのは人を一か所に集めることだけです。そうすれば《♡J(ジャック)》が全員まとめて洗脳してくれますから」

「……とんでもねえ悪徳宗教だな、おい!?」


 俺のあきれ声に、スナーク博士の目が不意に細められた。


「疑わないのですね、リデルさん。『この世にそんな超能力が存在するはずがない』とは言わないのですか」


 こいつは常識外れなおっさんだが、「博士」を名乗るぐらいだから確かに馬鹿ではないようだ。

 だが、こんなほころびは些細なものだ。俺は普通の態度を崩さないまま切り返した。


「そりゃあ……あんなもの見せられちまったら、信じるしかねえだろう。講演の途中……周りが変な文字だらけになった……!」

「それは、エラーです。あなたには《♡J(ジャック)》の洗脳が効かなかった。なぜならあなたの脳内には[冗長大脳皮質(リダンダント)]と呼ばれる器官が存在しているからです」


 博士は小さな不審を忘れたかのように、再び滑らかにしゃべり始めた。


「人間の[補助大脳皮質(エクスパンション)]がどのように形成されるかについては、説明の必要はありませんね? 小学校でも習うことですから。すべての人間は生後まもなく体内にナノマシンを注入されます。それにより神経細胞の一部が人工神経と置換され、頭蓋内に[ダイモン]とのインタフェースである[補助大脳皮質]が形成されます。

 ところが時に、ナノマシンが誤作動を起こします。[ダイモン]は確かに万能ですが、人間相手の反応で百パーセントの確実性というものはあり得ないのです。神経細胞と人工神経との置換が過剰に進行し、[補助大脳皮質(エクスパンション)]以外にも、予定にない器官を頭蓋内に形成してしまうことがあります。それが[冗長大脳皮質(リダンダント)]です。

 [冗長大脳皮質]は『この世に存在してはならない』器官です。それは、[ダイモン]の予想外の挙動を見せます。[ダイモン]の感知しない方法でネットワークに働きかけ、ネットワークを経由して他人の[補助大脳皮質]に干渉することも可能にします」

「俺の頭の中に、そんなわけのわからないものができてるって言うのか……!?」


 俺は打ちのめされたふりをした。いかにも薄気味悪そうな風を装って、額に手をやってみせる。スナーク博士はきっぱりとうなずいた。


「ええ。間違いありません。講演の途中で気分が悪くなったでしょう? それが何よりの証拠です。《♡J(ジャック)》のスクリプトはどういうわけか[冗長大脳皮質(リダンダント)]と相性が悪いのですよ。

 だから我々はそのことを逆に利用しているのです。[冗長大脳皮質]を持つ人間を探し出すために。……《♡J》がスクリプトを使った時に苦しみ出した人は、[冗長大脳皮質]持ちだ。我々はそういう人たちを教団幹部にスカウトします。私が今あなたにしているように。《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部を目指しませんか、という勧誘です。

 というのは、あなたにも、この《♡J》のように特殊な力を使える可能性が秘められているからです。スクリプトは[冗長大脳皮質]の作用です。訓練次第であなたも他人の知覚を操れるようになるかもしれません」


 俺はひと声唸って相手を睨みつけた。


 事態はかなり面倒だ。

 [冗長大脳皮質]やスクリプトの存在は一般人には知られていない。博士の言う通り「存在してはならない」ものだからだ。[ダイモン]は[冗長大脳皮質]の存在を決して許容しない。万一ナノマシンの異常で[冗長大脳皮質]が生まれても、たいていは[ダイモン]の実施する五歳児健診インプロセス・インスペクションで発見され、即座に隠密裏に摘出される。

 スクリプトについての知識を持っているのは、世界中で《バラート》だけだ。そもそも「スクリプト」「冗長大脳皮質」という呼び名も《バラート》が与えたものだ。

 《バラート》は、使命を遂行するため――そしていざという時[ダイモン]に対抗する戦力とするため、世界宗教者会議のネットワークを利用して、[冗長大脳皮質]を持つ子供を全世界から集めている。聖職者や信者の身の周り、宗教施設の経営する孤児院や養護施設に、異能の片鱗を見せる幼児がいないかどうか鵜の目鷹の目で探している。そしてそういう子供を見つけたら、五歳児健診を受ける前にIDを書き換え、[ダイモン]の目から隠す。秘密の訓練施設でスクリプトの使い方を教え、[工作員(スクリプトハンドラ)]に育て上げる。俺自身もそうやって育てられた一人だ。


 目の前のこのハンプティ・ダンプティが当たり前のことのように「スクリプト」「冗長大脳皮質」という語を口にするのは――この男が何らかの形で《バラート》と関係していることを意味する。

 《バラート》のメンバーまたは脱走者が、《ローズ・ペインターズ同盟》に交じっているのではないか。


「はっきり言って、あんたの話は途方もなさ過ぎて、すぐには信じられねえ。半分以上、何をしゃべってるのかわからなかったしな。だが……まるっきりでたらめでもなさそうだ」


 俺は博士の双眸をのぞき込み、ゆっくりと言葉を発した。


「ただ、あんたが教団のずいぶん突っ込んだ中身まで俺に明かした、ということはわかる。万一表沙汰にされたら《ローズ・ペインターズ同盟》にとって不利になるような情報だ。それをこんなにも気安くぺらぺらしゃべるということは……もし俺が教団に入るのを断ったら、あんたらは俺を生かして返すつもりはないんだな? そのLCってガキの妙な能力で、たぶん俺の脳味噌をぶっ壊すことぐらいはできるんだろう。そういうことだな?」

「……断られることは想定していませんでした」


 博士の口調が急におとなしくなった。鳥を思わせる非人間的な動作で小首をかしげ、視線を泳がせる。――このおっさんはあまり嘘が上手(うま)くねえな。


「今までこのようにして入団を勧誘して、断られたことは一度もないのですよ。だってそうでしょう。断る理由がない。あなたは『何でも望みをかなえてくれる神様』を求めて教団の門を叩いた。そして我々があなたに提供しようとしているのは、まさにその『何でも望みがかなう』状態です」


 その時、体重を持たないかのような軽やかさで、LCが演台から飛び降りた。ピンク色の長い髪をかき上げながら歩み寄ってきた。少女の甘ったるい香水が再び俺の鼻腔に届いた。


「ねー、教団に入りなよぉ、リデル。最ッ高に楽しいよぉ? 幹部になったら信者からの寄付金を使い放題なんだからぁ。飽きるぐらい贅沢できちゃうよぉ」


 LCが息のかかる距離まで顔を近づけてくる。

 お化けみたいな奇抜な化粧で隠しているが、実はこいつはかなり童顔かもしれないな、と俺は気づいた。


「……お金さえあれば、手に入らないものはない。かなわない望みはない。いるかいないかもわからない神様に祈るより、よっぽど確実じゃん?」




 俺は《ローズ・ペインターズ同盟》に入会することに同意した。

 もともとそのつもりだった。渋ってみせたのはもっともらしさのためだ。

 《同盟》の奥へ入り込んで、ティリーの正体の手がかりを探す。まず知るべきは《同盟》の幹部のメンバー構成だ。そのために必要なら、俺も博士たちの言葉に従い、自分が幹部になることを目指さなければならないだろう。

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