表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/80

第3章(4) 公爵夫人

 俺はよろめきながら立ち上がった。みっしり空間を満たした文字列をかき分けて、出口のありそうな方向へ進んだ。文字列は柔らかくしっとりした手ざわりで、雨上がりの密林のような、ひどく青臭い匂いを漂わせていた。


 頭ががんがんする。――第二波の吐き気がこみ上げてきた。

 今度はどうにか嘔吐をこらえた。俺は片手で口元を押さえながら死に物狂いで扉を探した。


 片手を伸ばして振り回しているうち、本当にたまたま、指先が扉らしきものに触れた。


 俺は体当たりした。扉はあっさり開き、俺をエントランスロビーへ吐き出した。

 とたんに脳内で膨れ上がっていた耐えがたい圧力が消えた。


 閑散としたエントランスロビーは拍子抜けするほど普通だ。妙な文字列も浮かんでいない。

 [公爵夫人(ダッチェス)]ってのが何者であれ、スクリプトの発動範囲をホール内にとどめる程度の良識はあったらしい。


 激しすぎた痛みの名残がまだ頭の芯で存在を主張している。脳全体がずきずきと脈を打つ。

 膝がひとりでに砕けた。俺はロビーのひんやりした床に座り込んだ。


 辺りは静かだ。俺の背後で扉が軽く軋んで閉じていくが、ホール内で聴衆が騒ぎ立てている様子はない。つまり、妙な文字列を目撃したのは俺一人だったということだ。

 スクリプトの狙い撃ちを食らうほど目立っていたはずはないんだが。


「大丈夫ですか? ご気分でも悪くなりましたか?」


 横あいから男の声が響いた。

 視線を投げると、双子のようにそっくりな二人連れの若者が大股に歩み寄ってくるところだった。


 おそろしくガタイが良い。二人とも、幅と厚みのある筋肉質な巨体の持ち主だ。毒気のない目つきから察するに、その体は戦闘ではなくスポーツのために鍛えたものだろう。

 二人は「係員」と書かれた腕章を身につけていた。


「顔が真っ青ですよ。……何か持病でも?」


 俺は首を横に振ろうとして思いとどまった。頭を動かしたら、また吐き気に襲われる予感がしたのだ。


「そんなんじゃねえ。大丈夫だ。気にすんな」

「……」


 二人の若者は不穏な感じで互いに顔を見合わせた。

 かと思うと、ぴたりと揃った動作で、こちらへ向けて腕を伸ばしてきた。


「念のために救護室で休んで行かれてはいかがですか。ふらついたりしたら危ないですから」

「僕らの集会では、よく、気分が悪くなる人が出るんですよ。興奮のあまり。だから看護スタッフはちゃんと揃ってるんです。遠慮なくどうぞ」


 ――言葉と動作が全然合ってねえぞ。


 俺の返事を聞く前に、有無を言わさず両側から引きずり上げて立たせるのは、どこをどう見ても「善意の介添」ではない。「不審者を連行していく」というのが、より正確な表現だ。


 双子は力は強いが隙だらけだ。人を拘束するのに慣れている連中ではない。

 つかまれた腕を振り払って反撃することは――途中で吐くかもしれないが――簡単だろう。

 だが俺はおとなしく連行されることを選んだ。奴らの次の手が知りたかったのだ。


 静かだったロビーが突如、異様なざわめきに満たされた。

 俺は、双子に両腕をつかまれた体勢のまま、首だけねじって振り返った。


 ホールのすべての扉が押し開かれ、中から大勢の人間があふれ出してくるところだった。数秒も経たないうちにロビーは群衆で満たされた。ホールから出てきた連中が向かおうとしているのは、ただ一つの目的地だ。


「皆さん! 《ローズ・ペインターズ同盟》への入会手続はこちらで受け付けています!」

「押し合わないで! 二列に並んでください! あわてなくても大丈夫ですから!」


 公会堂の正面玄関の近くに設置された、長テーブルに白いクロスをかけただけの受付で、二人の女が声を張り上げている。女たちも双子の大男たちと同様、「係員」という腕章を二の腕に巻いている。


 群衆はその受付テーブルへ向かって殺到した。

 「二列に並べ」という指示を、奴らはちっとも聞いちゃいない。無秩序な流動体となって、女たちとテーブルを押しつぶさんばかりの勢いで群がっていく。


「入会する! 入会させてくれ!」

「早く……早く女王様のお膝元へっ……!」

「俺は捧げる! すべてを捧げる! この体も財産も家族もみんなっ……!」


 俺はあっけにとられた。


 ――俺が会場から席を外していた数分の間に、こいつらをよほど感動させるような話があったのか。


 しかしそれにしても、群衆のこの熱狂ぶりは異常だ。


 体格の良い若者が数人どこからともなくわらわらと湧いて出て、荒れ狂う人間どもの交通整理を始めた。そうでなければ受付の女たちは群衆になぎ倒されてしまっていただろう。


「《ローズ・ペインターズ同盟》への入会金は五十万CPです! アカウントの残高が足りない方については、月賦も受け付けていますのでご心配なく! 《臣下の証》をご希望の方はさらに十万CPをご用意ください……!」


 かん高い女の叫び声が背後で遠ざかっていく。


 俺は薄暗い通路に連れ込まれた。中ホールの楽屋の方向へ伸びている通路だ。

 通路の突き当たりの白い扉を抜けると、そこは確かに救護室らしく見える部屋だった。窓のない狭い部屋の床面積の半分近くをベッドが占めている。そのかたわらに、明らかに安物とわかる古びたローテーブルとスツール。


 スツールに、年のころ十六、七の少女が腰かけていた。

 ショッキングピンクの長髪はどう見ても地色じゃない。ベンガル大サーカスのピエロも顔負けのどぎつい化粧、胸と腰回りをかろうじて隠しているだけの露出度の高いツーピース。いかにも遊び慣れた風情の少女だ。


 少女のつけているキツい香水が室内に充満している。頭痛から回復しきっていない俺にとっては、匂いだけでまた吐けそうなレベルだ。


 だがそんな状況でも、彼女の細い首から下がっているペンダントはしっかり俺の目にとまった。

 ペンダントトップは細かいダイヤモンドでできたハートだ。中央に薔薇色の石が嵌め込まれている。


「あんたたち部屋に入るときはノックぐらいしなさいよぉ。オトコ連れ込んでることだってあるんだからぁ。キャハハハハ……!」


 少女はけたたましい笑い声をあげ、髪をかき上げた。

 俺をこの部屋まで引っ立ててきた双子の一人が、緊張にこわばる声で答えた。


「講演中に様子の変わった人間がいればLC(エルシー)様に見せるようにとのご命令でしたので、連れて来ました」

「それは、ノックをしなかったことの理由にはなんないわよねぇ?」

「す……すみません! 申し訳ございません、LC様! どうかご容赦をっ……!」


 恐縮している若者たちに、LCと呼ばれた少女は目もくれない。鋭い視線で俺を見上げ、ゆっくりと唇をなめた。濃い紫色の口元を這い回る舌はぬめぬめした軟体動物のようだ。


「……気分悪くなっちゃったのぉ、おじさん? 頭が痛くなったりした?」


 LCのペンダントトップはティリーのバッジとまったく同じだ。教団幹部の身分証だ。だが「ただの入団希望者」である俺は、それに気づかないふりをしなければならない。この場面での正しい反応は、


「何だ、おまえ」


と、やたら偉そうな少女をいぶかしげに睨むことだ。


 LCは尖った顎をくいとしゃくった。それが合図だったらしく、四本の太い腕が再び俺にからみついてきた。

 双子は俺をベッドまで引きずって行き、仰向けに倒した。


 俺の視界に、LCの小作りな顔が入り込んできた。見下ろす彼女のピンク色の髪が俺の頬を撫でた。

 [仮想野(スパイムビュー)]でアラートがひらめいた。


illegal script detected ('penetration')

id ('duchess')


 この娘だったのか。さっきやばいスクリプトを使ってきやがった[公爵夫人(ダッチェス)]は。


 [眼光紙背(ペネトレーション)]。このスクリプトなら知ってる――相手の脳の信号を読み取るやつだ。ハクトもときどき使うことがある。[補助大脳皮質(エクスパンション)]の記録内容までは読み取れないが、相手の意識レベルぐらいならわかる。


 少女の指先が俺の額に触れた。

 その指はひどく熱かった。一瞬、錐で脳髄を貫かれたかのような錯覚があった。


 ひゅうっ、というLCの口笛が場違いなほど能天気に響いた。


「ビンゴォ♪ おじさん、[冗長大脳皮質(リダンダント)]持ちだね。おっどろいた、最近は豊作だなぁ」

「[リダンダント]? 何だ、そりゃ。……ここは救護室でも何でもねえな? おまえも看護師には見えねえし。離せガキども、悪ふざけはたくさんだ。俺はもう帰る」


 俺は驚きを顔に出さず、一般市民の芝居を続行した。若者たちの手を振り払おうとしてみせる。実のところ、相手が[冗長大脳皮質(リダンダント)]の語を口にした瞬間、心臓が沈み込むような心地がしたのだが。


 突然、俺の視界が肌色に埋め尽くされた。

 スツールから歩み寄ってきた少女が俺の顔のすぐ横に腰を下ろしやがったのだ。

 濃厚すぎる香水に空気が汚染される。


「おめでとう! あんたは今日から《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部候補だよぉ。もし幹部に昇格したら、あたしともっと親密にな・れ・る・か・も・だから、がんばってねー♡ ちなみにあたしの名前はLC。『素敵で可愛い(Lovely & Cute)』のLCだよぉ、覚えやすいっしょ?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このスクリプトって何だっけ? と迷った時は「雨の中のアリス」スクリプト索引をご覧ください。

小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ