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第2章(3) 白ウサギ

 朝食を済ませてから、俺は再びアリスを連れてコルカタ中央署へ赴いた。

 壮麗な白い建物を見上げ、アリスはぴたりと足を止めた。


「いや。ここは、いや……」


 その口調は、年齢の幼さを差し引いても、たどたどしい。声を出すのに手こずっているかのようだ。

 こちらを見上げてくる瞳の方が、言葉よりもはるかに雄弁にアリスの感情を伝えていた。


 その悲しげな目に、心が痛む。俺が心を痛める筋合いはないと頭ではわかっていても。


「警察がいやか。それなら、おまえの家がどこか教えろよ。連れていってやるから」

「家は……ないの」


 小さな声ではあったが、アリスの言葉には断定的な響きがあった。

 俺は天を仰いだ。


 ――たぶんこの子供は、小さな体に収まりきらないほどの事情と秘密を抱えているんだろう。身なりは悪くないのに、IDチップを持っていないし、「家はない」などと言う。こいつがどんな手を使って警察を抜け出したのか、どうやって六十五番街で俺をつかまえたのかも、謎のままだ。


 だが、俺はこいつの謎に興味はない。

 アリスの抱えている事情を解き明かし、解決してやるのは、警察と市の福祉課の仕事だ。


 俺はアリスとしっかり手をつなぎ、断固たる足取りで、署の玄関をくぐった。ひくひくっとアリスの呼吸が乱れるのが聞こえた。また大泣きするつもりか。

 大物ギャングの逮捕というビッグイベントがあったせいか、ロビーには依然としてレポーターらしき連中がうろついている。基本的に奴らは俺たちに関心はないだろうが、こんな人目の多い所でわんわん泣きわめかれたくはない。

 俺は薄氷を踏む思いでロビーを通り抜けた。



 生活安全課のカウンターには、あいかわらず凶悪な面構えのオオカミ警官が陣取っていた。

 警官は、近づく俺たちの姿を認めると、ギザギザの歯をむき出して威嚇の表情を浮かべた。こちらが何も言わないうちに、荒々しい叫びを発した。


「またあんたか! いい加減にしてもらえますか。子育てに問題を抱えてるんなら、警察じゃなく市の厚生課か福祉課へ行ってください。警察は、あんたが面倒を見られない子供を押しつけるための場所じゃない」


 とてつもなく深刻な誤解をされている。俺は不当な非難をはね返すべく、負けじと声を荒げた。


「こいつは俺の子じゃない!」

「見えすいた言い逃れはやめてください。一昨日(おととい)その子を警察(うち)に預けに来たけれど、気が変わって、こっそり連れ戻したんでしょう? 他人のはずないでしょうが」

「俺は、連れ戻したりしてない! こいつが勝手に警察署を抜け出して、俺を追ってきたんだ。気がついたら背後に立ってたんだ。俺は何も……!」

「そ・ん・な・ことができるわけないでしょう、こんな小さな子に?」


 ――相手の言うことはごもっともだ。ごもっとも過ぎて、とっさに反論を思いつけない。

 アリスの奴が全身で俺の腕にしがみついている。その必死な態度が誤解に拍車をかけていることは間違いない。


 俺は断固として真実を主張した。

 アリスは正真正銘の迷子だ。俺のアパートの前に立っていたので傘を貸してやっただけだ。それまで一度も会ったことがないし、素性も知らない。

 どうやって警察署を出たのかはわからないが、昨夜また俺のアパートの前に立っていた(そこだけは多少嘘をついた。六十五番街で再会したことは警察に教えない方がいいだろう。『コーカス・レース』の銃撃戦と関連づけられたくはないからな)。


 アリスの身元をつきとめて、保護者の元へ帰してやるのは警察の仕事だ。


 こいつが俺の子だというなら、そのことをそっちで証明してみせろ、と言ってやるとオオカミ警官はしばらく黙り込んだ。

 疑いの念がしたたり落ちそうな目で俺を睨み据える。かと思うと、話題の矛先を変えてきた。


「ジョン・リデルさん。コルカタ市へ来たのは二年前、ですか。……この二年間、納税記録がまったくないようですが、お仕事は何をされてるんです?」


 俺の身辺に関する質問攻めが始まった。

 仕事だけでなく普段の生活パターン、交友関係、コルカタへ来た理由まで訊かれた。本気を出したお巡りは粘っこく、しつこい。

 俺は「売れない画家」という表の顔を押し通した。納税記録がないのは収入が少ないからだ、と言い張った。


「コルカタ市に来る前は、どちらにおられたんです?」


 オオカミ警官が、体裁上つくろっているだけと知れる穏やかな口調で尋ねた。といっても、俺の顔に食い込む視線は完全に容疑者を見る目になっている。

 ブカレストだ、と答えながら俺はふと、いやな予感を覚えていた。


 いちおうブカレスト市のデータベースも書き換えて「ジョン・リデル」の在住記録を作ってあるから、ざっくり照会されたぐらいなら偽データとバレずに済むだろう。

 だが、コルカタ市警からブカレスト市に正式な記録精査を要求されたりしたら、かなりまずい。精査に耐えられるほどディープな細工はしていない。

 コルカタ市のデータベースの記録の方は完璧に偽造してあるんだが。


「六十五番街の『コーカス・レース』という店をご存じですか」

「聞いたことないな。……俺は六十五番街になんか、めったに行かない。あの辺りは柄が悪くて危ないだろ?」

「昨日の夜、その『コーカス・レース』で、アリスちゃんにそっくりな女の子を見たと言っている人間が何人かいるんですがね。その女の子は、男と一緒にいたと。……何か心当たりはありませんか」

「ないね。俺には関係ない」

「本当ですか? 目撃者に面通しをしたってかまわないんですよ? もし、六十五番街でアリスちゃんを連れていた男があなただと証明されれば、さっきのあなたの話は嘘だということになる。真夜中過ぎに、アパートの前に立っているアリスちゃんをみつけた、というのは」

「あんたが何を言ってるのか、まったくわからないんだが。俺はただ善意で迷子を警察に連れてきただけなのに、なんでこんな尋問まがいのことをされなくちゃいけねえんだ」


 やがて根負けしたのはオオカミ警官の方だった。

 俺は被疑者ではないのだから、奴には取り調べの権限がない。アリスが俺の子であることも立証できない。いくら俺が疑わしく見えても、連れてこられた迷子を引き取るしかないのだ。


 奴は、どの角度から見ても警察官には見えない狂暴きわまりない顔で俺を睨んだ。


「……三度目はありませんからね、リデルさん。いいですか?」

「何の話だかわからねえな。ちゃんと仕事しろよ。さっさとそいつの親を見つけてやれ」


 俺が去っていこうとしてもアリスが大泣きしなかったので、本当に助かった。

 アリスは大きな瞳に涙をためて、ひどく恨めしそうな表情で俺をみつめていた。唇を噛みしめている。けれども、ひとことも発しないままだった。


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