プロローグ
アリスは半分うとうとしながら、
「ネコは食べるかしら、コウモリを? コウモリを、ネコは食べるかしら?」
と、ひとりごとを言いつづけました。くりかえしているうちに、ときどき「コウモリはネコを食べるかしら?」と言ってしまったりもしましたが、どっちみち答えは出せないのですから、どっちがどっちになっても、たいしたちがいはありませんでした。
『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)
俺はうまく逃げ切ったつもりでいた。メッカを脱出してからアフリカ大陸を転々とし、三か月で四回もIDを変えた。ダーバンからポートケランへ向かう貨物船で密航する、と見せかけてインド洋のど真ん中で船から飛び降りて姿をくらまし、大きく迂回して域境を超え、欧州へ入った。
いくら《バラート》の連中が執念深くても。地球の隅々にまで張りめぐらせた人的ネットワークを持っていても。
この広い世界で俺を見つけ出すことは不可能だろう。
だから夏の終わりの夜、酔っ払いでごった返すピカデリーサーカスの近くでいきなりその男と出くわしたとき、俺は心臓が口から飛び出すかと思った。
「ようやく見つけたで」
独特の訛りがはっきり響く口調でそう言いながら、《白ウサギ》は純白のチョッキのポケットから懐中時計を引っぱり出した。白手袋をはめた手で、蓋をぱちんと開く。
「千七百八十八万三千六百九十五秒ぶりやな。……ここまで追いかけるの、苦労したんやぞ」
時計の文字盤から視線を上げ、奴はうっそりと笑った。
人口四百万人を超える世界最大の過密都市ロンドン。二十二世紀初頭の大転換期に文明と科学技術の大半を失いつつも、人類はゴキブリ並みのしぶとさで立ち直り、再び商業主義の徒花を世界に咲かせていた。もちろん制限つきではあるが。通りには、錯視を利用した巨大看板がずらりと並び、目ざわりなほどの存在感をもって通行人の視覚に攻撃をしかけている。
酔いどれどもの哄笑。飛び交うさまざまな言語。
そんな繁華街の真ん中で、俺は目の前に立つ白ずくめの男を眺め、舌打ちをこらえた。
「俺を抹殺しに来たのか。おまえが」
そう言ってやると、相手は小首をかしげた。
「そない人聞きの悪い言い方せんといてくれるか。抹殺やなんて。《バラート》は人類の尊厳と信教の自由を守るために暗躍する正義の宗教者集団やで。……おまえにはちょっと、色々忘れてもらうだけや。組織の秘密を守らなあかんからな。忘却は一種の祝福や。大いなる心の安らぎがおまえを待っとる」
「ほざけ、へぼ説法師が。どの面さげてそんな白々しいこと言いやがる」
俺は[仮想野]のモニタリング領域を一気に拡大した。半径三十メートル内のすべての人間の座標と生物学的情報を捕捉する。
広域をカバーするため情報密度を下げたが、それでも千を超える個体数のデータで[仮想野]がオーバーフロー。[仮想野]と連動している視覚にも負荷がかかる。
真っ白な髪をオールバックに固め、淡い赤の眸でこちらを見据える眼前の男。その像が一瞬揺らぎ、ぼやけた。
だが混乱はわずか数ミリセカンドしか続かず、俺の[補助大脳皮質]がデータ処理を完了。[仮想野]に刻々と変化するデータ列が整然と並び、《白ウサギ》にオーバーレイ表示される。
「……《バラート》に戻る気はないか。今やったらまだ間に合うで」
「まっぴらごめんだ。俺が伊達や酔狂でインド洋を二十キロも泳いだと思うのか。おまえらの面を二度と見ないで済ますためだろうが」
「あー、うん、おまえはそう言うやろな、と思てたわ。……いちおう形式的に訊いただけやねん。規則やから」
奴の間延びした返事が、生ぬるい風に乗って拡散していく。
――異端者を抹殺する前に改心の機会を与える、ってか。さすがは宗教者集団、お優しいことだ。
上品ぶった方針と裏腹に、実際の手口は「えげつない」のひとことに尽きるんだが。
「もうひとつ訊いてもええか。おまえが《バラート》から逃げたのは、レジィナのことがあったからか。レジィナがいなくなった組織には、もう残っててもしゃーない、とか……そういう理由か?」
その質問は、声を高めたわけでもないのに、雑踏の中でやけにはっきりと響いた。
奴の口調の真剣さに俺はとまどった。
「『その通りだ』と言ったらどうするんだ」
「俺は……おまえを見逃す。上には、ロンドンでおまえを見失ったと報告する」
《白ウサギ》は苦しげに顔を歪めた。
レジィナの話になると、こいつはいつも、俺には理解できない表情を見せる。
わけがわかんねえ。おまえは昔からそうだ。言いたいことは舌先まで来てるんだろ、さっさと吐き出しちまえよ。
俺は必要以上に荒い言葉で、はねつけた。
「そんなわけねえだろ。レジィナなんか関係ねえ。高位聖職者がご立派な台座から転げ落ちねえよう支えてやる仕事にうんざりしただけだ」
「……まだそんなこと言うてるんか。それが、おまえの、とことんあかんところやでっ!」
奴が一歩前へ踏み出す。
だがスクリプトの発動にかけては俺の方がはるかに速い。先手必勝だ。
focus target=('white_rabbit')
run ('easy_contraction')
俺のスクリプト[収納自在]の効果で、目の前の相手の左脚と右腕が七分の一サイズに収縮。バランスを失った《白ウサギ》が、宗教人にあるまじき悪態をつきながら地面に転がる。
スクリプトの効果範囲を限定したから、事象変化を知覚したのは《白ウサギ》本人だけだ。周りの通行人には、こいつがただすっ転んだようにしか見えないだろう。
俺の[仮想野]に、はっきりした変化が映った。
俺の後方二十九・四メートルの位置で、ショーウィンドウを眺めるかのようにずっと静止していた人間が、《白ウサギ》が倒れた途端、動き始めたのだ。
俺は振り返った。
鱗みたいに見える編み目の、ざっくりしたセーターを着た中年男がこちらへ向かって速足で歩いてくるところだった。知らない顔だ。だが男の視線はまっすぐ俺に向けられている。
離れていてもわかる、男の極度の神経集中。
間違いない。こいつは《バラート》の刺客だ。人の記憶を完全消去するスクリプト[泡沫夢幻]で、俺に過去を強制的に忘れさせるため派遣されたのだ。組織を抜けた人間に対する、連中の標準的な対処方法だ。
俺の背後で隙をうかがっていたが、《白ウサギ》が倒されたのを見て、あわてて動き出したのだろう。
illegal script detected ('oblivion')
id ('bill_the_lizard')
男と俺の距離が二十五メートルになった瞬間、俺の[仮想野]の下端をまばゆいアラートが横切り、中年男がスクリプトを発動させたことを知らせた。
だがその時にはもう、俺はそれを限定する準備ができていた。
男のスクリプト発動とほぼ同じタイミングで、
qualify target=('oblivion')
id=()
attribute=('direction:reverse')
相手のスクリプトの向きを反転させた。
男が俺に喰らわせようとしていた[泡沫夢幻]が、逆に男本人に発動した。
男が根元を叩き切られた蔓植物のように崩れ落ちるのを視界の端で確認し、俺は《白ウサギ》に視線を戻した。奴は、転倒のショックから立ち直りつつあるところだった。地べたから可能な限り頭を高く持ち上げ、血の色の眸をこちらへ向けていた。
「なんでわかった? 俺が囮やと」
「おまえが俺相手に一人で来るわけがねえ。おまえのやり口なんかお見通しだ。何年一緒に仕事してきたと思ってんだ」
言い終わらないうちに悔やんでいた。俺は自分の台詞に精神的ダメージを受け、同じダメージを受けたらしい《白ウサギ》が唇を噛みしめた。
あきらめろ、と俺は努めて抑えた声で宣言した。
「俺に不意打ちをかけるのに失敗した時点で、おまえらの負けだ。おまえが[泡沫夢幻]を使っても、俺は必ずそれを限定しておまえに弾き返す。見ろよ、あいつを。あんな風になりたいのか?」
必要もないが、いちおう指さしてみせる。
セーター姿の中年男は道路にぺたりと座り込み、よだれを垂らしながら天を仰いでいた。「あうあう」という哀れっぽい呻き声を漏らし続けている。その発声に、意味のある単語は一つも含まれていない。
[泡沫夢幻]は、知覚を上書きする普通のスクリプトと違って、相手の自前の大脳皮質に直接作用する。
「人の記憶を消すスクリプト」と言っても効果を厳密に制御できるわけではないので、たいていの場合、記憶だけじゃなく知性や人格もろとも吹き飛ばす。
それは不可逆的変化だ。この中年男は一生廃人のままだろう。
《白ウサギ》が苦しげに顔を歪めた。同僚の悲惨な有様に動揺したわけではないだろう。これまで数えきれないほどの人間を廃人にしてきたこいつは、そんなやわな神経を持ち合わせちゃいない。
「なんでやねん。なんで《バラート》を抜けるなんて言うんや。レジィナのためやないんなら。……おまえ、この稼業に向いてるやないか。俺たち最強やったやないか。辞める理由なんかないはずや。……《バラート》は脱走者を絶対に許さへんで。未来永劫、世界の果てまで追ってくる。おまえも知っとるやろ?」
語尾が本気の感情でかすかに震える。
俺は深く息を吐いた。
確かに、俺たちは最強のチームだった。そして、誰よりも親しい幼なじみ同士でもあった。五歳の頃からずっと一緒に育ったこいつ、俺、そしてレジィナ。
分断され混乱したこの世界で、メッカに本部を置く世界宗教者会議は最も影響力の大きい団体の一つだ。その活動範囲は宗教だけにとどまらない。人間生活のあらゆる場面で圧倒的な発言力を持っている。「良心の声」として、人類の利益と幸福を守るため、陰になり日向になり力を尽くしている。
《バラート》は、その世界宗教者会議の非公式の下部組織だ。
高位聖職者たちの命令を受けて、表に出せない汚れ仕事をこなすのが使命だ。
俺たち三人は《バラート》の中でも最優秀といわれたチームだった。各地へ派遣され、「人類を守るため」にろくでもない任務を遂行してきた。
だが、あの日々は二度と戻らない。
《白ウサギ》の推測は正しい。レジィナの死は、俺が《バラート》を去った理由ではないが、きっかけではある。彼女がいなくなり、俺はもう《バラート》に我慢し続ける意義を見出せなくなった。――だがそんなことを口に出して認めるつもりはない。
感傷も追憶もくそくらえだ。俺は踵を舗道に叩きつけて夜の中へダイブする。雑踏にまぎれて今度こそ逃げ切ってみせる、あらゆる追手と過去から。
――――I am everything, and I am nothing.