夏の幻
一定のリズムで走る電車。
四角い鉄のかたまりがこんなにも速く走っているだなんて、不思議な話。窓を開けて、顔を出して、風にあたりたい。
遠くには河原が見える。確か小さい頃、あんな河原でお母さんと一緒に遊んだ。
後ろから小さな衝撃があって、吊革を握る右手に力が入った。いつもはもうひとつ前の電車に乗るのだが、少し寝坊しただけで、電車の中は一変する。普段なら軽快な電車の音が、今日は客を食い過ぎたせいか、心なし、鈍い。
「夏だからって暑すぎでしょ」
「私最近、鬱だよ!うつ!」
「私も!」
自分が鬱だと言えてる時点で、あんたたちは鬱じゃないんでしょう。とか思ってる私が鬱なのか? いや、違う。ただの夏バテだ。
大きな街にある駅に着くと、同じような服を着た人たちが次々と降りて行く。少し涼しくなった車内で、空いたシートに腰かけて、窓の外を見た。もう河原は見えない。
眠るには微妙な時間だな……。そう思って、視線を車内に戻す。
ふと、隣が暖かくなった。沈みかけていた意識が浮上する。懐かしい匂いがした。
気になって隣を見ると、そこには、懐かしい母の姿があった。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
母は言った。私は戸惑い、返事を返し損ねた。
「あたなは食が細いんだから、きちんと三食、食べなきゃ駄目よ」
ふふ、と笑うとできる小さなえくぼは、確かに母のそれだった。
「大丈夫。ちゃんと食べてるよ。でもまたお母さんのだし巻き卵が食べたいな」
ほっと安心して、私も母に言った。
「また寝るときにお腹出して、風邪ひいたりしてないよね?」
別の声が聞こえた。懐かしい声。その方、母と反対側の隣を見ると、そこには、懐かしい友の姿があった。
「それも大丈夫よ。それより、来るなら来るって前もって言っておいてよ。どうして急に……」
言いながらもう一度母の方に向き直ろうとした時に、遠くの方で、アナウンスが聞こえた。そこではっと気づいた。私の頭は深く垂れていた。駅を確認した。私の降りる駅。両隣を見ると、もうそこには、母の姿も友の姿もなかった。
急いで鞄を手にとり、出口へ向かう。電車を降りて、もう一度だけ振り返った。閉まったドアの向こうに、誰も乗せていないシートが並んでいるだけだった。
「相当な夏バテだわ……」
ポツリと呟いた言葉は、すぐに電車にかき消された。
「しっかりしないと、夏に呑まれる」
さっきよりもはっきりと呟いて、右足を踏み出した。
次の休みには、懐かしい家に帰ってみようか。そう考えた私の頬は、少しだけ、緩んでいた。