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楔荘 序~七罪と戦争~  作者: 智額 護/作者 字
10/34

第八話 生きていたころの話

 今から約二千年前。今で言う日本国の中の、当時で言うとある国。

 禊と俺……健康は幼馴染だった。俺は孤児で、名前が無い俺に名前をくれたのが禊。大婆様の元に来ていた外人から教わった文字だそうだ。病弱だったから、少しは元気でいてもらいたい。そう込められて、健康。そう禊は言っていた。

 いつものように、原っぱで遊びながら木の実を採っていた。禊と俺はもうじき14になる。追いかけまわって、走り回って、つまずいて禊を押し倒してしまった。ごめん。いってーな、いつまで乗っかってんだよ、重い。禊が口を尖らせて怒る。気付いた。禊の体が隣に住むお姉さんと似た様になっている。

 夕方、大人しか入っちゃいけないという、神聖という神様が居るらしい大木の側に禊がいた。

「こんなとこでなにしてんだ?」

「最近体が変なんだよ……」

「俺が見てやろうか?」

「うん」

 禊が上を脱ぐ。やっぱりそうだ。あのお姉さんと同じ感じだ。

「それ……禊っておん……」

「何言ってんだ? 男に決まってんだろ」

「だ、だよな!」

「大人になったらちんちん生えて男になんだろ!」

 え……。

 遠くで禊の母親が呼ぶのが聞こえ、俺の手を取って歩き出す。

 今夜は国中の全ての村の交流の祭り。大人達は酒を飲み騒ぐ。俺と禊はこの感じが好き。篝火がパチパチ言う。ちょっと大婆様の処に行ってお菓子貰ってくるね。禊の側を離れしばらくして戻ると、禊が居なかった。辺りを見回して、森のちょっと入った処から禊の声が聞こえた。凄く嫌がってて、抵抗している声。俺を呼んでる。暴姦だ。足元にあった大き目の石で男の頭を殴った。男は逃げてった。禊の側に屈みこんだら、禊が苦しいくらいに抱き付いた。禊は泣いてた。震えて、俺の背中に爪を立ててしがみついた。

「男とか女とかがあるのがいけないんだ。女だから狩りに行っちゃいけないとか、女だからもっとお淑やかにとか、そんなの嫌だ。女だからって軽く見られたり、馬鹿にされたり、嫌だ。俺はウミウシが羨ましいよ。男女関係ないもん。こんな……穢れるためのもんならいらない……! くそっ!」

 それは海の向こうから来た大人が教えてくれた、両性の海の生き物。

 禊が自分の腹を殴るから、その手を抑えた。

「大丈夫。禊が男だろうが、俺は禊のこと大好きだもん。性別なんて気にしない」

 海の底で、二人で生きてければ……。


 ある日、大婆様の処に採ったばかりの薬草を持っていった。お客さんがいて入れないから、入口で禊と立って待っていたら、こんな話が聞こえた。お客さんは巫女様の使いで、最近災害で不作が続き、どの村も困っていて、巫女に近い力を持った禊を生贄にすることとなった。巫女に近い力と言っても、今の巫女は前の巫女よりも力が無い。俺らに見えないものが見える禊に嫉妬した巫女が、禊を生贄に選んだのだと思う。実行は禊の誕生日。禊は思わず手に持っていた籠を離してしまい、籠が落ちて薬草が散らばる。禊が走り逃げるから、その後を追った。

 禊の手をつかみ、やっと追いついた。話しかけようとしたら、禊に手を引かれて森に入っていった。着いたのは神様が居る大木。禊が大木に触れる。すると急に笑い出して倒れこんだ。

「大丈夫!?」

「大丈夫。御神がね、今、面白いこと言ったの」

「え、何も聞こえなかった……」

「俺には聞こえる。どんな声とか、どんな姿とかはわからないけど、言葉が頭の中に入ってきて、此処に居るってのがなんとなくわかるんだ」

「禊……」

「……大丈夫。生贄になったって、御神の処に遊びに行くだけだから……泣くなって。男のくせに」

「嫌だ……禊、死んじゃうんだよ」

「平気だって。お前も遊びに来ればいいじゃん。それに……俺がいない間、御神が代わりに成ってくれるから」

 涙が止まらなくて、禊に抱き付いた。禊は俺の頭を優しく撫でた。背中をポンポンと軽く叩いて、禊もちょっと泣いたのがわかった。

 禊の誕生日、家に来たのはそれを祝う子供達や親ではなく、手に武器を持った大人達だった。禊は家族に言った。お前らなんか親じゃない。顔も見たくない。今すぐこの国から出ていけ! そして俺の骸の前に二度と顔を見せるな! と。禊の弟妹は怖くて泣いていたが、両親はその言葉の意味を知ったのか、荷物をまとめ始めた。

 紐で手首、足首と胴体と首を縛られ、大木の前に座らされた。頭から動物の血を浴び、儀式が始まる。見たくなかったし、見れなかった。

 儀式が終わって、禊の前に酒の入った盃が置かれ、誰もいなくなった。大人たちは、これで不作がなおればなあ。あんな子供に。しかも罪のない子に。祟りが起こるぞ。大婆様も止めたが駄目だったようだ。かわいそうに。口々にそう言った。

 ――何時からかその話は消え、なんら変わりない毎日になった。不作も良くも悪くもならなかった。変わったのは、また孤独の、つまらない寂しいだけの毎日になったこと。

 ある日、禊が死んだと噂が流れた。

 松明の音じゃない。滝の音でもない。ぼうぼうと家屋から音がする。夜なのに明るい。家みたいに大きな松明が幾つも見える。人の喚き声、絶叫、鳴き声、うめき声がたくさん聞こえる。どんどん人が切られて、たくさん赤い雨が降った。見えたのは、燃え盛る家が禊の後ろに在り、両手は化け物のように大きかった。死んだはずの禊は俺の前にただ佇むだけ。禊の白い衣は赤い雨で赤黒くなっていた。

 禊の口が動く。幽かに聞こえたのは、「生きろ。俺の分と、国中の人の分。何時かまた、会えるなら」

 走って走って走って、隣国の近くまで逃げた。暫くして国に戻ると、黒い家と死体と、赤い大地と、青い空と、白い太陽と少しの雲が見えた。

 泣いた。悲しかったし、悔しかったし、痛かったし、辛かったし、愛しかったし、復讐と怒りと悲しみと、また会いたいという思いが混ざって、心の中が赤黒くなって、ドロドロしたそれは心の中いっぱいになって、はち切れんばかりになって溢れ出て、心からたくさん手が出てきた。

 気づいたら背中からもその手が生えて、死なない体になった。これで皆の分生きれるとも思ったし、これで復讐もできるし、また会えるとも、矛盾した思いが頭の中でいっぱいになった。


 月曜日、月明かりで目が覚めた。

 火曜日、家々に火を着けた。

 水曜日、海辺の人間を殺した。

 木曜日、山辺の人間を殺した。

 金曜日、町の方の人間を殺した。

 土曜日、残りの人間を殺した。

 日曜日、赤い雨が降って、全てが終わった。この命も。


 御神は怒った。願ってもいない事を押し付けられ、大事な友を生贄にされたから。友は御神の願いを受け入れた。その分、御神は友を生き返らせ、力を与えた。時間は七日。七日で御神の願いを叶えた。

 だが、友は人のくせに、その上巫女でもないのに神の願いを叶え、御神は人に感情移入し、生き返らせたと、罪に問われた。

 御神は永遠に神としての資格をなくし天界から追い出され、友は七日の罪、其々の七つの罪を背負うこととなった。

 御神はその罪を、穢れを洗い流してやりたいという思いから、友に禊という名を与えた。


 嗚呼なんという憤怒でしょう。貴女の怒りは友の怒り。沸騰した血液は貴方の体を燃やす。全てに逆らいすべてを否定し全てを肯定するその意志は実に憤怒である。償いきれぬ罪を繰り返せ。




 一年中冬の寒い雪の大地。

「ただいま~!」

「お帰り」

 幼い弟が仕事から帰って来る。

「お兄ちゃん体どう?」

「うん。今日は雪が降ってるからか、ちょっと体が軽いんだ」

「それはよかった」

「今日はいくら稼げた?」

「う~ん……これくらい……」

 弟が苦い顔をしながらポケットから小銭を出す。小さな白い手は寒さのあまり赤くなっていた。

「何とかお薬買える?」

「うん」

 微笑んで弟の頭を撫でる。弟が嬉しそうにする。本当は薬なんか買えない、それをごまかす為に撫でた。

 少しの野菜くずの入った、水のように薄いスープを一杯飲む。

 弟が本を持って俺のベッドの中に入ってくる。

「これ読んで」

「いいよ。靴下履いた?」

「うん。腹巻もしたし、あとパンツ二枚履いた!」

「フフフ……」

 本を広げ、読み始める。

「男の子は言いました――」

「お兄ちゃん」

「ん?」

「お父さんとお母さんはお仕事だから帰ってこれないんだよね。美味しいごはんとあったかいお家を建てるために遠くに居るんだよね?」

「あぁ、そうだよ」

 嘘だ。父と母は既に他界していて、弟と二人だけで暮らしている。

「この前町で見たんだ。大きなお皿に熱々のボルシチがたくさん入ってたんだ」

「お兄ちゃんの病気が治ったら、すぐに働いてたくさん稼いで、たくさんボルシチ食わしてやるからな」

「うん! お兄ちゃん、頑張って病気治してね」

「あぁ」

 狭いベッドで二人で眠りにつく。ごめんね、お兄ちゃん、情けないよね。いつかお前が他の子みたいに、学校へ行って、友達と遊んで、美味しいお兄ちゃん特性ボルシチをたらふく食って、ふかふかの暖かい広いベッドで眠れるよう、お兄ちゃん頑張るからさ。お前のお母さんの代わりになるような人を見つけて、お兄ちゃんがお父さんになってやるからな。


 ある日、弟はなかなか仕事から帰らなかった。探しに行こうとも思ったが、今日は一段と雪が酷く、探しに行けなかった。もう少ししたら帰ってくるだろう。何処か面倒くさがってしまった。

 そのおかげで、弟は次の日の朝帰ってきた。凍り付いた屍となって。

 俺が面倒がっただけで、弟が消えた。たかが街中歩くだけなのに、それすらもしなかったから。

 泣いた。泣いても足りないくらい。

 白い原の真ん中に立つ、白樺の木。その足元に弟を埋めた。生きていても仕方ないし、動けないから弟の側にずっと居た。

 春が来て、冬と共に俺の命は何処かへ行った。違う。弟の元へ、親の元へ行ったんだ。


 嗚呼、なんて愚かなことでしょう。なんて怠惰なことでしょう。一時の気の迷いで、小さな重いその命は御神の御元へ行ってしまうのです。生きる事をあきらめてしまったのです。嗚呼なんて怠惰な事か。なんて怠惰な罪だ。




 闇となれ。魂を狩る暗殺者、アサシンとなれ。

「お姉ちゃん!」

「あぁ、なんだ。どうした?」

「どうしたって……とうとうお姉ちゃんが長だね。この村、暗殺集団を率いる長だよ、村で一番強いって事だよ!」

「そんなにはしゃぐな。……吾輩にできるだろうか」

 長としての責任の重さと、村の歴史の重さに心が押しつぶされそうだった。

「大丈夫だよ! だってお姉ちゃんだもん! お姉ちゃんとっても怖いから……大丈夫……かな?」

「……不安だな、なんだか」

「あ、そうだ! お姉ちゃんに新しい戦闘服作ったんだ!」

「わ、吾輩にか……?」

「もう! 女の子なんだから、吾輩って言わないの!」

「あ、あぁ……」

「ほら、これ!」

「あ……」

 妹が仕立てた立派な服が目の前を泳ぐように現れた。

「髪の色が目立たないようフードも付けたんだ! あと紫色の模様もついてるんだ。かわいいでしょ!」

「あぁ。とても素敵だ」

「もう、かわいいって言ってよ」

「えっ……あ。あ、あぁ」

「ちょっと着てみて!」

 妹は嬉しそうに足が地に着かない様子だった。

「……こんな感じか?」

「うん! とっても似合う! お姉ちゃんかわいいよ」

「あ、有難う。かたじけない。訓練で疲れているのに、毎晩遅くまで……」

 私は妹の手を取る。

「ううん。お姉ちゃんのためなら、全っ然つらくもないよ。むしろ、早く作りたくて毎日うずうずしてたんだ」

「妹よ……」

「どういたしまして。フフフッ」

 妹のこの笑顔を見ると、どんなに心が押しつぶされそうでも、その重さは羽のように軽くなり風に飛んで行った。

 西の大国と戦うこととなり、我々は危険な状態となっていた。

「国と手を組んだのは良いが、いくらなんでも相手は大きすぎる! 一旦引きましょう、長!」

 部下が吾輩の顔を見つめる。

「いや、引かない。ここで引いたら負け同然だ」

「しかし……!」

「引かないと言っているのだ!」

「村ももう限界です!」

「そんな事知らん! 村の威厳を忘れたのか! 背くなら反逆罪として……!」

「別に構いません」

「何だと……?」

「大変です! 仲間が引き上げていきます! ストライキです!」

「なにっ……!」

 我が国は滅ぼされ、残りの村人も敵軍に捕まった。

「嫌! 私はお姉ちゃんと一緒に処刑されるの! 一人で生きるのなんて嫌よ!」

「言うことを聞け!! 南に昔つながりのあった国がある。その国なら受け入れてくれるはずだ」

「お姉ちゃん……!」

「もう……私にはお前しかいないんだ」

「じゃあ、最後に……私の名前を呼んで……」

「……あぁ――」

 公開打ち首場にて。

 長と大臣達計五名が打ち首となった。他の力のない女子供は解放してもらった。

 敵兵が剣を大きく振り上げる。上で剣が反射して眩しい。

 剣が振り下ろされるその瞬間、

「お姉ちゃ~~~~~~ん!!」

 最後に聞こえたのは妹の泣き叫ぶ声。首の無くなった私の細い体を抱き上げ、妹は渾身で泣いた。

 妹よ、傲慢なこの姉を許してくれ――。


 嗚呼、なんて傲慢な事でしょう。傲慢が故に顧みず、自らを滅ぼすこととなった。さあ、もっと苦しみなさい。貴方の罪は重いのだから。こんな事では償えない罪なのだから。




 愛してる。だから、貴方は他からの愛を受け入れてはいけない。

「あら、いらっしゃい」

「やあ。また君の顔が見たくなってね」

「まあ……ウフフッ」

 この男性とは付き合って一年半になる。

 双方のご両親もさぞ気に入り、結婚を前提に考え始めている。

「今日はパンプキンパイを作りましたの。お口に合うと嬉しいのだけれど……」

「うん! やっぱり君のパイは最高だよ! 私の母上よりも美味いかもしれない」

「まあ、そんな!」

「今度はスペアリブを食べさせてくれないかい?」

「今夜のご夕食にはご用意できますわよ」

「え、いいのかい!?」

「えぇ。そんなにお時間はかかりませんし」

「楽しみだな」

 仲睦まじい恋人同士のように見えるが、この男は既に六人もの女を持っている。

 今のままが良いのだけれど……別れようなんて言い出したら、その喉をナイフでかき開けてあげようかしら。……いいえ。その前に、他の女どもを最も卑劣な方法で殺してから、精神的に貴方を追い詰めて、じっくり遊んであげるわ。

 真っ赤な薔薇が咲き乱れる庭で、

「――別れよう……」

 ザァッと風が吹いて、薔薇の花弁が舞う。

 ……私がどんなに愛そうが、貴方には関係ないと……。

 ――なら、貴方を苦しめるための準備で忙しくなりそうね。

「……では、せめて最後にこのマフィンをお持ち帰りになって」

 このマフィンを食べたあなたは、一か月身動き取れずにベッドで彼女たちの死体を眺める事しかできない……。

 一人目、単純な奴だったから、後ろから絞め殺すことができた。貴方の好きなその美しい指を切り落とし送りましょう。

 二人目、こいつも意外に単純で、毒を盛ったワインで殺した。貴方の好きなその美しい足を切り落とし送ります。

 三人目、少してこずりましたが、屋上へ誘導し突き落とした。貴方の好きなその美しい髪を切り取り送ります。

 四人目と五人目、昔アーチェリーを習って正解だったわ。あの忌々しい首と顔をぶち抜いてやった。貴方の好きなその美しい首と顔を切り取り送ります。

 六人目、相討ちになり、私の胸に大きくナイフを突き刺されたけど、そのナイフを抜き取って滅多刺しにしてやったわ。貴方の好きなその美しい胴体を切り取り送ります。

 貴方の好きなその美しい私の目はあげられませんわ。だって、もう貴方の事飽きたし、嫌いだわ。

 貴方は自ら事切れてもうこの世にいないけれど、今其方に向かいます。貴方を地獄の底に引きずり下ろすために――。


 嗚呼なんて嫉妬深い事でしょう。貴方とその恋人の罪は重い。ともに地獄で仲良く交えればいい。そして、審判を下され別れればいい。人殺しの罪は重い。人とは実に愚かである。




 全てを愛する。

 いつものように河辺で声を出す。人が言う歌というもの。ただ思い思いに声を出すだけなのに、妖精の様だと言われる。

「あぁ、歌姫よ」

「あっ……」

「なんて美しい歌声だ。どうか私を恋人にして、その声を毎日聞かせてほしい」

 まただ。何百もの男が私に恋人になろうと申し込む。

「……ごめんなさい。私、貴方の愛が重すぎて抱えきれないわ――」

 男はとぼとぼと背中を向け帰って行った。

 私にはどんな良い男なんかよりももっと良い人がいた。

「歌姫」

「クロエ……!」

 黒髪の騎士が木陰から姿を現す。

「また男か……全く」

「歌わない方が良いのかな……」

「いや、お前は私の為に歌ってくれ。きっと戦場での傷が癒える」

「わかった。女の子なのに騎士だなんて、大変だね」

「うちは姉妹だけだから、末っ子の私が父の後を継ぐしかないんだ」

「お姉さん達はもう嫁に行ってしまったものね……」

「アメイジンググレイスを歌ってくれないか」

「本当にこの曲好きだよね」

「あぁ」

 すぅと息を吸い、クロエの傷が癒えるよう、妖精に呼びかけながら歌う。

 私は女なのに男性をあまり好まなかった。幼馴染で、家がらみもあったクロエとは仲が良く、男勝りなクロエを別の意味で好きだった。

 クロエが戦場へ行くこととなった。今回はとても厳しいらしい。

「無事、帰ってきて」

「あぁ。お前のためなら風のように帰ってくるよ」

「絶対だよ!」

「あぁ、絶対にだ」

 でも、クロエの声を聞いたのはそれが最後だった。

 胸に大きな穴が開いて、風が穴を通るたびに胸が痛んだ。

 暫くして、愛を誓おうとする男達が居なくなった。失恋のあまり身を投げる者が増えたからだ。それを聞いて、恋人でなくても、友人で良いから、その男たちを愛せばよかったと後悔した。クロエへの思いと、身を投げた男達への思いに体と心が耐え切れず、私は川の中へ入った。最初は苦しかったけど、水の中で歌っているうちに眠くなり、天から光が差し込み、クロエの声が聞こえた。

 クロエ、クロエ……私が男だったなら、貴方と結ばれる事ができたかもしれない。貴方を思うと胸が苦しい。この心臓はもう動かないけど、貴方が口付けしてくれたら、きっとまた動き出して、貴方に歌を聞かせてあげる事が出来ると思う。

 あぁ、生きることはなんて残酷なんだろう……。

 天の国なら、毎日がとても楽しいのだろう。きっと―――。

 私は全てに嘘をつこう。その嘘が貴女を守り、幸せにできるのなら。


 嗚呼なんて愛らしい色欲。人を愛さなければ苦しまずに済んだのに。誰も苦しまないのに。貴方は気づけるだろうか。嘘をつき続ければ本当に愛することも愛されることもなく、苦しまなかったのに。




 欲しい物の為ならば、火の中水の中入りましょう。

 貴族の館にて。

「だ~れだっ!」

「きゃっ! ……もしかして、ケイ?」

「ピンポーン! 遊びに来たよ、オフィーリア」

「いらっしゃい! ケイは全然変わってないね。奪ってきたお宝の呪い?」

「かもな。いつまでも若いって良いな。副船長なんかもう髭まで真っ白! でもムキムキは変わらねえな」

「フフフ。海賊も大変ね。またすぐに航海へ出るんでしょう?」

「あぁ。土産は何がいい?」

「いらないわ。だって、ケイが帰ってきてくれるだけで嬉しいもの」

「大丈夫。帰ってこないとお前さんの親父が怒るだろ。仕事ほったらかして先に天国へ行くとは何事だ! ってね」

「アハハッ、確かにそうかも!」

 俺はオフィーリアの親父に雇われた海賊。この娘、オフィーリアが母親のお腹の中にいるころから知っていて、昔はよく子守をして遊んだ。海の向こうの話が大好きなオフィーリア。今年で16になる。そろそろ嫁に行く年だから、俺も昔のように一緒に居るわけにはいかない。

「上の階級の貴族の元へ嫁ぐことになったわ……」

 とても喜ばしい話だと言うのに、オフィーリアは浮かない顔をしていた。

「そうか。それは良かったな」

「……全然良くなんかない。お願い! 数々の宝のように私を奪って! そして、海の向こうへ連れてって!」

「やめておけ。お前は嫁に行くのが幸せ……」

「全然幸せじゃない!」

「……わかった――」

 結婚式当日の事だった。

「汝は愛を――」

 神父が誓いを問うた時だった。

「誓うのは俺だぁ!」

 窓ガラスを蹴り割って中に入る。

「ケイ!」

「なんだ!?」

「海賊だ!」

「一人か!」

「貴方のお宝を奪いに来ました、殿下」

 オフィーリアの婚約相手に頭を下げる。

「ケイ、早く!」

「捕まえろ!」

 オフィーリアを抱え式場を走り去る。式場が海のすぐ近くでよかった。

 自分の船に乗り、すぐさま出航。

「バーカバーカ! そんなとこから撃ったってお前らのマスケットじゃ届かねーよ!」

「アハハッさすがケイ!」

「ったりめーだろ」

「これから何処に行くの?」

「まずは北の方で色々調達してだな――」

 海賊の格好をしたオフィーリアを連れ、北の森を駆け抜ける。

「ケイ! 囲まれた!」

「くそっ!」

 銃を二丁両手に持ち、兵士を次々に撃つ。オフィーリアの手を引き走る。

 何とか兵士を撒き、岩の裏に隠れる。

「ケイ……これからどうなるの?」

「安心しろ、俺が絶対守る。今まで俺が盗んだ宝を盗めた奴がいるか?」

「いないわ」

 オフィーリアを安心させるために笑顔を向けた。だがその時、

「ケイ、後ろ!」

 激痛が後頭部を走る。

 いつの間にか兵士が背後にいた。

「いやっケイ! ケイ!」

 どうにか開く目に、連れて行かれるオフィーリアが見えた。白い雪が俺の血で赤く染まる。

「返せ……俺の、宝……」

 体が言うことを聞かなかった。手を伸ばしても届かない。こんな事は初めてだった。

 その後、オフィーリアは例の貴族と結婚し、子供を二人産むと直ぐに死んだ。

 君から遊びに来るなんて珍しいね。オフィーリア――。


 嗚呼なんて強欲なんでしょう。仮に盗めぬものが無かったとしても、それは不可能である。人に力などない。懐が一杯になれば溢れる。人とは欲深いもの。こぼれた宝に人は群がりむさぼる。




 滅びるだけなら、ボクが喰べてあげる。

 ボクの家は見世物小屋って呼ばれている。ボクの部屋は狭いけど、外が良く見えるんだ。壁は鉄の棒が均等に隙間を開けて並んでて、皆は檻って呼んでいる。

 ボクにごはんとかくれるのが、お兄ちゃん。ほんとのお兄ちゃんじゃないんだって。

「ほら、ごはんだぞ」

 また今日も干し肉。お兄ちゃん、さすがに飽きちゃったよ。

「にぃ……に、にー、にゅ……」

「ん、どうした?」

「むう」

「なでなでしてほしいのか? よしよし……」

「ん~! わあ、にょ!」

 どうしたらお兄ちゃんみたいにしゃべれるかな。

「ぬう、にーた、ん!」

「ほら、もう寝な」

「出発するぞ!」

「はい!」

「の~、ムム……」

 たくさんのお部屋がガラガラと動き出す。これからまた別のトコに行くみたい。次はどんなとこかな。

 お部屋が大きく揺れた。外からたくさん声がする。お客さんかな? 布がかぶせてあって外が見えないや。でもなんだか違う。

 暫くして、静かになった。皆寝ちゃったのかな。でもいびきが聞こえないよ。

 布がどいて、お兄ちゃんの顔が出てくる。

「にーに!」

「今出してやるからな」

 お兄ちゃんに抱っこされてお外へ出る。たくさんお部屋が壊れて、所々に赤い水がこぼれてる。

「よいっしょ……」

 お兄ちゃんはつらそうに座り込む。どうしたのかな。

「痛っつ……」

 腕から赤いものが出てた。凄く痛そう。

「あう……にゅー」

 怪我してるのかな。舐めてあげないと。

「こら、舐めちゃだめだって」

 その時何かを感じた。お兄ちゃんを狙ってるような、飢えた鋭い視線が。

「お、狼……!」

 ワンワンみたいなのが五匹くらいいた。でも違う。

「うぅぅぅ……!」

「おい、無理だって! いくら犬に育てられたお前でも……!」

 ワンワンに向かって走る。追い返さなきゃ。

 たくさん噛まれたけど、お兄ちゃんは無事みたい。でも、眠そうでつらそう。

「むむぅ……ワン!」

「はは……お前は元気だよな……。いいか、お兄ちゃんが死んだら……食べてくれ。狼より、お前に喰われた方がまだマシ……」

「お……にー、た……む?」

「お前、やっと言えるように……そっか」

 お兄ちゃんが怪我した腕をボクの口に押し込む。取ろうとしても、お兄ちゃんの力が強くて、血と肉の匂いが口と鼻に広がる。なんだかおいしい。

 じたじたしてたら、お兄ちゃんが動かなくなった。

「おにぃ……た。おぎで……ん? ね」

 その時、パンッて頭がなって体がなくなった。誰かが近づいてくる。見えたのは光る鉄砲。

 お兄ぃ――。

 言葉とか、お家とか、難しくてよくわからない。お父さんとかお母さんとか、よくわからない。でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだって、なんだかわかる。あ、お兄ちゃんの匂い。

 これからボク、どこに行ってどうなるのかな。


 嗚呼なんて無垢な暴食。自分も他人もわからぬ、ただ理性と意識に任せて生きるだけ。神も死も親もわからない。自分さえわからない幼子よ。人はただ貪り食う。優しい手を差し伸べられるのなら、その手で裁いてやってくれまいか。




 千年なんて長いようで短いものである。その苦しみは案外、記憶にはとどまらないものである。

 少年は何を知り何を悟り何を学んだのか。それは他人に理解できるものではない。なぜなら、それは彼自身が感じたことであり、他人の事ではないからである。

 嗚呼どうか慈悲深き存在があるのなら、醜き哀れなこの私に気づいてはくれまいか。

 彼はかわいそうな方だ。彼の心に巣くう私もまた、彼である。

 存在の罪は全ての罪そのものでもある。

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