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楔荘 序~七罪と戦争~  作者: 智額 護/作者 字
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第零話 俺のハナシを聞いてくれますか。

 青い大きな空に、白い雲がゆっくりと流れて行く。雲の影は真下の草原に落ち、影は草原の上を走って行く。太陽は白銀に光り、日光は草原の生物を温める。馬や牛は草を食み、風は花の種を運んでいく。

 草原の向こうには森が広がっていた。森の奥へ進むにつれて木々の背は高くなっていき、足元に水が現れて行く。不思議な事に、水は風のように軽く滑らかで、綺麗な薄い翡翠色をしていた。木々の隙間から光が差し込み、水は宝石のように輝いていた。木の根の陰には魚が潜んでいて、木の上からは鳥の鳴き声がよく聞こえた。森の奥からはまた別の生き物の高い鳴き声が聞こえてくる。

 森から西へうんと遠くへ行くと、薄橙色の砂漠が見えて来た。砂漠に近づくにつれて日差しは強くなっていき、大地の体温を感じる。特に日差しの強いときは、砂金の砂漠のように黄金に輝いた。さらに奥に進むと、砂は白くなっていき、白い砂漠が辺りに広がる。雨上がりは砂のくぼみに大きな湖が幾つも生まれ、生き物のほとんどいない砂漠の湖にどこからともなく小魚が姿を現す。水色の水の中に銀の魚がいくつも泳いでいた。

 夜が姿を現し始めると、天上は瑠璃色に輝き、一際明るい星が一つ輝き始める。夜空を眺めながらさらに西へ行くと、地平線から朝日が昇り始める。そして鏡合わせになった空の真ん中にたどり着く。真っ白い塩の砂は水に浸され、巨大な鏡となり明けの空を映し出す。それはまるで空の真ん中にいるかのように錯覚させた。

 北へ行くと、黒い肌と赤い肉をむき出しにした火山が聳え立っていた。噴き出る血のようなマグマを流し、火山は大地の血脈を表すようだった。心臓が鼓動すると共に溶岩は火山口から吹き出る。灼熱のそれはまさに大地の生命力そのものだ。

 さらに北へ行くと、灼熱の大地は雪や氷の寒さに冷え固められ、厚い雲は空を覆い隠し、剥き出す硬い肌に雪を吹きつけた。岩肌に厚く纏う氷と雪の中で、溶岩は冷えて固まり、ゆっくりと精密な鉱石を成長させる。そして肌の割れ目から現れた鉱石は、人間がそう簡単に手にすることのできない、神の鉱石としてこの地に姿を現す。繊細で精密で、触れただけでも消えてしまいそうなほど、だが丈夫な、神々しいほどに輝くその鉱石は、まさに人には扱えないものだった。この地に宿る、人間には見えない何かのおかげで、鉱石はそういったものへと姿を変えて行く。

 さらに北、この大地で一番の天辺、この星の頭にたどり着く。そこはまさに聖女の頭の上で、寒くもなく熱くもなく、風もほとんど吹かない、雪でもない砂でもない軽い白い砂で包まれていて、透き通る無色の鉱石がいくつも成長している。頭上の星が瞬くその奥の闇の中に、オーロラがゆっくりと、空気の流れに乗って揺らめいていた。星の輝きにより鉱石は虹色に輝き、大地の白い砂の反射により、辺りは明かりが要らないほど明るかった。

 この美しい場所はどこにあるのか。この宇宙で一番生命の存在する地球にあるのだろうか。だが、この美しい大地に人の姿はほとんど見当たらない。町など一つも無い、村も無い。

 ここは地球とは別の、もう一つの地球の姿。宇宙のどこかにある楽園。地球を守るために地球を離れた者たちにより作り上げられ、守られてきた星の姿。

 人間のような言語を話す生物は皆、この星の化身である少女をこう呼んだ。


   聖女


 その姿はまさに白く清らかな輝く姿で、髪は浜、肌は砂漠、肉は大地、骨は金属、目は鉱石、血は溶岩、体液は水でできており、オーロラのベールを被り、雲の衣を纏い、海の布を着流し、緑の糸を巻き、花の化粧に、氷の靴を履き、金属と石の冠を頭に携える。それはこの広い世界に佇む青い星と呼ばれるそれに似て、この世の永遠の美しさを司る。全ての生命の母。

 そう、人類が彼女の存在を知ってから言い伝えられてきた。

 この星がこの星としてこの宇宙のどこかに存在するまでに多くの物語が語られている。物語一つ一つに一人一人の魂が籠められ、精神で紡がれている。一つ一つに醜いエゴがあり、純粋な思いが込められている。

 きっかけはちょっとした暇つぶしから始まったかもしれないし、大きな野望から生まれたかもしれない。それは誰にも分らなかった。






 柔らかい昼の日差しが白い木造の家の中に差し込む。その家の一部屋に、一人の少年の姿が見えた。歳は17歳ほどだろうか。アジア人らしい黒髪に、翡翠色の大きな目をしていた。重い前髪は右目を隠し、少年の持つ痛々しい何かを隠しているようだった。顔立ちは良いとは言えないが、死人のような不気味なその薄い顔は、どこか儚い美しさも持ち合わせていた。ゆったりとした白い服を着ているせいで体格はよくわからなかったが、服から出る腕や素足から、彼がどれほど痩せていて細いかが見て分かる。

 少年は分厚い本とクッキーの缶を持って、窓辺の机に向かって椅子に座った。木目の綺麗なこげ茶の机を撫でると、その上に本と缶を置いて、缶の蓋を開けた。中にはたくさんの写真が入っていて、少年はその一枚一枚を選別してまとめて行くように、いくつかのグループに分けて机の上に重ねて置く。重ねて行くうちに手の動きはゆっくりになっていき、ふと数枚の写真を持って手を止めた。そして、愁いを帯びた顔で写真を念入りに眺めた。一枚は若い男女が7人並んで写っている写真で、もう一枚は部屋で遊ぶ子供たちを写した写真だった。

「ハハッ、懐かしいなぁ」

 少年は嬉しそうに笑みをこぼして独り言をつぶやいた。その声はどこか甘ったれた滑らかで、けど枯れたような低さがあった。

 7人の男女の写る写真を掲げ、

「七罪の時撮ったやつだ。元は一つだったから、一人が力を使っているとき、他の奴は使えないんだったなぁ。ホント、人数増えて楽だったけど、能力を使えないのは悔しかったな。被害額もバカにならない」

 そして、今度は子供たちの写る写真を掲げ、

「アイツらが施設に来たばかりの写真か……。杏仁は人見知りが激しかったなぁ。健良はすぐに懐いてくれた。マーリンは冷たい印象だったが、年上なりに小さい子たちの面倒をよく見てくれていて、大学に出てから優秀な生物学者になってくれた。アーサーは今もこの頃も全然変わらないな、昔からわんぱくでいつも無茶をする。顔に傷跡を作って来たのは高校の時だったか……妹を守ろうとしてできた傷だから、絶対消したくないって言ってたな。その後にオースティンや円香が入って来て、アルベルトが職員として入って来た。みんな支部長としてよく努めてくれたよ――」

 少年は頬杖をつきながら写真を置き、テーブルに広がる写真を見渡した。どれも少年にとってはかけがえのない思い出であり、忘れてしまった忘れてはならない思い出だった。少年の顔から思わず笑みがこぼれた。

「禊」

 ふと、背後から名を呼ばれ、少年は声のした方を振り返った。

「あぁ、レオか」

 禊にレオと呼ばれた少年が近づいて、禊の肩口に机の上を覗いた。

「写真か?」

 レオはつまらなさそうな顔をして言った。

「一番若いお前には珍しいか?」

「珍しいも何も、こんな古い物。紙っぺらで取っておくより、データの方がずっと長持ちするだろ」

 レオは呆れた様子で話す。禊はレオの頭に手を置くと、

「それでも、この紙っぺらが良いんだよ。大事なものほど、手に取って物として取っておきたくなる。人間の心理だよ」

 レオは納得いかない様子で鼻で笑った。

「この男は誰だ? たまにこの家で見かける」

 レオは一枚の写真に写った、赤いシャツを着た男を指さした。20代ほどのその男は禊と同様に右目を前髪で隠し、少し長い襟足を結んでいた。眉間に寄せたしわのせいで、ずいぶん老けて見えた。

「怨だよ」

「エン?」

「怨みと書いて怨。変な名前だよね」

「親は相当最悪な奴だな」

「うん、そうだね。最悪な奴だったな」

「なんだ、知ってんのかよ」

 禊は嬉しそうに笑う。レオはいぶかしげな顔をし、

「なぁ、この怨は何でお前と同じように片目を隠してるんだ? 呪いでも持ってんのか?」

「いや、そういう面倒くさい理由じゃないよ。コイツは仕事の事故で右目にケロイドを持っているんだ。上司という立場もあって、部下を怯えさせないために最初は眼帯付けたりしていたんだけど、見えにくいからって前髪で隠すようになったんだ」

「お前が治してやればよかったのに」

「いや、俺にそれは出来ないよ。コイツは人間ではないから、無理なんだ」

「あっそ」

 レオは飽きてしまった様子で禊から離れると、

「ちょっと海行ってくる」

 背中を向けたまま手を振り、部屋を出て行ってしまった。

「反抗期かな……」

 禊は困った様子でレオのいなくなった方を見つめた。

「禊さんっ」

 そこに眼鏡の青年の姿が現れた。

「おぉ、忍か」

「近くを寄ったので来てみました。差し入れです」

 忍と呼ばれた青年はホタテやハマグリなどの貝類の入った網袋を差し出す。

「おぉ、よく採れたな」

「少し海の近くに行ったんです」

「沼地と河の方はどうだ?」

「しばらく悪天候が続いてましたけど、もうこれからは安定しそうです。今、土石流を少し片づけているところで」

「そうか、怪我の無いようにな」

 禊は貝の入った網袋を持って一階の台所へ向かう。

「あの、禊さん、それで今日はその……」

「ん、何だ?」

 禊は鍋に水を入れ塩を少し入れ、その中に貝を入れる。

「一緒に夕飯、食べたいなと思いまして……」

「あぁ、夕飯な。別に構わんぞ」

「いいんですか?」

「一人で飯を食うのは少し寂しくてな。やっぱり大人数で賑わって食べる方が俺は好きだ」

 禊は少し照れた様子で答えた。すると忍は目を輝かせ、

「じゃ、じゃあ、あと何が必要ですか? お米なら今年は豊作だったんですよ!」

「じゃあー、レンコンかな。まだある?」

「はいっ、あります!」

「今日は煮物と……そうだな、アサリのご飯と……」

 禊は床下収納の蓋を開けて中に首を突っ込んで確認する。

「禊さんとご飯……楽しみだなぁ……」

 忍が嬉しそうにしていると、

「いけない子だなぁ、君は」

 白髪の青年が忍の肩口に顔を出した。

「ひゃぁぁぁぁ要!?」

 要と呼ばれた青年は眩しいほどの天使のような微笑みを向ける。

「禊と二人っきりでご飯食べて、その後の事考えてたでしょ? 何するつもりだったの? 夜の事期待してたでしょ……」

 要は耳元でそっと囁く。低く甘い声が忍の耳をくすぐる。

「そ、そんなわけないでしょう!? 何考えてるんですかアホウドリ!」

「僕は鴻だよ~」

「アホウドリも翼を広げれば十分にデカいわ!」

 要はヘラヘラと笑いながら床下収納に頭を突っ込む禊の側に座り込む。

「折角のご飯だったのに……」

 忍がため息をついていると、

「なんだ、ため息なんかついて。幸せが逃げるぞ? って、アラサーの魚なら言うだろうな」

 重そうな瞼だが切れ長な目が印象の、顔立ちの整った黒髪の青年が笑いながら忍に話しかけた。

「尊さん」

 尊と呼ばれた青年は大きな昆布を掲げ、

「今日は旨いものが食えるだろうと思って、持ってきてみたぞ。昆布だしは美味いぞ! お前、最近薄毛に悩んでるとも聞いてな!」

「……帰ってください」

 忍は尊に冷ややかな目を向ける。

「何でだよ!」

「そうだよ、お前気に入らないんだよ。本当に目障り」

 そう声がし、尊の背後から両手が伸びてきて、頬を思いっきり引っぱった。

「いひゃいいひゃい!」

 両手は頬を離すと、尊の背後から一人の少年が姿を現した。禊と年が近いように見え、つり目に微動だにしない表情が印象的だった。

嫌好けんこう!」

 忍の顔が明るくなる。嫌好と呼ばれた少年は通り際に尊の脚を踏んで行く。

「何しやがるこのタコ!」

 尊は怒って嫌好を追いかける。

「この人たちは無意識にエスパーでも使っているんだろうか……」

 忍は禊の周りに群がる男たちを遠い目で見つめる。

「仲が良いから、無意識に意識が通じるんじゃないかしら?」

 ふと、横に亜麻色の頭がやって来る。亜麻色の髪の17歳ほどの少女は上目づかいで忍を見た。灰色がかった桃色の目がゆっくりと細められる。

言葉ことはさん」

 言葉と呼ばれた少女は頭に着けたカチューシャを気にしだし、

「今日はなんだか調子が悪いの。少し見ていただけます?」

 言葉に頼まれ、忍は恐る恐る頭に触れる。滑らかで柔らかい髪は絡みつくように忍の指にまとわりついた。ほんのりと優しい花の香りが彼女の髪から漂う。

 忍は唾を飲み込みながらカチューシャを見て、

「中の骨が曲がってたみたいです。軽く直してみましたが、まだ不調でしたら工房の方に持って行った方がいいと思いますよ」

「ご丁寧にありがとう」

 言葉はスカートを軽く持ち上げ、小さくお辞儀をすると、禊に群がる男たちを払い除けて禊の側に佇んだ。

 忍は後れを取るわけにはいけないと思い、急いで禊の元に駆け寄り、

「禊さん、とりあえずお米炊きますね。何号ですか?」

「んー、窯二つ分くらいかな。そのうちまた誰か来るだろうから」

 忍や禊たちはそれぞれで仕事を分担させながら、そんなに広くも狭くもない台所に押し籠って料理を始める。

 そうこうしているうちに家の中の人間の数が増え、気づけばこの星に住む人間全員がテーブルに着いて食卓を囲んでいた。

「26人前かぁ……こんなに作るのは久々だ!」

 禊は嬉しそうにそう言うと、勢いよく中華鍋をふるった。

 そして大皿に盛られた数々の料理がテーブルに並べられ、言葉が幼い子供やレオに前掛けを付けさせたりしていた。

「「「いただきまーす!」」」

 大勢の元気の良い声が家に響き渡る。

 各々が大皿から食べたい料理を取り分け、幾つもの料理を少しずつ楽しむ者、一つの料理を口いっぱいに頬張る者もいた。

「禊、おかわり!」

「俺も!」

「私も!」

 箸の進まない禊に茶碗が差し出される。

「ハイハイ。よく食うよなぁ、お前ら」

 禊は嬉しそうに笑いながら、茶碗にご飯をよそっていく。

「禊さんはもういいんですか?」

 忍はハマグリのお吸い物をすすり訊ねた。

「俺はいいよ。とりあえず料理は全部手を付けたし、味見で結構食べたから」

 禊の取り皿はほとんど汚れた形跡がなく、茶碗は汚れが一切なかった。

 そしてあっという間に大皿は空になり、皿に残ったタレや汁を、子供らが一生懸命スプーンですすっていた。満腹になった大人たちは縁側に座って夜空を眺めたり、リビングで会話をして休んでいた。

「さてと、片づけるか」

 禊は身体を重そうに起こすと、食器を重ねて台所へ持っていく。

「禊さん、手伝いますよ」

 忍が袖をまくりながら禊の横にやって来る。

 二人で少し会話もしながら食器を洗っていると、要や嫌好が台所のカウンターにやって来た。

「デザートとか無いの?」

 そう言いながら要はカウンターに置かれたバスケットの中などを漁っていく。

「んなもん自分で作れ」

 禊は冷たく答えた。

「えー、無慈悲。禊の作るのが食べたいのに」

「言葉に頼めばいいだろ」

「だってあの子、冷たいじゃん。特に僕らには」

「それはお前がいらん事するからだろ」

「ねーえー、何かない?」

 禊は仕方なさそうにため息をつくと、濡れた手を拭きながら戸棚からガラスの壺を一つ出して来た。

「この中に飴が入ってるから、それでも食ってろ」

「わ~い!」

 要は嬉しそうに壺の蓋を外し、中から飴を一つ出す。透明な飴は光に当てると、鉱石の様にキラキラと輝いた。

「綺麗だね~」

「あんまり食べるなよ。来客用なんだから」

「来客って誰が来るのさ」

「さぁね」

 要は飴を一つ口に入れると、

「ん~、なにこれ! 何の味だろう?」

 嬉しそうに口の中で飴を転がした。

「酸味がある、けど甘くて、甘いのもさっぱりした甘さで……」

 嬉しそうに飴の味を推理する。

「何味かは俺も知らん」

 禊は皿を次々と洗っていく。

「禊が作ったんじゃないの?」

「言葉からもらった」

「禊のお菓子じゃないじゃん~!」

 要は悔しそうにカウンターにうなだれた。

「最近何も作ってないんだよ。今年は小麦の採れ高が悪いしな」

「米粉とかじゃダメなの?」

「米が採れたばかりだからまだ挽いてない」

 要はその言葉に悔しそうに口を尖らした。

「ほら、さっさと家に帰れ。俺は片づけがあるんだよ」

 禊は追い払うように手を振った。

「じゃあ手伝おうか?」

 嫌好が禊の手を握って言うと、

「忍とやるからいい。それにお前はちゃんと働かないだろ」

 禊は嫌好を睨むように言った。

 忍は頬を少し染め、

「そ、そうですよ。貴方たちみたいな役立たずはさっさと帰って明日に備えて寝てください!」

「誰が役立たずだ、両生類が。フクロウによく食われてるくせに」

 要が鬼のような形相で要を睨んだ。

「喧嘩すんなら今すぐ帰れ~」

 禊がそう言うと、要と嫌好は大人しくリビングにいる他の者の所に向かった。

「禊さん、今日はありがとうございました」

 忍が少し恥ずかしそうに言うと、

「いや、別に礼なんかいらねぇよ。俺もたまには大人数の料理を作りたいなって思ってたから」

 皿を洗う禊と忍の手がぶつかり、二人の動きが止まる。すると禊は洗剤の付いた手で忍の手を掴み、指の間、手の甲、手のひらと指を這わせていき、手の隅まで指が触れて行く。

「み、禊さ……ぁ」

 忍は驚いた様子だったが、手を引っ込めようとは考えなかった。

「お前の手は大きいよな。指が長い。爪が丸いんだな。平たくていつも湿っぽい」

 指先や手首の付け根に触れるたび、くすぐったさが全身に走り背中がゾワゾワした。

 そして禊はゆっくりと手を離し、今度は忍の目をじっと見つめて来た。

 忍は生唾を飲み込みながら見つめ返し、ゆっくり顔を近づけて行く。そっと目を閉じようとした時、

「俺な、一つやりたいことがあるんだよ」

 禊の一言に、忍は急いで我に返って返事をする。

「出だしをどうしようかずっと悩んでたんだけど、お前があの家に来るところからの方がいいかなって思ってさ。お前の覚えている事を知りたいんだ」

 忍は少し放心状態になったが、

「あ、ハイ、わかりました……」

 そっけない返事をした。

 皿を洗い終わり、シンクの周りを拭いていく。

「よし、じゃあ忍、机を拭いてくれないか。俺は物置に椅子をしまってくるから」

 忍は放心したまま、禊に渡された布巾を受け取る。

「忍?」

 禊が顔の前で手を振るが、忍は一切反応しない。禊はそっと忍の顔の前に両手を持ってくると、勢いよく手を叩いた。

「わぁっ!?」

 忍は驚きの声をあげると、我に返った様子で急いで机を拭きに行った。

 尊が湯飲みを持ってやって来る。

「何かあったか?」

「別に、ちょっとおまじないをね」

 禊はそう言って笑うと、尊に椅子を片付けるのを手伝わせた。

 一通り片づけが終わり、子供らとリビングでのんびりしていると、禊の上に影が乗った。禊が気づいて振り返ると、そこには一人の男が禊の様子を覗き込んでいた。男の耳には大きな瑠璃のピアスが下がっていて、美しい瑠璃色の瞳に眉目秀麗な顔は常に微笑みを保っていた。

「どうした、宵彦」

 宵彦と呼ばれたその男はにっこり微笑むと、床に座る禊に視線を合わせるために跪き、

「今宵はこのような素晴らしい晩餐にご招待して頂き、誠に感謝いたします」

 宵彦は礼儀正しく胸に手を当て頭を下げた。

「お前は本当に堅っ苦しいよな~」

 禊は笑いながら宵彦の頭をクシャクシャと撫で、

「そもそも招いてねぇし」

「左様でございますか!?」

「誰から聞いたんだ?」

「若いお嬢さん方から……」

「あー」

 禊は仕方ないと言った様子で笑いながら、また宵彦の頭を撫でる。

「まぁ、大人数でのご飯は好きだから」

 禊がそう言うと、宵彦は頬を染めながら耳元のピアスに触れた。

「そうだ、小町はいるか?」

 禊がそう言いながら部屋を見回すと、一人の女が顔を出す。

「なんだ、私はここだ」

 小町と呼ばれた女は本を閉じながら禊に近づいてくる。怒っているように見える顔だが、全く怒っている様子はなく、むしろ常に考え事をしているせいでこのような顔になってしまっているらしい。小豆色の髪に緑色の目から、和菓子のようだと言われることも多い。

「お前に相談があるんだ」

「なんだ、また新しい企画か? もうダンスを踊ったりはしないぞ」

 小町の眉間が一層深くなる。禊は急いでなだめるように、

「そうじゃねぇって。俺らの事を何らかの媒体に残しておきたいんだ」

 小町は少し興味あり気に腕を組んで見せる。

「つまり?」

「俺らの事を本にしたいんだ」

「論文ならいくらでも出ているだろう」

「そうじゃなくて、俺らが生まれてここに来るまでの、争いや葛藤や、エゴなどのそういう所を何かに残しておきたいんだ」

 小町は少し考え始める。

「別にいいんじゃない?」

 要がやって来て禊の話に参加する。

「ドキュメンタリー形式にでもするの?」

「いや、そんな硬いものじゃなくて」

 小町と要が首をかしげる。

「物語を書きたいんだ」

 それを聞いて小町はまた難しい顔をしたが、要は嬉しそうに禊の手を取り、

「良いね、それ! また書き始めるのかい?」

「うん。すごい久しぶりになるけど」

「小遣い稼ぎで書いてたのも結構面白かったよね」

「かなりB級だったけどな」

 小町はブツブツと独り言をつぶやき、

「なるほど、良いんじゃないか? 物語の方が入り込みやすく伝えやすいかもしれない。受け手によっては少し真実が変わってしまうかもしれないが、自分の人生を人に語った時も同じような結果だ。賛成しよう」

 小町は微笑んで禊に手を差し出した。

「ありがとう」

「けど、お前はそこまで文才なのか? まだあの書斎に引きこもってるアイツの方が……」

「うん、でも、できれば自分で作りたいんだ。事の発端となった俺が書くべき、そんな気がする……」

 禊は少しうつむいて言った。

「そうだな……」

 小町は禊の肩に手を置く。

「大体の流れは出来ているのか?」

「うん、まぁ」

「けど、このメンバーだけで作っていくのは少し無理があるんじゃ……。僕らにも知らない部分は多い」

 三人が悩んでいると、禊が手を叩き、

「職人に頼んでみるか!」

「職人?」

 小町と要は同時に聞き返した。

「彼ならきっと知っているはずだ。俺らの事も、事の発端も、そして、聖女かのじょの事も……」

 禊は顎に手を添えながら答えた。

「よし、そうと決まれば明日、話し合いをしよう。おい、皆の者、よく聞いてくれ!」

 小町がリビングに人を集め話をし始める。

 暖かい明かりの溢れる家を、白い影がそっと木陰から覗き見ていた。そしてその影は嬉しそうに微笑むと、白い髪をなびかせながら森の奥へ消えて行った。




 事の発端は本当に些細な事だったかもしれない。蝶が羽ばたけば地球の裏側で竜巻が起こるように、きっかけは小さなことでも大きな何かが生まれる。

 幼き寂しさは過ちを産み、呪いと願いを育てた。

 そして身が朽ちるとき、土と肉を混ぜて作った傀儡に魂を繋げ、記憶の結晶を砕いて流し込んだ。

 罪を償う事は永遠に終わらないが、その誠意も終わらないのである。

 エゴとエゴの摩擦で生まれるのは火の粉か、屑か、結晶か。

 強き思いは時として肉体を飛び出し動き出す。人間だからこそ成しえる事であろう。


 私は最良を願ったかもしれない。最悪を作り出したかもしれない。それでもそれは受け取り次第で良くも悪くもなる。

 私が伝えたいのは、こんな小さな話から、何か読み取ってくれれば良いと言うだけである。読み取ったものが誰かの何かになればそれでいい。受け取り生まれたそれが、私にとっての完成であり、過程でもある。

 どうかこの色とりどりなディナーを楽しんでいただきたい。愚かな人間より成り下がってしまったシェフによる振る舞いを味わってもらいたい。そして組み合わせて新たな味を楽しんでもらいたい。


 ご堪能あれ。

 団子鼻のぬいぐるみより。

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