甘い罠
会話文はイタリア語だと思ってください。
時刻は9時25分。
夕飯を食べ終わり、2人は山を降りてターゲットを探していた。
沙樹以外の人物を見てはいけないという条件を忠実に守り、ひたすら正面を向いて沙樹の背中を追いかけていく。
しばらくすると沙樹は唐突に振り向き、物陰に隠れるよう指示を出した。
沙樹の目線の先には、ナンパ目的とおぼしき1人の若い男がいたのだ。
端正な顔立ちをした、30手前ぐらいの男性。
上品な茶髪に、手入れの行き届いた肌。
爪には透明なマニキュアが塗ってあって、そこはかとない色気があった。
「軽そうな男ね……長期戦になる予感がするわ」
「そう? 是非とも上手くやって頂戴」
「ええ。確実に仕留めてみせるから、京子は早く隠れて」
「わかった」
京子はそう言うと茂みの中へ素早く身を隠し、狩りのチャンスをじっと待った。
然も何事もないかのように前を通る沙樹に、男性はニッコリと微笑みかける。
「これはこれはお嬢さん、夢の世界への旅立ちに失敗かい?」
「ええ、まぁ……」
「こんな時間に1人で外にいたら危ないだろうに。よかったら家に来ないか?」
「いいんですか?」
子猫のようなキラキラした目で男性の話にのり、従順についていく。
もっとも、彼女の目が輝いているのは、目の前の男性を殺したくてたまらないからなのだが。
2人が家に入るタイミングを見計らって、京子は音を立てずに玄関へ入っていった。
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「君はどこから来たの?」
「日本よ。イタリアの景色に興味があって、一人旅してきたの」
「わぁ、こんなに若いのにすごいね。俺が君ぐらいの年の頃は、とてもじゃないけど出来た試しがなかったよ」
「それほどでもないわ」
重荷を下ろしたような打ち解けた口ぶりで会話を交わす2人。
流暢なイタリア語が2杯のカプチーノの上を交差し、徐々に2人の距離が縮まっていく。
京子はその光景をドアの隙間から覗いていて、それに気付いているのか否か、男性は部屋のドアへ視線を時折ずらしている。
「どうかしたの?」
「何でもない。それより……今夜は泊まらないか?」
「え、そんな恐れ多い事できないわ」
「遠慮する事ないさ。君みたいに謙虚な女の子を見ると、守りたくなるタチなんでね……」
男性はそう言うと沙樹の背中に腕を回し、そっと口づけを交わした。
彼の体温が全身に伝わり、言葉では上手く言い表せないような感情が沙樹の脳内で渦を巻く。
これには流石の京子も顔を赤く染め、ツンと目線を横に向けた。
それをよそに、2人は完全に自分達だけの世界に入っている。
お互い思い通りに事が運んで、心の底から幸せそうだ。
この時、男性は知らなかった。
一時の甘い夢を見させてもらった後、どんな展開が待っているのかを…………。




