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真夜中のすこし前

作者: しわくちゃのウェルテル

千裕には、とても好きな人がいる。

依光さんといって、千裕の職場の、千裕より少しだけ偉い人だ。

あまり一緒に仕事をすることはないけれど、懇親会でたまたま近くの席になって、話すようになった。二人ともぺらぺらしゃべるタイプではないけれど、ぽつりぽつりと、長い時間話が続いて、それがお互いなんとなく居心地がよかったのだ。二人ともお酒が好きなことも、打ち解けるきっかけだったのかもしれない。


やがて二人だけで、飲みに行くようになった。週に一度、金曜日の夜に。カレンダーどおりの仕事なので、次の日のことを考えず、気兼ねなく飲むことができる。


二人が行く店はだいたい決まっている。職場から少し歩いたところにある、小料理屋さんだ。

最初は二人ともビールを注文する。すぐに出てくるたこわさをつまみに、少しだけ仕事の話をする。

お刺身が出てくる頃には、日本酒に変える。今日は初鰹のお刺身が入っている。戻り鰹よりもあっさりとした味が、冷えた辛口のお酒によく合う。

昼間の陽気が段々と冷えてきたので、おでんの盛り合わせを注文する。一種類ずつしか入ってないので、二人はお行儀よく、譲り合いながらどの具を食べるか決めていく。ただ、大根だけは二人とも好物なので、半分に割って分け合って食べる。丁寧に面取りがしてあって、噛むとじゅわっと出汁が染み出す。

千裕と依光さんは、趣味が似ているけど、完全に一致してはいない。

二人とも音楽が好きだけれど、千裕はクラシックが好きで、依光さんはジャズが好きだ。でも、両者のリズムの取り方の違いとか、影響を受け合っている例などをあげていると、話は尽きない。

二人とも映画が好きだけれど、千裕はミニシアター系のヒューマンドラマが好きで、依光さんはハリウッドの派手なアクションものが好きだ。でも、依光さんがアクションヒーローの心の機微について細かく話すのを聞くと、千裕はその映画が観たくなって、週末にレンタルショップに借りに行ったりする。

そんな話をしているといつの間にか色々な種類の日本酒を空けていて、千裕は依光さんと一緒に、飲み干した地酒の土地を旅行をしたような気分になる。


ちょっとさっぱりしたものが飲みたくなるので、二人はお店を出て、これまた少し歩いたところにある、小さなバーに行く。

甘いカクテルは飲む気にならないので、二人ともたいてい、ウイスキーをロックかソーダ割りで出してもらう。ほどよく塩気の効いたナッツを口に放り込む。

この頃には二人とも結構酔っぱらっていて、あまり内容のない話をする。小さい頃の話をすることが多いようである。依光さんは体が弱くて、少年サッカーがしたかったのにできなかったことや、図書館でたくさん本を借りていたことや、二桁以上のわり算がなかなかうまくできなかったこと、を聞く。そんな話を聞いていると、千裕は、会ったことのない依光少年を、とてもよく知っているような気がする。


夜も更けると、お会計をして、駅に向かう。駅と反対方向に飲み歩いて来たので、冬に逆戻りしたような、冷たくなった夜風を切りながら、人通りの少ない道をしばらく歩く。二人とも酔っぱらっているので、ふらふらしている。千裕はいつも無意識に、依光さんの左側を歩いている。依光さんは鞄を右手に持っていて、千裕は左肩に鞄をかけているからだと思う。

ふらふらしているので、時々手の甲がぶつかる。三度目にぶつかったときに、千裕の掌を依光さんの掌が包み込む。依光さんの掌はとても柔らかい。千裕の指の間に絡まった指も柔らかい。そしてじんわりあたたかい。千裕の手の甲を握る指先まであたたかい。

依光さんの薬指の根本に冷たくて硬いものがあって、千裕は中指と薬指の間が痛くなる。他の部分が柔らかくてあたたかいから、少しおおげさに感じすぎるのかもしれない、と千裕は思い直す。心臓にちくりと縫い針が刺さったような痛みがすることも、気づかないふりをする。

余計なことは気づかないふりをして、酔っぱらったふりをして、駅までの少しの距離をゆっくり歩くことを、千裕は毎週楽しみにしている。


千裕と依光さんの家は反対方向なので、ホームに降りる階段の前で別れる。

別れ際、依光さんは千裕を抱きしめる。若いカップルが、情熱溢れて人目を憚る余裕もないままやっているようなそれではなくて、外国人の別れの挨拶のような、軽いものである。

そのとき、依光さんは、「俺はずっとここにいるから」と、千裕の耳元で囁く。

千裕の感情は爆発する。

ずっとっていつまでなの。私が百年も千年も生きたら、その時までこうやってお酒を飲んでくれるの。ううん、ずっとここにいるのだとしたら、私の毎日にどんなことがあって、私がどんなことを思ったか、あなたが今息をしているように自然に、一日の終わりに話を聞いてくれたりするの。呼吸を合わせたりして、隣で眠りにつくことができたりするの。同じお店じゃなくて、旅をして、その土地の地酒を飲んだりすることができたりするの。


腕をほどかれた途端、千裕の爆発は急速に冷えていく。こんなに欲張りになって、依光さんと一緒に生きていきたいと願ってしまう自分が、急に怖く醜く感じる。もし、万が一、百年も千年も生きて、もっと貪欲になったら大変だから、やっぱりこうやって時々依光さんとお酒が飲めて、普通くらいの歳まで生きていきたいなと、思い直す。


電車に乗って、たくさんの酔っぱらった大人とともに揺られていると、千裕の右手はもう冷たくなってしまっていて、もう依光さんの温度が思い出せない。

大切なことほど、すぐに忘れてしまう。こうして大切なことを手に入れて手放すことを繰り返して、歳を重ねていくのだろう。それでもまた新しい大切なことに出会うために、前を向いて歩いていくのだ。ときには耐えられない痛みには蓋をしながら。忘れてしまっても、大切なものが存在したというぼんやりとした記憶が体の一部となって、歩くことにくじけそうになったときに、じんわりとあたためてくれるだろう。


そうやって言い聞かせても、千裕は依光さんと、ずっと一緒にいられることを夢想する。ずっとは、また会えることを心配せずにいられること。一緒には、今日話せなかったことを、また明日話せることを信じられること。

そんな日が来ないとは思っていても、そんな日が来ることを信じられないよりかは幸せなのではないかと、千裕は思っているのだ。

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