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私達には窮屈な布団の中で洗剤の匂いに溺れながら、窓から入る外の色々な音に耳を塞ぐように、吐息を交わした。
行為を終えるまでに掛かった時間はきっとそれなりだったろうが、私には酷く短く感じた。
ただ覚えているのは、全て終わらせ、長い息を吐いてから、キスを交わし、手を繋いだこと。
本来なら手を繋いでキスをして、それから深く付き合えばいいのだろうけど、元より好きになる前に付き合った仲だ、順序が逆でも構うことではあるまい。
何を発せばいいのか、覇気を失った大谷の片付ける様をぼっと見つめながら、布団に全てを委ねていると、ねえ、鼓膜を揺らす低い声。
「何日だっけ」
「何が、ですか」
体の水分が足りてないな、と思った。
喉がカラカラで、掠れ気味の自分の声がどうにも間抜けだ。
「俺達が付き合ってからさ」
「……七日です、丁度一週間」
「そっか」
再び、沈黙。
服を着てすっかり元通りの姿の大谷は、時計を見て溜め息を吐く。
つられて私も見てみれば、午後四時。
カーテンは橙に染まり、夕日がこの街を去って、次の街を照らそうとする時間だ。
「朝日って」
「ん」
水の入ったコップを差し出してくれて、大谷も真面目になれば気が利く奴なんだな。
体を起こして上着を羽織ってからありがたくそれを受け取る。
「夕日と同じ色なんですかね」
「じゃないかな」
汚れたシーツと汗を吸った布団をいつ洗おうか、そんなことをコップの中に考えていると、珍しく歯切れの悪い大谷が再び、ねえ、と声を掛けて来た。
「はい」
「深川さん、初めて、じゃなかったんだ」
「……ええ」
彼が言わんとすることは簡単に理解出来た。
理解出来ないはずがなかった。
こういったことをするのは、今日が、大谷敬が初めてではないと、他でもない私が知っている。
「恋愛経験はないって言った」
「ええ」
さっきから同じ返事を繰り返している自分を、まるで他人事のように感じる。
何だか、笑ってしまいそうだ。
「異性と手を繋いだことは」
「ええ」
「キスしたことは」
「いえ」
「誰かと付き合ったことは」
「ありません」
全くもって尋問の如くだ。
テンポ良く投げられる質問は、誰かが書いた脚本でも辿っているのではないかと思わされるくらいに円滑に進み、試しに相手を伺ってみると、空っぽのガラスコップを覗き込む情けない彼だった。
「恋愛経験は」
「ありません」
同じ問答をもう一度して、しかし彼の気持ちは察せるから、嫌がるでもなく淡々と答えた。
すぐさま事情を聞こうとしないところが大谷らしいな、と思うと、どうしても笑わずにはいられなかった。
口の端を歪めて、水を一口。
きっと自分は相当酷い奴だと、漠然と思う。
「付き合わない間柄で、手を繋いで、キスはしないで、それでも全てを委ねる。そういうことってあるのかな」
「貴方の世界では有り得なくて、私の世界では在った、それだけのことでしょう」
「……そっか」
納得してないだろうに、目尻を垂らす。
けど、それを言うならば、好きでもないのに付き合って、手を繋いで、キスをして、体を委ねてと、そんなこともあったものか。
そう問いただせば、君の世界になくて、俺の世界に在った、なんて返されるのだろうか。
夕方の街に、古びたスピーカーが音楽を奏でる。
遠き山に日が落ちて、と複数のスピーカーが輪唱のように歌うから、不協和音が胸を締める。
「子供の頃はあの鐘の音と一緒に家に帰ったもんだよな」
「懐かしいですね」
下半身に掛かった薄めの掛け布団はどうにも頼りないけれど、今更このタイミングで服を着ようという発想もなく、妙にしんみりとした大谷と一緒に窓の外を眺めてみる。
この時、私は、悲しいかな、大谷の次の言葉が、容易く想像出来てしまっていた。
ちょっとは楽しかったかな、なんて、考えた。
「……帰るよ」
「ええ」
そしてその言葉が意味することも簡単に理解出来てしまう私は寧ろ、彼に再会した瞬間から、全てここに帰結させるためだけに立ち回っていたのかも知れないな、自嘲気味にそう思った。
「玄関まででも送りますから、服着させてもらえますか」
「いいよ、大丈夫。もう、帰らなきゃ」
「分かりました」
一切の時間を、窓のカーテンを睨みつけることへ費やして、私達の視線は交わらない。
畳というのは衣擦れの音をよく響かせるから、彼がどう動いているかは見なくても手に取るように分かって、コップやら食べかすやらを片付けて彼は躊躇いなく帰ろうとする。
きっとここで、ごめんねの一言でも言えば、人生は小説のように鮮やかな結末を辿るのだろうけど、生憎、私は久々の感情、具体的には胸が苦しくなるほどの切なさに言葉なんて出て来なくて、ただ、親の仇でも睨むかのようにカーテンを凝視していた。
ボードゲーム類を入れて来た紙袋を持ち上げる音がして、彼がその寂しそうな吐息に込めるのは、どうせ私への好意じゃないのだろうと、卑屈な思考も馬鹿らしい。
「じゃあ、えっと。さよなら、深川さん」
「ええ、さようなら」
これで、お別れだ。
恋愛ごっこも、友達のふりも、彼との縁の全てが、ここで終わる。
扉が閉まる音がして、ただ分かるのは、毎日のように扉越しに私の名を呼ぶ誰かの声が、もう二度と聞けなくなるのだという、それだけの事実だった。