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狭っ苦しい畳の部屋。
部屋の奥に粗末な窓、安っぽいカーテン。
部屋の真ん中に机と電気スタンドがあって、部屋の手前の隅には誰かが作った原稿オブジェがそびえ立つ。
他には筆記用具と中古のラジオ、たまに聞くCDが散乱してたり。
そして、扇風機と布団一式しか入れるものがない、小さな押入れ。これでは、猫型ロボットはここでは暮らせないだろう。
きっとこれが都会ならシャワーは共有だ。都会じゃなくて良かった。
そんな、月額五万に満たない、ボロいアパート。
壮大な夢物語を語るには、なかなか希望に満ちた場所じゃないか。
いつも彼が浮かべる笑顔を真似て、何が楽しいんだと突っかかりたくなるような表情をたたえてやれば、悔しそうに唇を噛んで、耳が赤いなんて可愛いところもあるじゃない。
「本当に話すの」
「今日という日をアパートで過ごすことになったのは何ででしたっけ。パスポートをなくした埋め合わせみたいなものですよ」
「……じゃあ一つだけいい?」
「はい」
窓からは穏やかな風が入って来る。
今日みたいな日和は、電車の音だって随分と呑気なそれにに聞こえるから不思議なものだ。
じっと彼の目を見つめてやれば、目を伏せて私から逃げようとして、大谷も何だかんだ人間なんだと思わされる。
そっぽを向いたまま壁に背中を預け、大谷は一つだけの要求とやらを口にした。
「赤裸々に将来の夢を語るのはいくら何でも恥ずかしいから、一つだけ嘘を吐いてもいいことにしてくれないか」
「話の中で一つだけ嘘を混ぜるってことですか」
「うん」
大層変な話だ。
嘘を吐くことが十八番な彼が、一体どうして、わざわざ断るのか。
そんなの、大谷なら大谷らしく、一つと言わず十個でも吐けばいい。
寧ろでっち上げられた与太話を聞くつもりでいた私は拍子抜けして、構いませんよと頷く。
「ありがとう」
微笑んで、大谷は口を開く。
のどやかな日曜日の午前中、手慰みならぬ耳慰み、彼の短い昔話が始まった。
君と初めて知り合ったのはいつだったか。
君はきっと中三の春、同じクラスになってからだと言うかも知れないけど、俺は覚えている。
中学一年生の、まさに入学式の朝。
かっちかちに真新しい制服の中で居心地悪く体を動かしながら登校した坂道の三歩先を、君が歩いていたんだ。
「ちょっと待って下さい。これ、将来の夢の話ですか。恋愛小説みたいになってますけど。というか、君とか語りかけないで」
「まあ、いいから聞けって。ちゃんと夢の話になるからさ」
小さな背中に、何だか希望を背負ってて、俺は背筋が伸びた気がした。
実は当時、小学校を卒業したばかりだった幼い俺だけど、医学部に行くってのは暗黙の了解っていうか、親が医者だから跡を継げみたいな空気だったんだよな。
だから当然将来の夢は医者で、それも内科医になるんだって決めてた。
それに抗う気持ちなんて微塵もなかった、というか俺自身もそれを望んでいたはずなのに、何でかな、ちょっと先を行く君の背中に憧れて、気付いたら医者になる夢なんてどこかに行ってたんだ。
「……何だかすごく恥ずかしいんですけど、何ででしょう」
「敢えて君も恥ずかしくなるように話してるもん」
本が好きだった。
文章が人を温かくするってすごいって、そういう思いが、君の背中への羨望に重なった。
その感情はいともたやすく医者への義務を追い抜いた。
そして、それから数日もしない内に。
「俺の将来の夢はシフトチェンジ。医者から小説家、コペルニクスだって真っ青な転回だろ」
「親御さんと衝突しませんでした?」
「当然したさ。何度喧嘩したことか」
手に職つけないと生きていけないぞ。
医者になれと強要されていたことが苦痛なら、弁護士だっていい。国家試験を受けて、しっかりとした資格ってものを身に付けろ。
馬鹿みたいだったよ。
俺が欲しいのは年収五千万の日常や年齢無制限で働ける免許なんかじゃなく、俺の左胸をちょっとだけ熱くさせてくれる、ちっぽけなものだってのに。
中二、三と上がってくにつれ親子喧嘩は激化の一途を辿って、それでも何度だって親戚中の皆相手に立っていられたのは、同じクラスにいた深川優香って女の子のお陰さ。
「……水飲んでもいいですか」
「恥ずかしくて喉でも乾いたのかな?」
「貴方の語り口調が恥ずかしくて喉が乾きました。まるで素人が書いた私小説が如くです」
「つれないなあ」
気付けば時が流れて高校に上がっていた。
親はしばらくしたら現実を思い知るだろうと俺の説得を諦めて、その代わり高校は偏差値の高いところへ行け、そうしたら小説家でも漫画家でもなるがいいって言われた。
俺は嬉々としてそれに従った。
現実なんて思い知る気はさらさらなかったけど。
それでも。
「あ、俺にも水ちょうだい」
「流石の貴方も羞恥心が芽生えましたか」
「うーん、やっぱり夢を語るのは恥ずかしいね」
びっくりしたよ。
高校に入って、君がいなくて、俺は君の背中を見られなくなってた。
それから君への想いにやっと気付いてももう手遅れだ、俺は無力だった。
今のご時世、学歴があれば生きていける時代じゃないけど、だからって小説家になりたいだなんて夢物語、小説に何の力があるんだろうって、思った。
あ、深川さんを貶したいわけじゃないんだ。
でも分かるだろ。
例えば今戦争が起きたとして、真っ先に狩られるのはサブカルチャーだ。
テレビ、ゲーム、漫画、小説、どれもこれも愛国心を駆り立てるための道具に成り下がる。
医学と科学、軍事が重視されて、心を豊かにする云々、そんなお遊びは不要にされちまうんだ。
「五体満足の人間の生活を豊かにするより、五体不満足の人の人生を明るくしたい。それは小説でなく、医学のすることじゃあないか。そう思ったら、医者になりたいって、強く願うようになったんだよな」
それからの日々は単純だった。
勉強、自分の意志での、勉強。
進学して医者になって、世の中の人を一人でも笑顔にしようって、思った。
そして、大学一年生の秋。
俺は再び、彼女に出会―――
「何だか耳が痛い話ですね」
「話の途中だったんだけど」
「何だか大谷君のくせに立派な精神過ぎてびっくりしました」
「おーい」
大谷の話は、同じ年とは思えないほど、酷く大人びたものだった。
彼は昔から笑顔で皆を幸せにしてきた人間だが、なるほど、こういう内面だったのなら、そういうことも出来るのかも知れない。
私を辱めるために、私への片思いを捏造したのは、相変わらず腹立たしい策ではあるけど。
「それで、えっと、暇つぶしにはなったかな」
「ええ。とても楽しめました」
「怒ってないの」
「何で怒るんですか」
「だって、小説家志望の君には失礼な話だったろうから」
変に律儀な人だと、私は初めて大谷に好意的な印象を抱いた。
だって、人の目指すところは好き好きだろう。
彼には小説よりやりたいことがあった。ただそれだけの話だ。
「……深川さんは、いつから小説家を?」
「私の話はしませんよ」
「え、狡いなあ」
「だって、パスポートをなくした貴方が悪いんです。私に落ち度はありませんから、私が貴方に何かを話す義理はないですよ」
「……それもそうか」
ガタゴトと電車が走る。
時計に目をやれば、すっかり午後と呼べる時間を指していた。
ああ、もうそんな時間か。
「お腹空きましたね。お昼ご飯にしましょうか」
「お、いいね」
即座に立ち上がった大谷は、深川さんの手作りが食べられるのかあ、と目尻を垂らしている。
それにしても、だ。
私への想いを彼は平気で語るけれど、何だか、そんな軽いところがどうにも誰かにそっくりで、私は胸が鳴るような、それでいて足が竦むような、複雑な気持ちに陥りそうだった。