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じゃあ、今度の日曜の朝十時、このアパートまで迎えに来るから。
私の仮の彼氏、大谷敬はそう言った。
世界で最も稼いでいるであろう遊園地へ向かうとなれば、県を越えなければならない。少々遠出だ。
折角の初、遊園地体験、少しはおめかしして行こうと、いつもズボンな私も苦手ながらにスカートをはいて、髪も結って、踵の高い靴も準備して、なのに、何で。
「貴方は自身の言動全てにオチをつけないと気が済まないのですか」
「いや、色々あったんだよ、ホントに」
いつも通りの服装で、いつも以上の笑顔を貼り付け、困ったように頭を掻く大谷の持ち物に、ワンデイパスポートはない。
扉を開けて、アパートの廊下から見える景色を背景に、そう、何と、この男。
「今日の遊園地行きはなし。理由はパスポートをなくしたから」
「はあ……」
呆れて物が言えないというのはこのことだ。
悪びれもせず、ごめんねと謝って、一体何がしたいんだろう。
近所の電線に止まったカラスも、かあかあと馬鹿にしているじゃないか。
「折角朝から待機してもらって本当に申し訳ないんだけど、今日もまたお家デートでいいかな」
「ここで断っても私の家に居座る気でしょうに」
「バレた?」
舌をぺろっと覗かせて、おどけた素振りは見慣れたもの。
どうもここ最近、私は彼のペースに乗せられっぱなしな気がしてならない。
「まあ、今日は快晴ですし、早起きしたのに何も予定がないだなんて悲しいですからね。貴方の話し相手くらいなら務めますよ」
「ありがと、優香ちゃん」
「馴れ馴れしく呼ばないで下さい」
「じゃあ、ゆーちゃんとか?」
「……申し訳ないけれど、帰って頂けますか」
「分かった、分かったよ、深川さん」
靴を脱いで、いそいそと家へ入って来る大谷は楽しそうに声を弾ませている。
一体、何が楽しいのだろう。
私は不快そのものなんだが。
大体、下の名前を大谷に呼ばれる筋合いはない。
優香と言う、ゆーちゃんなどと言う呼称は、あの人の、あの人だけの。
「えっと、大丈夫?」
「え、あ、はい、大丈夫ですよ。何もないところですが、どうぞお上がり下さい」
しまったな、と思った。
らしくないじゃないか。
やっと忘れた記憶を、どうして今になって思い出すのだ。
あんな、馬鹿馬鹿しい過去を、もう、私は。
「深川さん、遊び道具持って来たんだ。遊ぼう」
「……オセロ、ですか」
「うん。白黒付けたがる深川さんには持って来いのボードゲームだよ」
「まあ、好きですけどね、オセロ。何だか腹が立ちますね」
ジェットコースターの代わりがオセロなら、お化け屋敷の代わりは野球盤だな。野球盤なんて見たこともないけれど。
そして冗談でなく本当にオセロを持って来ていた大谷は机を部屋の真ん中へ移動して、入って右側へ座り込む。
「じゃあ俺は黒ね」
「腹黒い貴方にはお似合いって言いたいですけど、黒って不利ですよ、いいんですか」
「いいのいいの。俺、オセロ、得意だから」
何が楽しいのか分からないけど、随分と楽しそうに笑う大谷を見て、無理矢理思考を過去から現実へ引き戻す。
自分の部屋を見渡すと、何だか前より世界が淀んでいるような気がして、溜め息を吐きながら大谷の向かいに座る。
作業机が、派手な緑の板に占領されて、正座で向かい合う私達の間にはパチリパチリと安っぽい駒を置く音だけが響き渡った。
「白いね」
「まだ板は半分しか埋まってませんが、全部白くなりましたね」
「強いね」
「貴方、実はオセロ初心者でしょう」
あっという間に勝敗がついて、結果は私の勝ちに終わった。
大体、相手が初心者なのはゲームの序盤から明らかで、あっという間に白を囲んだ黒、オセロでは相手を取り囲んでしまった方が負けだと知らないんだろうな。
「残念、俺が勝ったらファーストキス奪おうと思ったのに」
「最低ですね」
「男なんて、一皮剥けばこんなもんでしょ」
「そういうものですか」
オセロ盤を片付けて、さてと、次は何をしようと、大谷は正座を崩して寛ぐ。
私も何をするでもなく時計に目をやると、時刻はまだ十時半。どうにも持て余し気味である。
秋は涼しく、部屋の最も奥に位置する窓は相変わらず開けてある。
ボールがはねる音、子供の歓喜の声が聞こえて、日曜日は何だかのんびりとした雰囲気を纏っていた。
「よし、次は野球盤で勝負しよう。お互いのキスを賭けて」
「それ、どっちが勝っても同じ結果じゃないですか」
というかあったのか、野球盤。
「まあ、野球盤なんてないし。うーん、どうしようかね」
何だ、嘘か。
野球盤、見てみたかったな。
嘘吐き少年はオセロを入れて来た袋を漁っているけど、どうやら将棋だのチェスだのを、わざわざ持って来たようだ。
まあ、ボードゲームでは大概私が勝つと察したのだろう。全く持ち出す素振りを見せず、何をしようか必死に悩んでいる。
しかし、私からしても、遊園地に行くはずだった日曜日、何をやるか悩み続けて解散、なんて悲しいものだ。
どうにか思考を巡らせて、ああ、一つあったじゃないか。
線路を貨物電車が走っていく。
「大谷君、小説、書いて下さいよ」
「……は?」
「何で小説書いてたことあるってバレたんだろう」
「貴方って案外分かりやすい人ですよ」
頬杖をついた彼にそう言い放ってやると、恨みがましい目線を寄越された。悔しいか。ざまあ見ろ。
しかし、大谷が分かりやすいというのは私の率直な感想だ。
彼の嘘を全て見抜ける気はしないけれど、時たま、嘘のように本音を言うらしいことはそれなりに気付いていた。
例えば再会したあの日。
遠い目をして自分も小説家を目指していたと語ったあれとか。
「で、いつまでに書けばいい?」
「今です」
「冗談だろ」
「本気です」
別に、いつぞやの仕返しというわけでは、ない。
なんて、にやけた頬をそのままに、ほらほらと机に向かわせてペンを持たせてやると、酷いジト目で睨まれた。おお、怖い。
「俺、パソコンで書く派なんだけど」
「我が儘は言わないで下さい」
外は明るいが、案外物を書くのに太陽光だけでは暗いものだ。
部屋の隅に追いやられていた電気スタンドを用意して、準備は万端。
さあ、書くがいい。
「……あ、深川さん」
「何ですか」
観念したように原稿を前にペンを回していた大谷だったが、思案すること数秒、唐突ににやりと笑って顔を上げた。
これは嫌な予感だな、と思った。スタンドに照らされた大谷の顔は陰影がくっきりしており、それはどこかの時代劇に出てくる代官顔負けの悪人面だ。
「本当に俺が書いていいの」
「当たり前……あ」
「んー?」
笑顔で問い掛けて来る大谷に、私はつい歯ぎしりした。
また、私の負けだ。
「例えば、もうここ二年小説なんて書いてない俺が、深川さんより上手い文章を書いたらさ、深川さん、今晩悔しくて寝れないんじゃないかな」
「……ご冗談を」
「ま、俺はいいけどね」
鼻歌を歌いながら、ついに最初の文字を刻む大谷。
ボールペンでリズム良く書かれる文字は、覗き込んだ体勢からだって美しい字体というのが明らかで、綺麗な字を書かれたというだけで敗北感を感じる私は最早精神的に彼に負けている。
「分かりました、書かなくていいです、はい」
「そっか。残念だな、俺の才能を見せつけてやろうと思ったのに」
「その代わり」
余裕ぶってペンを親指と人差し指でくるり。
その笑顔、いつまでも浮かべていられると思うなよ。
「将来の夢のお話でも聞かせてもらいますよ」
「げ」
眉間に皺、左右非対称に歪んだ眉。
口元に間抜けな笑みを残した、不細工なそれに、やっと私は勝てたと確信した。