5
「……ということがあったのが今から約二十四時間前です」
「そうだね」
「なら何で、今、貴方はここにいるんですか」
「恋人だから」
「何歩譲ったって恋人にはなりませんが、まあ一般論として、普通は恋人と喧嘩したのに何食わぬ顔で訪問しますか?」
「んー、俺らは小説における価値観の違いを見出しただけで、あれを喧嘩とは言わないよ」
「多分、私と貴方は今日、喧嘩の意味について価値観の違いを見出すことになると思うのですが」
「それは怒ってるって言いたいの?」
「決まってるじゃないですか」
私が怒って、彼が落ち込んで、それからさよならを交わした。
これはどう考えても喧嘩とか離別とかそう言った類のものだと私は思うわけだが、もしかして世の中では、あれすらもただの会話として扱うのだろうか。
もしそんな世界があるのなら、そこでは嘲笑のことを談笑と呼ぶんだろうな。
「君は怒ってる。でも俺を家に上げてくれた。つまり、喧嘩だとしても俺らの仲を深めるイベントだったわけだ。もう仲直り、だろ?」
「人の家の前で座り込みを決行したのはどこの誰ですか。貴方、家に上げでもしないと扉の前から動きそうもなかったですし、それじゃ私が家に出入り出来なくなっちゃいますから」
「深川さんってさ」
「はい」
「ツンデレだよね」
「よく言われますけど、ツンデレではありませんよ」
それでもこうまでも昨日までの態度を一貫されると、何だか、喧嘩したのが嘘みたいだった。
それが大谷の作戦なんだろうと警戒しても、どうにも、へらへらとした笑顔に何かが緩んで行く。
もしかして私の頭のネジって奴だろうか。
「それにしても恋人の会話ってこんな殺伐としたものでしょうか。大谷君の彼氏としての言動って、普段と変わらない気がします」
「俺も大概ツンデレだからさ」
「いくら何でもそれは嘘でしょう」
「まあ、ツンデレよりはクーデレだな、俺は」
今更思い出したけれど、大谷と私の交際とやらは、私に恋愛経験を積ませるためであり、そして恋愛小説をまともに書けるようにするためだったはず。
ということは、私達が恋人らしいことをし尽くしてしまえば、この男との縁も切れるのだろう。
恋人だなんて認めたくないけれど、しかし、ここまで一筋縄では行かない男だ。
日を重ねる毎にこの方法が一番の近道な気がしてきた。
そうだ。喧嘩のことを価値観の違いなどと言うような屁理屈野郎に、私は一体いつまでかまけている気だ。
早くこの男を満足させて、別れてしまおうじゃないか。
よし。
「大谷君」
「うん」
「遊園地です」
「うん?」
「遊園地行きましょう。ほら、ワンデイパスポートあったじゃないですか。デートですよ、デート。あれ、高いんでしょう? 勿体無いですから行きましょうよ」
「まあ五千円くらいだったな。二枚で一万。てか、チケット、この部屋に置いてったじゃん。どこにやったの」
「はい?」
そう言われてみれば、彼は二日前、パスポートを机の上に置いて、それから私はその机で小説を書いて、あれ、なら、チケットはいづこへ。
「……今から、部屋、掃除しよっか」
「……そ、掃除って何だかお家デートっぽくていいですよね、はーと」
「深川さん、流石にそれは無理がある」
「すみません」
「これ一枚が新渡戸稲造さんだなんて、何だか不思議な気持ちです」
「今は樋口一葉だけどね、五千円札」
「二枚で夏目漱石」
「野口……じゃない、福沢諭吉でしょ。さりげなく引っ掛け問題出さないでよ」
彼曰くバイトで稼いだ金を大幅に削ったらしい紙二枚は、無事私の原稿の中から見つかった。
元より家具のない部屋だ。
原稿の中に埋もれている以外の可能性は有り得なかったから、探すのはあっという間だった。
なので、もうこの原稿を散らかしては整えて、なんて作業、無意味なはずなのに、大谷は未だに三つの山を整頓している。
「大谷君って掃除好きですよね。男性の割にマメなんですね」
「深川さんは女性の割に……」
「……何ですか」
「何でもないよ」
今まで彼に片付けを全て任せていたから気付かなかったが、どうやら彼は一番左の山から原稿を取っては、右、ないし真ん中の山へ移すという工程を繰り返しているらしい。
右へ行くのか真ん中へ行くのかは彼のみぞ知るところではあるが。
それともう一つ、気になるのは、左の山と真ん中の山の間に開けられた間隔。
丁度一枚分の原稿が入ってしまいそうなその空間は何があるでもなく、ただぽっかりと畳を覗かせている。
まあ、仕分け前と後の山を区別しやすいように間を空けただけだろうな。
そうやって思案を巡らせている間にも、また二枚程、左の山から右の山へと引越しを強要されていた。
「右の山の高さ、真ん中より低いですね」
「ああ、うん、まあそうだろうな」
「どんな分類で掃除して下さってるんですか」
「もしかしていじらない方がいい?」
「いえ、私は原稿がどう並んでいても構いませんから」
「そっか」
誤魔化された。そう、感じた。
「敢えて教えてくれないんですか」
「そゆこと」
しかも、誤魔化したことを隠す気はないようで、一体彼は何を考えているのだろう。
人の小説を訳の分からぬ基準で分類して、何となく居心地が悪いではないか。
右の山がまだ読める作品で、真ん中がボツ作品とか言われたら、私は発狂してしまうぞ。
また昨日のように、彼の言葉を借りるなら、小説に関して価値観の違いを見出だすような事態にならないといいのだが。
そんな風に心配していると「大丈夫、もう口出ししないから」と、大谷は何となく笑いを含んだような声で言った。
それから作業の手を止めて、こちらを振り向き目を細める。
「昨日は俺が悪かった。ファン心理って奴で」
「……人を小馬鹿にするのが、ファン心理なんですか」
「思わず高いハードルを期待するのがファン心理さ」
「……ひねくれたファンなんですね」
相変わらず笑顔で調子のいいことを言って、彼は本当に狡猾だ。
そんな風に褒められたら怒るものも怒れないじゃないか。
しかし彼がこうやって謝ってくれなかったら、昨日のことをいつまでも引きずってしまっただろうし、ここは彼の鋭さに感謝しておこう。
「深川さんは深川さんの好きに書いてくれればいい。俺はそれを読めれば十分だ。それとも、ひねくれ野郎は読むこと自体が禁止かな」
小首を傾げて問うて来る大谷。
ああ、やっぱり感謝は取り消しだ。
だって、どうにもこうにも卑怯じゃないか。
ここでダメだと言えるわけがない。
音楽家だって小説家だって、皆、誰かの耳や目に触れて、嬉しいのだ。
伝えたいことは誰かに受け取ってもらえないと意味がないのだから。
「プロの作家は読者を選べません。誰が本を手に取ろうと文句は言えません。だからプロを目指す私に、読んじゃダメと言う権利はありませんよ」
「その通りだな、アマ作家さん」
微笑みながら言われ、強がったのがバレたんじゃないかって耳が熱くなる。
しかし当の大谷は鼻歌を歌いながら原稿の仕分けの続きを始めて、どうにもこちらの様子など歯牙にもかけない様子じゃないか。
別にからかわれたかったわけでもないのだが、何だか腹が立ったから、げしりと足蹴にしてやると、押された大谷の体によって、原稿の山が見事崩れた。
あっという間に畳一枚分の場所を原稿が白く染める。
「ああ! 俺の力作が! 深川さん、暴力反対、DV良くない!」
「……そんなことより遊園地、いつ行くんですか」
「え、ああ、そっか、そうだなあ」