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「深川さーん、こんばんはー」
「留守です、お引き取り下さい」
「いや、めっちゃいるじゃん」
安っぽい金属製の扉。鍵は針金一本で開きそうな古い型。
扉から部屋の奥まで数メートル足らずのこの家において、インターホンや呼び鈴などと言うものは必要ない。
「恋人を家に上げないだなんて、俺達、いつの間に喧嘩したっけ」
「それより、いつの間に恋人になったのか正座で小一時間、問い詰めたいところなんですが」
「よし、正座になろう。だからここ開けてよ」
「そこで正座をすれば宜しいかと」
夜八時になると、彼は決まって私の家の扉を叩いた。
もうこれで三日目だ。
「今日の天気は如何ですか」
「えっと、雲一つない快晴だけど」
「分かりました。では星が幾つあるか教えて下さい。正しく数えられたなら家に上げましょう」
「そりゃ星の数程、て、何を言わせるんだ」
彼のマシなところは良識があるところと言うか。
勿論、彼のストーカーの如き言動は犯罪に近いものを感じるけれど、私が怒らない程度を弁えているところが、逆に腹立たしい。
例えば、近所に迷惑が掛からないよう、ボリュームを抑えた声で話すところとか。
「星は東から西に流れてくわけだけど、どう数えたらいいかな」
「貴方の今いるところから見えるだけの星を数えればいいですよ」
「了解」
いーち、にー、さーん。
間延びたカウントが聞こえて来て、これだから大谷という男、侮れないのだ。
「ああ、もう、分かりました、どうぞ、お上がり下さい」
「優しいなあ、深川さんは」
「貴方はふてぶてしいですね。空、曇ってて星なんて見えないじゃないですか」
溜め息を吐いて扉を開けてやると、やはり猫のようにするりと入って来る大谷。
全くもって、野良猫に母家を取られるような気分である。
それにしても、今日は昨日より上機嫌なのか、いつにも増してにこにこと笑顔が輝いている。
いや、この男の場合、いつもより不機嫌な時にこそ笑いそうだ。
「今日は何と! デートのお誘いに来ました!」
「そうですか、それはご足労様ですね」
昨日一昨日、ある男の訪問によって綺麗に整頓されたこの部屋は畳が原稿に埋もれることもなく、非常に座りやすくなってしまった。
そしてそのある男、即ち大谷敬は当たり前のように部屋の真ん中に座り込み、何やら変な紙を得意げに振りかざしている。
「でも、我が家、セールスはお断りってポストのところにも書いてあるんですよ」
「いや、何で俺、押し売りに来たセールスマン扱いされてんだよ」
「あ、保険屋さんもお断りしてます」
「違うでしょ、どう見ても。こんなピチピチな営業マン、いますか。未成年ですよ。はい、それより、このチケット、何だと思う?」
「さては、株の押し売りですね。株券は直で売るんですか、知らなかったです」
「俺も初耳だわ。というか株ってどう買うんだろうな」
「まあ、それはさておき。鼠が夢を語る国で一日中大手を振って歩ける魔法の紙切れですね」
「そう、その通り」
少々認めたくない点ではあるが、大谷と私にはただ一つ、どうしようもない共通点がある。
それは、二人共遠回しな物言いを好むということ。
そのせいか私達のやり取りは本題に行き着くまで随分な時間を要することが多々あったが、似た相手とのやり取りは、決して退屈ではなかった。
楽しいわけではないけれど。
「やっぱり株って取引所に行かないと買えないんですかね」
「株の話を蒸し返してどうする。ワンデイパスポートだよ。喜ぶだろうと思ったんだけど、遊園地、もしかして嫌い?」
眉をハの字にして、唇を尖らせる。
ついでに首を傾げたら、ぶりっ子女子の出来上がりだ。
男性がそう言った所作をすると気持ち悪くなるわけなのだが、少し様になってしまうところがこの大谷の腹立たしいところだ。
やはり愛嬌と言うのは処世の武器なのだろうか。
「残念ながら行ったことがありません」
「え、遊園地、行ったことないの?」
「ええ」
一重の人がそんなに目を剥いたら目尻が裂けてしまいそうだ、と目尻に心配の眼差しを向けてやると大谷もやり過ぎと感じたのか、こほん、と咳払いをした。
「丁度いいか。初体験、頂きだね」
「申し訳ないけれど、私、行く気ありませんよ」
「何で!?」
先程よりは控え目ながらも再び目を見開いて、もし彼が絡んでいる相手が私でなければ、この百面相は楽しいものだったに違いない。
傍観者でありたかったな、と溜め息を吐く。
「大体、何度も言いましたが、私は貴方との交際を了承したわけではありません。寧ろお断りしました。友達になるつもりもないし、つまり貴方はここに来る権利を有さないんです。分かります?」
昨日と一昨日の二度の訪問で、私はこの言葉を何度も口にした。
というのに、うん、分かってるよ、と嬉しそうに笑う大谷は、もうどう対処したらいいのか。
確か一昨日は近所の公園へデートしようと言い、昨日は隣県の海まで行こうと言った。
デートの質を上げれば私が頷くとでも思っているのか、なんて怒れたら楽だったろうに、この男はそれぐらい絶対理解しているのだ、デートに誘っても了承されないということを。
なら何が狙いなんだろうと考えを巡らせてみても、相手が私に何を求めているのか分からないので、どうしようもない。
「もしかして貴方、私を馬鹿にしてます?」
「全然」
「じゃあ嫌がらせですか」
「まさか。それぐらい深川さんなら分かるでしょ」
「まあ……」
そもそも自分がこんなに手の込んだ悪戯をされるまでに嫌われてると思う程、自意識過剰ではない。
好きも嫌いも気にされているという点ではまだマシなことなのだから。
「いやね、俺は、強引にしないと開かない扉もあるんじゃないかなって思ってるんだ」
チケットを私の机の上に置いて、それから真剣な眼差し。
口元が笑っているのが、彼らしさか。
じっと瞳を覗き込んで来て、ああ、人の目って茶色なんだなって思わされる。
「よく、ずかずかと人の心に入り込んで、なんて言うけど。でも、相手が泣き出すくらいに本音をぶつけ合うことも時には必要だろ。それと同じで、君が怒るくらいに君の本音を探ろうとすることも何かに繋がるのかなって」
「……それが貴方の外交術ですか?」
「まあね」
「最低ですね」
「良く言われる。けど」
口を噤んで、五秒くらい。
沈黙で、私の興味を引くだけ引いて、そっと口にする言葉は、本当に傲慢で。
「不思議なことに、嫌われた試しがないんだ」
何を、そう言おうとした。
どれ程に驕っているのだ、と。
それでもそう言えなかったのは、この大谷敬なら、そんな離れ業を、相手のプライバシーを侵害すると言う大胆かつ失礼な手段で人を魅了するという離れ業を、成し遂げてしまうのではないかと。
彼の話術にはそんな力があるとこの三日間で思わされてしまったのだ。
ごくりと唾を飲み込み、何とか言葉を吐き出そうとして、出たのは強がった情けない声であった。
「あ、貴方のことですから、嫌われたことに気付いてないだけではないんですか」
「そうかもね」
あっさりと引き下がって、ああ、こいつがそんなに鈍感なわけないと、私は十分知っているじゃないか、自身の情けなさにぐうの音も出やしない。
「んー、今日も失敗かあ。デートはまた今度にするか。じゃあ次は小説の話をしよう。俺さ、昨日持ち帰らせてもらった原稿で、すごく気に入ったのがあって」
ほっと一息吐いて、そういえば、大谷って、小説の話をする時だけ例外なく真顔になるなあ、と思った。
もしかして小説家志望だったと言う話はあながち嘘でもなかったのかも知れない。
けれどそう聞いてみれば笑顔でひらりと躱されるに違いないから、何でしょうか、と話題に乗った。
「この話、ボツだなんて言ってたけど、続き、読んでみたいんだ。書いてくれないかな」
「……いいですよ。その代わり時間が要りますからデートはなしで」
「あちゃ、そう来たか。分かった。もうデートには誘わない」
そこまで読みたいと言われては胸もくすぐったくなるもので、悔しいけど、私は明日もこの男を家に上げる羽目になりそうだった。