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2/13


云畳間の安アパートなんて、恐らく私達の親の世代では、苦学生の典型だったのではないか。

誰かの歌もそう歌っていた気がする。


数人に一人は学歴のためにこの壁を乗り越えただろうし、そんな時代からはニートだなんて、想像出来ない人種に違いない。



けれど今時、苦学生という言葉自体、耳にしない。


某大学の男子学生だって下駄を履かないし、某講堂での学生運動なんて流行らない。


最低限のお勉強と必死の就活。たまに恋やら遊びやらバイトやら。


平成というのはそういう時代である。



昭和生まれからすれば平成生まれというだけで何だか時代を感じるはずで、時間というのは世界を変化させていくのだから当然だ。


それでも、お金に困った十代の一人暮らしが、三畳間とは言わなくても、少々手狭なワンルームに散らかった床というのは昭和でも平成でも共通の決まりらしい。



窓を開ければ私鉄の足音、否、窓を開けなくたって電車の騒音が入り込んでくるし、掃除をせねば埃がたまり、料理しなければ飯は出て来ず、働かなくては金も入らない。



それが一人暮らしというものなのだ。



「……床、散らかってるね」


「男性に言われるとは心外ですね」


苦笑いで部屋を不躾に見渡すのは、さっき出くわした大谷敬。



「散らかってるのは原稿? もしかして手書きなのか。古風だなあ」


「生憎パソコンを買うお金は貯めている最中でして」


「それにしても家具は少ないね。親父の時代はみかん箱とか言ったらしいけど、深川さんの場合はダンボール?」


「残念ながらこの机は紙製でなく、木製ですが。まあ安いですし、作業場と食卓を兼ねてますから、貧相具合ではダンボールに負けず劣らずでしょうか」


「大変なんだな、一人暮らしって」


「別に、これくらいは」



他人の家へ上がったのなら、文句は言わないで欲しいのだが、しかし、ここで綺麗なお家ですねと言われても最大級の嫌味にしかなるまい。


素直にけなしてしまう方が、ある種正しい選択なのかも知れない。


その気遣いが計算だとすれば、この大谷敬、ただの狼少年ではなさそうだ。



「で、散乱した原稿の中に、読んでいい原稿はあるのかな」



床に所狭しと散らばっている薄い紙達は、読み返してアイデアを踏襲したり今後の参考にするために、丸めず置いてある。


丸めて捨てるだなんて映画の中じゃあるまいし。



部屋の半分を雪原に染める原稿の一枚をひょいと広い上げる大谷は、ふむ、と言いながら私の返事も待たずに文字を追い始める。



彼の手元を覗き込むと、彼が読んでいるのは、どうやら短編の一頁目らしい。


出だしが上手く行かなくて続きを書くのは止めにしたものだが、まあ、そこまで出来が悪い代物ではないので、それで良いだろう。




さて、先程、夜道で私を呼び止めた大谷は、悠に十秒は私の目を見つめてから、とんでもないお願いをしてきた。



『深川さんの書く小説、読ませてくれないかな』



誰が読ませるか、即答しようと思った。


しかし、大谷は緩んだ顔をそのままに発言しており、それがもし真顔だったならば、私は彼の演技ではないかと疑ったところなのだが、普通、こんなお願いをするのにへらへらと笑うなんて、おかしな話だ。



つまりひねくれた大谷のこと。


この締まりのない顔こそが、彼が本気であることを語っているんじゃないか。



そう、思ってしまったのだ。



『……まあ、誰かに読まれるのも、たまにはありかも知れません』



応募も今は予定していない。


書いた小説はネット層に受ける類のものではないし、今、自分の小説を読む者は自分以外にいない。


それなら、例え考えの読めない苦手な元同級生でもいいから、読んでもらって損はないんじゃないか。



そんな考えから家に招き入れたのだが。




「どう?」


上に下に、動く瞳が、彼の読書経験の豊富さを物語る。


一瞬で集中して、短時間で読み終えた彼は、原稿を手に取った時と同じように、ふむ、と唸った。



「一行目、会話文で始めるのは小学生が作文で習う技法だよね。勿論、馬鹿にしてるんじゃなくて、王道だし技法としても十二分に機能してる。けど、さっきの深川さんの発言とは矛盾する気がするんだ」


「私の発言って、何ですか」


「ほら、道端でさ、王道少女漫画と王道ファンタジーと王道スポ根をこき下ろしてたろ。深川さんは王道が嫌いなタイプなのかなって」


「ああ、私は王道が嫌いなわけでも、だからってアンチ王道なわけでもないですよ」


足元の紙を適当に纏めて隅に追いやる。


空いた二人分の畳を指差して、座るよう促すと、彼は座りながら再び原稿に目を遣った。


彼に向かい合う形で私も腰を下ろすが、いつも一人でいる部屋に誰かがいるというのは随分と違和感だった。



「じゃあ、どんな思想なの」


「思想だなんて大それた言い方ですね。強いて言うなら、私が好きなのは私の好きなテンプレであって、私が嫌いなのは私が嫌いな典型です」


「分かりやすいなあ。自分が正しいと思うものが正しいと?」


「正しいとか正しくないとか、人のものを肯定否定する気はありませんよ。ただ、私は私の選んだものを使う。それだけです」


カーテンを開け放した目の前の窓から外を見遣れば電車が轟音を立てながら右から左へ走り抜けて行く。


部屋の蛍光灯が漏れ出して、夜道に四角い白を描いていた。



「一行目はさておいて、本文について言及してくれないんですか」


「ああ、うん、勿論」



頷いて再び読み耽る大谷。

どうやら彼は文章を熟読する類の人間らしかった。


机の上の筆記用具を整頓して、電車が二回通過してからだろうか。



おもむろに大谷は口を開いた。



「深川さん、これは恋愛短編の出だし、だよね」


「ええ」


「一人暮らしを始めた女子大生が、昔の幼馴染みの男子に再会する。そういう場面だ」


「はい」


「俺達に、似てるな」


「全然」


「まあ、それはさておき」


「……そこはこだわらないんですね」


「恋愛、したことない?」


「ええ」



真剣な表情をしてるということはからかっているのだろうか。


だとしたら彼に原稿を読ませたのは痛恨のミスだ。



しかし、当の大谷は私の寂しい恋愛歴を聞き出して、にへらと目尻を垂らしてみせた。



「じゃあ、深川さん」



ああ、まただ。


この男は間違いなく、また、変なことを言い出す。



さっきの言葉を繰り返すとしたら、恋愛小説の筋書きのような、そんな戯言をこいつは抜かすのだ。



「ごめんなさい」


「俺と付き合おう……ってダメじゃん、同時に言わなくちゃ。先に言ってどうするの」


「すみません、大谷君と違って演技力はないので」


「まあ、それはいいよ」


「否定はしないんですね」


「俺、演技力には自信あるから。ていうか、断る理由なくね?」



パアンと、電車がクラクションを鳴らす。



「いやいや、了承する理由、寧ろありますか」


「ん、俺はフリー、君もフリー。結婚じゃないんだから、名目上付き合うってことでさ。どうよ」


「遠慮します」



大体、恋愛未経験だから私の書く恋愛小説にリアリティがないとか言うつもりなら余計なお世話だ。


それに大谷と言えば、天使のような男。


即ちモテる。


とすれば彼に片思いな子が地球上に何人か、いや、何人もいるのだ。



「恋愛って、おふざけで始めるものじゃないでしょう。私も好きで、貴方も好きで、初めて成立するものです。真剣に好きの感情を抱えている人達に失礼ですよ」


「あら、意外にロマンチスト?」



不敵に笑う大谷君は天使というより悪魔に近い。



「ねえ、深川さん」


「……はい」


「君は、世界中の誰もを傷付けない作品が書ける?」


「え……?」



突然の質問に私は動揺した。


というのに大谷という男、全てを理解したかのような笑顔で私を見つめている。



優しい笑顔で人に近付いて、隙を見てあっという間に魂を抜き取る。



その姿はまさに、悪魔。



背筋が、寒く、なった。



「誰の感情も踏みにじりたくない。君はきっとそういう信条の持ち主なんだろう。優しいよ。優しくて天使みたいだ」



既に体中の水分を奪われ、からからに乾いた喉。


それでも尚、悪魔は生気を抜き取ろうと、言霊を操る。



「人を傷つける程の鋭さがなけりゃ包丁は魚を捌けないし、人を火傷する程の火力がなくちゃ花火は打ち上がらない。誰かを傷付ける言葉じゃなきゃ、誰の心にも届かないよ」



唇を舐めてみたけど、舌自体が乾いてる。


水を失った魚はぱくぱくと、生を求めて足掻く。



しかし。



「だから、誰かの感情を踏みにじる練習。俺と付き合おう」



声のトーンさえが高くなって、ほっと一息吐いて私は初めて、自身が強張っていたことに気付かされる。


再び電車が走る音が響いて、大谷の束縛が解けたように、時は元の通りに刻み出した。



「……もう、九時ですよ。女子の部屋にいるには少々遅すぎる時間かと」


「はいはい」



意外にも彼はすんなり立ち上がり、玄関と呼ぶにはお粗末過ぎる出入り口へと向かった。



一応客人たる彼を見送ってやるためにそこまで着いて行くと、彼は、手に持った原稿を一枚、ひらひらさせて、首を傾げた。



「これ、気に入ったからもらっていいかな」


「それを見ながら自分を慰めるんじゃないなら、どうぞ」


「結構えげつないこと言うね」


「貴方程では。それより、大谷君、いくつか聞いてもいいですか」


「何でしょう」



原稿を折り畳んでポケットへ突っ込み、部屋の扉を半開きにしたまま、大谷はこちらを振り返る。



その顔は人畜無害、蠅だって殺さぬような、仏の如く。



「さっき、貴方、私の家と同じ方角に用事があると言いましたが、あれは嘘?」


「嘘」


「じゃあ、私の原稿を気に入ったと言うのは?」


「本当」



「なら、私が貴方と表面上付き合うことで踏みにじられるのは、貴方を好いている世の女性陣ですか、それとも……貴方?」



ふふと、大谷はこちらへ笑いかける。


そして。



「君のそういうとこ、好きだよ」



ウインクして、呼び止める間もなくするりと扉の間から外へ逃げていく姿はまるで猫のよう。



バタンと扉が閉まる音が響いて、どうやら、大谷という男、煮ても焼いても。



「食えない男……」


 

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