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考えてみたら、何も知らなかった。


彼がどこに住んでいてて、どの学校に通って、どのスーパーを使って、どの喫茶店に寄って、なんて何一つ知らなかった。


電話番号だって、メアドだって知らない。何てことだ。



彼に関して私が持っている情報は彼が医学部に通っていることだけで、この近所に医学部と言えば、ただ一つしかなかったのだが、先程電話して問い合せた限り、大谷敬という人物はその大学の医学部に存在しないらしい。


他にある医学部と言えば十駅も離れた小さな単科大学だが、そちらも空振り、大谷という苗字の人すらいないと言われてしまった。



その時点で私も面倒になって来てしまっていたのだが、しかしここで諦めては何だか悔しい。


もし医学部という情報が大谷の嘘なんだったとしたら、ここで屈しては彼に負けたことになるような気がして、私は知恵を絞る。



目の前の携帯電話で一生懸命検索してみるけれど、個人情報、そうそうネットには転がっていない。



が、何か手掛かりになるものはないかと思って、彼との一週間を思い出してみて、一つだけ思い当たるものがあった。



『大変なんだな、一人暮らしって』



彼と再会したあの日、私の散らかった部屋を見て彼は確かにそう言った。


まるで一人暮らしを知らない口振りで、つまり、彼は実家住まいか寮生活か。



公立中学で私と一緒だったのだ、実家は私と同じような場所にあるはずで、それならば恐らく寮生活に違いない。



試して損はないだろうと、先程大谷はいないと足蹴にされてしまった国立大学の学生寮へ電話を掛ける。


推理小説の途中で、主人公より先に謎が解けたような興奮を抑えて、電話に出た壮年の管理人に尋ねてみた。



「あ、そちらの大谷敬君に連絡があって電話したんですけど」


「大谷ですか。今、お呼びしますね。お名前は」


「えっと、深川です」



聞かれて思わず答えてしまったが、大谷敬がそこにいると分かったならとっとと切って、黙って郵送すれば良かったと後悔した。


しかし今更切るわけにも行かず、大谷が電話口に出たら即座に切ってやろうと私は電話の電源ボタンに親指を掛けた。


すると。



「大谷敬は外出してますね。伝言でしたらお伺いしますが」



穏やかな声で、寮の管理人は教えてくれて、私はほっと息を吐きつつ応答した。



「いえ、大丈夫です。また掛け直しますから、彼にも電話があったと伝えなくても構いません」


「分かりました。門限が九時半なので、それ以降に掛けて頂けたら、いると思いますよ」


「親切にありがとうございました、では」



電話を切り、耳元で響く機械音に、私は少々困惑した。



どうやら、彼は近所の大学に通っているらしい。


しかし医学部に彼の籍はない。



普通に考えてみれば、彼はその大学の医学部でない学部に通っているということになるわけだが、それは一体どういうことだ。


まさか本当に私を欺くために学部を偽ったというのか。



混乱する頭を抱え、しかし、これで居場所は分かった、彼がどの学部に通っていようと私には関係ないのだから、明日学生寮宛に郵便して彼との縁を本当に切ってしまおうと考え直す。



そんなわけで、彼の捜索はちょっとの謎を残して一時間もしない内に解決したはずだったのだが、話はまだ終わりを迎えてくれないらしかった。





「何してるんですか」



私の部屋はアパートの二階。


アパートの門を抜けて、すぐある階段を上れば一番手前に、私の部屋がある。


階段は結構錆付いていて、その場で足踏みをしたら抜けてしまうんじゃないかと個人的に心配してはいるのだが、今まで十年ずっと大丈夫だったと管理人さんは歯牙にも掛けない。



まあ、何が言いたいかと言えば、そんなところで足踏みをして階段が壊れたらどうするんだと言うことで、寒いからって階段で足踏みしないで下さい、大谷敬君。



「あ、深川さん、こんばんは」



それは大谷敬の居所を調べた翌日、まさに駅前の郵便ポストにパスポート入りの封筒を投函しようと家を出た瞬間で、時刻は午後十時。


わざわざ学生寮の門限を越えた時間を選んだのに、どうしてここにいるんだろう。



「誰に用事ですか」


「深川優香って言う、可愛い子に」


「知らない方ですね、どうかお引き取りを」



アパートの廊下は、流石に錆びた金属ではなく、きちんとしたコンクリートで出来ている。


腰より少し高いくらいの場所に手すりがあって、そこから飛び降りればこの大谷から逃げて地上へ辿り着けるだろうか。



「昨日、電話をくれたって管理人さんから聞いて」


「あの管理人さん、すごくいい声してるんで、ついつい嘘を吐いて電話しちゃうんですよね」


「声フェチなの」


「そういうことにしといて下さい」



親切な管理人さんを恨むわけではないけど、いちいち言わなくても良かったのにな。


酷く苛立って、今なら二階と言わず五階から落ちても大丈夫な気がする。



「深川さんって結構鋭いと思ったけど、もしかして、俺の見当違いだったかな」


「何を言ってるんですか。貴方こそ自分の通っている学部を間違えて、馬鹿じゃないですか。手間が掛かって疲れたんですからね」


「俺は、学部を間違えてなんかいないよ」


「だって貴方、医学部だって」



「俺は何一つ間違えたつもりはない。学部だけじゃなく、全ての行動を、間違えたつもりはない」



「それって、どういう――」



怒りとか、自己嫌悪とか、そう言ったものが、急に冷えて行った。


それは大谷の強い言い方に圧倒されたとか、見上げたその表情が真剣過ぎて驚いたとか、そういうことでは一切なくて。



「まさか、貴方――」



拍動が、跳ね上がる。


胸が、苦しい。



全てに、合点がいった。



『赤裸々に将来の夢を語るのはいくら何でも恥ずかしいから、一つだけ嘘を吐いてもいいことにしてくれないか』



最後に会ったあの日、彼はそう断ってから自分が医者志望だと、君が好きだと、そう言った。


てっきり私は、彼が私への片思いを捏造することで私も恥ずかしくしたんだと思い込んでいた。


しかし彼は医学生ではなくて、しかもそれを自覚していて、それならば彼があの時吐いた嘘と言うのは。



『そう、つまり、君に片思いしたまま何も出来なかった臆病な男なんだ』



彼は、この大谷敬は、初めから何一つ、嘘なんて吐いてなかった?



「……私、あの、とんでもなく酷いことを」



どうして気付けなかったんだろう。


毎日同じ時間にやってきて、小説を読んでくれて、一万円もする代物を買ってくれて、それなのに、私は何一つ信じなくて、彼を利用した。


初体験を高二でどこかに捨ててしまった自分が嫌で、ならいっそキスをするのも、恋人を作るのも、全ての初めてを好きでもない誰かに押し付けて、自分を傷付けたくて、私は彼の好意を利用した。



それは、本当に、許されないこと。



「深川さん」


「……はい」



弁解なんてしようがない。



これが小説なら簡単に言葉に出来ただろうか。



ごめんなさいと、謝る。


高二の頃の出来事を脚色たっぷりに語って、彼に許しを乞うのだ。


そうしたら彼も許してくれて、二人は付き合うとまでは行かなくても、仲直りに至って、ハッピーエンドのはずなのに、現実の私は情けないことに、何と言ったらいいのか全然分からなくて、ただポケットから封筒を出して差し出すのが精一杯だ。



「あの、これ……」



と言うのに、大谷は本当に優しくて、もしかしたら天使という表現もあながち間違いでもなかったのかも知れない。



「深川さんは、忘れ物の心理、知ってる?」


「……え?」



涙が、零れた。



「忘れ物の心理、君なら知ってるでしょ」


「……また、会いたい」



どうしてそんなにあんたは優しい。


悔しいから大谷の胸に顔を埋めて、精々涙で染みでも作ってやると、離れないように両手で彼の上着を掴んだ。封筒がくしゃくしゃになったって、知るもんか。



ずっと待ってくれていたのか、大谷の体はすごく冷たかった。



「俺、実は理工学部なんだ。親父と同じ研究の道に進もうと思って小説家を諦めたわけだけど、その一番の理由、分かる?」


「……分かりません」



分かるわけない。


大谷の好意だって二週間のラグを持って、やって今受け取れたのだ、どうして大谷の私情が理解出来る。


私の両手を優しく包んで、大谷は続けた。



「俺が、小説家には向かないくらい、素直だからなんだ」


「……何ですか、それ」


「いや、思うんだ。俺、好きなら好きって言っちゃうタイプだから、小説家には向かないなって」


「どういうことなんですか」



なるべく私が泣き止むように、関係ない話をしてくれているんだと、思う心は驕りなんだろうか。


大谷の一週間の優しさが、今更届いて、私は胸がいっぱいだ。



「小説家の人って何かを伝えたいがために物語を練るでしょ。物語を作るってすごく大変なことだし、何より受け取った人に正しく伝わるかだって分からないじゃない。俺だったら、小説一本書いてる間に、直接口で言っちゃうよ」


「小説家の人はマゾだとでも言いたいんですか」


「いや、不器用、だろ?」


「私に聞かないで下さい」



大谷の上着に顔を埋めたくぐもった声では驚く程に説得力がない。


ただ、今、私には彼に伝えたい一言があるはずなのに、そんなことすら言えなくて、それはきっと不器用以外の何物でもない。


それでも、それが小説家の素質だと言うなら悪い気はしなくて、泣きながら思わず笑ってしまう。



「小説の山、どういう基準で分けたんですか」


「右から順に超読みたい奴と、すげえ読みたい奴と、特に読みたくない奴と、まだ仕分けしてない奴」


「山は三つでしたけど」


「だって、超読みたい奴と、すげえ読みたい奴しかないんだもん」


「……馬鹿ですか」


「馬鹿だよ」



何とか顔を上げて、大谷の顔を見ると、いつものように楽しそうに笑っていた。


私と会う度にそんな笑顔を浮かべて、それは単純に嬉しかったからですか、と尋ねてみたかったけど、残念ながらそんな勇気は私にはなくて、代わりに一言言ってやった。



「一つ、嘘を吐いてもいいですか」


「うん」


「大谷君って、結構格好良いんですね」


「それ、照れ隠しだって言って欲しいな」



こうやって誰かの想いが、誰かを温め得るのだとしたら、もしかして、私が思う程、好きって感情は薄っぺらくないのかも知れない。


 

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