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ある日、掃除をしてみた。
特に理由があったわけでもないけれど、数日前、何かが吹っ切れてからというものの、書き上げた原稿が馬鹿馬鹿しいと思えて仕方がなくて、ならば一掃してしまおうと思い立った、ただそれだけである。
床に散らかした方の原稿は先日のゴミ捨てで綺麗さっぱりなくなっていて、残すのは大谷が作った山三つとなっていた。
と言っても、結構崩れてしまっていて、山も三分の一くらいしか残っていないわけだが。
とりあえず左の山から片付けようかと、朝から腰を据えて窓も開け、準備万端で望んだのだけど、やはり思わず読みふけってしまうのが性というもので、昼を越えても山は一つも減っていなかった。
それでも今日中に全てを片付けたかったから休みを取らず、原稿に目を通しつつも着実に作業を進める。
いちいち丸めこそしなくなったが、乱雑に畳んでゴミ袋に入れると、やはり寂しい思いがしてしまう。
自分の夢なんて一度だって疑ったことはなかった。
昔から本が好きで、自分で書いた物語を親しい同級生に見せるということもよくあった。
深川さんの書く物語は切なくて感動する、と皆言ってくれて、私はそれだけが取り柄だった。
それがそのまま将来の夢に繋がるなんて陳腐な話だけど、まあ、妥当な結論というか、幼い私はそんな結末にさえ運命のようなものを感じて固く決意したし、放任主義な両親も簡単に賛成してくれた。
そして今こうして一人暮らしをしながら原稿用紙を埋めてきたのに、終わりというのは得てして突然なんだなと改めて思う。
手元の原稿に目を通して、ああ、一体自分はどれほど意味のないことをしてきたのかと募るのは後悔ばかり。
白々しい主人公が白々しいストーリーを描いて、昔の友達はこれのどこに泣いてくれたのか、昔の自分はこれのどこに魅力を感じたのか、迷子になってしまえば見失うのはこんなにも呆気ない。
親に何と言って帰ろうとか、敷金と礼金はいくらだったっけとか思ってみると、出るのは溜め息。
それでも作業の手だけは緩めず、時計の長針が二周して、左の山が無事に片付いた。
次は原稿一つ分の空白を挟んで、真ん中の山。
一番上の紙を手に取って、再び思考に耽って行く。
大体、何でこの職業を目指したかと言えば、簡単に纏めれば褒められたからに過ぎない。
それは誰かに愛してると言われて惚れてしまう、私の情けない性格のせいなのだろうが、何にしても明確な理由はそれぐらいか。
後付けで出来た動機と言えば、小説で誰かの心を救えたら、などと言うものだが、人の心を動かしたいなんて、それは高二の時の過ちを繰り返しているだけな気がする。
所詮、誰かを理解したい、助けたいだなんて傲慢な感情は、何一つ生み出さないのだ。
彼を理解しようとして、手に入れたものは虚しい記憶だけで、今だって誰かを救いたいと願っても、無駄な紙を生産しただけじゃないか。
そうしてふと、手に取った原稿は、大谷が無理矢理私に続きを書かせた駄作、よりにもよって、嫌なタイミングだな。
躊躇いなくゴミ袋へ放って、それから視界の隅に入ったものに私は首を傾げた。
「紙……?」
残された二つの山の間に、何か挟まっている。
原稿より遥かに小さく、妙に長い。
私の身近にある紙なんて自慢ではないが原稿ぐらいだったもので、ではこれは一体なんだろうと引き抜いてみて、驚愕する。
「福沢諭吉さんだ」
福沢諭吉一枚、新渡戸稲造さん二枚、具体的にはワンデイパスポート二枚。
「何で、こんなところに」
なくしたって言っていたけど、この部屋でなくしたのか。
綺麗好きな大谷が、そんな馬鹿なことをしたのか。
呆れよりも驚きの方が先立つ。
「福沢諭吉かあ……」
バイトをせず親の仕送りだけで生活している私からはいまいちピンと来ないけれど、一万円と言えば、例えば時給八百円の人の、十二時間分の労働。
それは、きっと。
「……返さないと、だな」
憂鬱だな、と思った。大谷敬に会うだなんて、今、一番避けたい行為だ。
大体、なくした彼が悪いのだし、私が心を痛める必要もないのだろうけど、それでも十二時間の労働、どんな苦労なのだろうと思うと何だか居心地が悪い。
それに、世の中、直接顔を合わせなくても品物を渡す手段はいくらでもあるじゃないか。
郵送なり知人や大学経由なり、他にも何かしら。
パスポートは返した方が自分の後悔もきっと少ないだろうし、返す方が無難というもの。
丁度原稿を片付けるのも飽きてきたところだ。
気分転換がてら、彼へこれを渡す手段を考えても損はないはずだ。
ゴミ袋の隣、畳の上に寝っ転がって、私は滅多に使わない携帯を手に取った。