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先日の大谷の言葉を借りるのなら、私達は交際に価値観の相違を見出しただけなのか、それとも喧嘩をしたのか、さもなくばどちらでもない何かをしたのか、自分に問いただして答えは簡単だ。


翌日午後八時になっても聞き慣れた声が響かず、そんな日々が三日も続けば漠然とした終わりというものを頭のどこかで理解するようになる。



床へ置いた原稿は山に移動させられることもなくそこに広がったままだし、読み返そうと目的の原稿を探して山を崩しても、直す人はどこにもいない。


そういえば大谷は結局何を思って仕分けしたんだろう、なんてちょっとも気にならないわけではないけど、躊躇いなく整然としたそれらを荒らしてやればくだらない疑問はもっとくだらない日常に埋もれていく。



初めの二日程はこんな呆気ないものなのかと首を捻ってもみたが、考えれば彼と私が共に過ごした時間は一週間、具体的にはたったの十数時間に過ぎない。


生まれてからつい去年まで同じ屋根の下に暮らしていた両親とさえもこうやって違う県まで離れてしまえるのだ、肩書きこそ恋人であれ、所詮中学時代の同級生、一体彼と私を何が繋ぐと言うのか。



今だって原稿の合間に彼のことを意識的に振り返っているだけで、それは一日の中の十分にだって満たない時間だ。



無意識に思い出すのは大谷敬でなく、寧ろ、彼でない方の、元同級生。


離別してからほとんど思い出すこともなかったその人が、大谷との一件で、頭から離れない。



電車の音、誰かの談笑がうるさいから窓を閉めて、眩しい西日から逃げようとカーテンを引く。


机の上にある書きかけの原稿だって、その人のことを思い出しながら書いたものだからロクな代物でなく、仕方ないから何かの映画の真似をして、くしゃくしゃに丸めて畳に放ってみたけれど、それはまるで私がゴミを作ってしまった証明に見えて、溜め息を吐きながらゴミとしてゴミ箱へ入れ直した。



大体、私は人生を投じてゴミを量産していただけなのかも知れない。



そう思うと自己嫌悪は止まらず、床に散らばった白と黒の入り混じった紙を手に取り、衝動に任せて片っ端から丸めて捨てる。



誰かの何かになるわけでもない文字列、強いて言えばゴミを回収する人の仕事を増やすだけの紙を作る作業に、何の意味があるのだろうと、紙が鳴らす乾いた音に考えてみた。



夕日も沈んで、薄い平面から歪な立体に変えられたゴミクズがゴミ箱を一杯にした頃、案外紙を丸めるのは手が痛くなるもので、特に何かで鍛えたわけでもないやわな手の筋が悲鳴を上げる。


一旦手を止めてみると、原稿はもう半分に減っていた。


電気を点けないと作業も辛いだろう暗さの中、すっかり綺麗になった床に腰を下ろして、溜め息を吐く。



「馬鹿みたいだよ、『愛してる』だなんて」



誰かの口癖を真似てみる。


何故か、喉の奥が締まった。



至って普通な両親を持ち、至って普通な人生を過ごし、至って普通な成績を刻んでいた彼は、何故か感情なんて何一つないような声音で、いつもそう囁いてくれた。



愛してる。



私はそれを、まるで知らない言語を耳にするような不思議な感覚で聞いていたのだけれど、同時にその言葉は私の心を掴んで離さなかった。



どうしても、知りたくなった。


彼の言う愛してるが何を示しているのか。



「愛してるって言ったの、私で何人目なの?」



当時、人並みに愛嬌があって、人並みに恋愛というものに興味を抱えていた私は、からかうように彼に尋ねた。


するとやっぱり平坦な声で、表情をそう変えることもなく彼は答える。



「ここ一週間で考えたら、君は十二人目だよ」


「ここ十七年で考えると?」


「食べて来たパンの枚数なんて誰も数えない」



肩を竦める動きをして、せいぜいそれだけが彼の感情を表す動作らしい動作だった。


廊下で偶然会った私に唐突に愛してると言ったのだ、一週間で十二人だって、有り得る話である。



「本命はいるの」


「まず、恋愛感情がないよ」


「愛してるのに?」


「口癖みたいなものだから」



同じ教室の、机二つ離れた席に座る彼は特にこれと言った魅力もないのに、ただその会話だけで私は惹かれてしまった。


それはきっと人生で初めて愛してると言われたから、そんな単純な理由に違いなくて、出来事の出だしっていうものは大概そんなことだと思うわけだ。



「優香さん、メアド教えて」


「下の名前で私を呼ぶの、学年で貴方くらいだよ」


「本当? じゃあ、特別だ」


「とりあえずメアド、これ。メールしてね、約束だよ」



彼の愛してるを真面目に受け取る人間は、彼の読めない言動を訝しんで離れていったし、冗談だと理解出来る人間は、ありがとうと笑いながら流していた。



その中で私一人、訝しがらず、流しもせず、きっと学年で一番彼に騙されていたんだろう。


心では冗談だと分かっているつもりでいて、それでも言われる度にくすぐったくなるものだから、彼の一番傍にいて、いつでも愛してるをもらえるように立ち回っていた。



けれど、そんなものは彼と離れてから改めて思うだけで、渦中にいた私は馬鹿らしいことに、彼を理解したいという衝動に突き動かされていただけだった。彼を理解しているという自信さえ持っていた。



「今度の日曜日、遊びに行ってもいい?」


「俺、一人暮らしだけど、それでいいなら」


「そうなの? 一人暮らしって大変?」


「掃除をしないと埃がたまって、料理しないとご飯が出なくて、働かないとお金もなくなる、それだけだよ」


「それだけ?」


「そう、それだけ」



彼の価値観は根本からズレていた。


それは金銭感覚がおかしいとか恋愛に関して変だとか、そういう簡単なことでなく、彼の十七年がどこか歪んだ形で積み重ねられてきて、その上に一般人なら持てないような心根を乗せていた、強いて言うならばそんな人柄だった。


そしてそれこそが私を駆り立てて、私は毎週家事を手伝いに行った。



親からは彼氏でも出来たのかと聞かれ、少々嬉しくなったものだけど、しかし彼に恋愛感情なるものが一切ないことは察していた。


それでも彼の理解者は私なのだという矜持だけは健全に育っていき、彼の求めるものを全て差し出す自分がいた。



といっても、彼は物品を欲したわけでなく、ただひたすらに。



「ゆーちゃん、愛してる」


「何でゆーちゃんって呼ぶの」


「ゆーちゃんにとっての唯一の存在であるのが、嬉しいから」



恋愛に似て、それでいて一番遠い何か。



「デート行こ」


「手繋ぐの好きだね」


「ゆーちゃんの手、柔らかいから」


「そうかな」



それが何だったのかは、生憎、私には分からないままだけど。



「ゆーちゃん」


「……好きにしていいよ」


「ありがとう」



感情なんて何一つこもってない声で甘い言葉を吐く彼と、私は一線を越えた。



キスはなかった。


恋人の肩書きもなかった。



それは将来出来る彼氏のために取っておいて、彼は言ったけど、それが嘘だと私は気付いてた。



面倒だったのだろう。


恋人になれば、私に縛られる。


キスは恋人の契約の証みたいなものだよ、と言っていた彼らしい発想。



そして、やっぱり面倒だったのだ。



彼はいつものように朝から愛してるを言い、机二個分離れた距離で共に授業をこなして、昼休みに一言もなく私との縁を絶った。



話し掛けても返事なんて返って来ない。



彼にとって何が煩わしかったのか到底理解出来るはずもなく、私以外に愛してるを語る彼を、何の感慨もなく机二個遠くから眺めていた。



ただ胸を占める思いは悔しさでもなく悲しさでもなく、きっと彼を理解し切れなかった私が何かいけなかったのだという自己嫌悪。



理解出来ると思う時点で傲慢だというのに、懲りずに理解しようと試みて、結局私が失ったのは、馬鹿げた清純の証だけ。


残されたのは、彼のいつもつけていた香水の匂い、何もない白い部屋の記憶。



私と彼の関係は誰一人知らなかったから、幸い何事もなく離れていったけれど、それでもぽっかりと感情が欠落して、私は心を閉ざした。




「『愛してる』とか『好き』とか、馬鹿みたいじゃない」



どうして彼も大谷も簡単に振りかざすのか。



好きって何だ。



私があの彼に抱いていた感情すら好きとは違う何かだったのに、一番好きに近い感情ですらあんなにも歪んだものだったのに、どうして彼も大谷も自分の抱えた感情が好きだとか好きじゃないとか、愛だとか愛じゃないとか、分かるのだろう。



結局その程度のものなのか。


私が紙に刻んでみたいと切に願った、文字で描けたなら理解出来るのだと強く信じていた、恋愛感情とか言うものは、私以外にとっては簡単で気軽で、どうしようもなく薄っぺらいものなんだろうか。



本当に馬鹿げている。



まだ何も書いていない白紙の原稿を取り出し真ん中で引き裂いて、呆気ないものだと呟くと、何故だか涙が止まらなかった。


 

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