サナギは生まれるユメを見る
この広大な檻に放り出された、エゴの代償の者たちへ 捧ぐ
その夜は 炎夏に戻ったかのような蒸し暑い雨が降っていた。
「種をくれない?」
怪談話だったらまだよかった。ピンポーンとインターホンが鳴って、名前を聞いてみたら大層懐かしい名前で、どうしたものかとドアを開けたら、ずぶ濡れの相手が挨拶もなしにこう言った。
「……ええと?」
そりゃ大いに戸惑うだろう。聞き間違いとでも勧誘とでも思うだろう。
「なによ、飲み込み遅いわね。一肌脱ぎなさいって頼んでるのよ、言葉通りに」
ぼくの家に、天上天下唯我独尊の里佳子がやってきた。
サナギは生まれるユメを見る
「親がうるさいの。女に学問は必要ないって、時代錯誤の考えしてる人だから。まあ 結婚は煩わしいけど、子供は育ててみたいなって考えてたりはするわよ。だけど どこの誰だかわからない種、写真と書類で選んで機関でもらったって、お金もかかるし保証もないわけ。だったら誰だか分かって 勝手知ってた過去の人間に貰うのが理想かなって思うの、当然でしょ?」
「はあ。それでぼくの家に押しかけてきたわけですか」
和室に招き入れると、彼女はぼくの出した炭酸水を一気に飲んでから滑舌よく喋った。
原稿を書き上げて、担当に渡してきた夜だった。平日の飯時、過去の男の家にアポなしで押しかけてくる人間なんて、彼女くらいのものだろう。
「だけど 付き合った男なら他にも居るだろう? 君の研究機関の人間とかはどうなんだい」
「あら、あなた以外にわたしとIQ張り合える人なんていないもの」
自信家で実直(ひとえに自己主義で無鉄砲)の里佳子は さらりとそんなことを言う。
「わたしも現況でそんな大きなプロジェクト入ってないし、もし入ったとしても来年だから。身体も今週あたりうまい具合に根付けそうだし、時期でいったら今夜がベストなのよ」
「……さいですか」
呆れて物も言えない。大学時代から里佳子はこうだった。自身の能力をもって自任しているとは聞こえがいいが、実際は我が街道を行く向こう見ずなだけだ。六年制大学を首席で卒業して、一流研究機関に勤めているといっても、その独自の理論で動いているのは変わりないらしい。
「それより こないだ載ってたわよー? 今をときめく個性派エッセイスト、『曹豹 慶達』さんの新連載」
「ああ、あれ」
「すっっごくふざけた作家名だなって思ったわ」
「……」
一瞬でも 里佳子に感想をもらえると思ったぼくがばかだった。
「三国志でこんなマイナーな人物選ぶのやめなさいよ。曹をつけたいなら曹操でしょ」
ふざけた名前と言いつつ、ぼくのペンネームの出所まで知っている。やっぱり彼女は侮れない。
そもそも この畳の部屋に里佳子が居るなんて不思議だった。ずぶ濡れたのがそのまま入ってきたせいで、畳の藺草の馨と 雨の香が入り混じっている。秋も近いというのに――夏に厭というほど嗅いだ、草いきれの匂いがした。
否、草いきれのむんとした熱気とはまた違う。もっと水を含んでいて、風に乗って流れる大気の匂いだ。
その匂いを何処で嗅いだのか。ふと気になって、記憶の糸を辿ろうとした矢先。
タオルで水気を拭き取っていた里佳子が、「まったくあなたは」と 脈絡もなく転じた。
「わたしと同じ学部だったのに、なんでまた文系の道を突き進んだわけ? あなたと組めたら、わたしの所は さぞかしいい成果が期待できたでしょうね」
「……はは」
空笑いをする。研究機関と大学院のオファーを蹴って 大学卒業後あっさりバイト生活に切り替えたぼくのことを、里佳子は見損なったと言って罵ったものだ。
「結果論だよ。あの世界じゃ渡り歩けないと思ったからやめたんだ。無理して行ってたら、ぼくは落胆されるだけで終わっていたよ」
「謙遜は皮肉と紙一重」
柔い答えを、里佳子の棘で切り返される。目鼻立ちのはっきりした顔が、キッとぼくを睨み付けていた。
「その余裕と日和見主義が好きじゃないわ。むかつくから罰としてビールでも持ってくること」
性格を否定された上に、ビールを要請された。というか、威令だった。
……どう見ても頼みにきた態度じゃない。
「あっそうだ、お風呂貸してくれる? 入ってる間に つまみとお酒と身体の用意、頼むわよ」
ムードもへったくれもありゃしない声とともに、里佳子は風呂場へ駆けていった。
「サナギ!」
名前を呼ばれたかと思って顔を上げると、向こうで誰何が笑っていた。
ぼくらは草叢のなかにいた。高原地の夏空は涼しい風が通る割に、日差しが暑かった。
ぼくは駆け出す。木のそばに居る誰何を目指して。
大学生の里佳子が、そこでぼくを待っていた。
「ねぇ見て。蝶の蛹でしょ、これ」
里佳子が指をさしていたのは、『金柑』とプレートが掛かった木だった。一部分だけ葉のない枝が伸びており、奥まった箇所に 緑色の保護色に身を包んだ、奇妙な物体がくっついている。
「金柑か。柑橘系の木だから、アゲハになると思うよ」
「なら、これはキアゲハになるのかしら。黒アゲハだったら綺麗でしょうね」
蛹をじっと見つめる里佳子を横にして、ぼくはほほえましく思った。
論文地獄を終えたらK高原に行こう、そう提案してよかったとほっとした。
「この不完全変態の状態から羽化するんだものね。孵化とは違うか調べたいわ」
「………」
ああ、でもやっぱり里佳子は里佳子だった。
「…つついたら動くって聞いたことがあるけど。そうだ、デコピンで弾いてみようかしら」
……いかん、蛹が危ない。
「起こしちゃかわいそうだよ。夢でも見てるかも知れないだろう」
後ろから肩に腕を回して、やんわり制止した。里佳子の背中にぼくの胸を密着させる。心音が伝わっているはずだ。どくん、どくん――心臓の鼓動を聞いておとなしくなった里佳子は、下ろした手でぼくの甲を掴んだ。
時が止まる。爽やかな風が吹いて、里佳子の少し汗ばんだ肌の匂いが流れてきた。
「……なんのために飛び立つのかなんて、知らないんだろうな。蛹は」
感覚的でメランコリックな発言は、腕のなかの里佳子に笑われてしまう。
「また空想チックな発言するんだから。あんまり言うとモテなくなるわよ」
『彼女』になっている君が云うのもどうかと思う。後々面倒になるので、諭さないでおくけれど。
「哲学と言ってくれよ。……ぼくらだってなんのために生まれるのか解らないだろう?」
「与えられた細胞が活性化して分化して劣化して老化するから」
「ユメがないなあ…」
「――だって、わたしたちは誰かのエゴで生まれたんだもの」
ざあっと、一陣の風が吹いた。
水気を帯びた草木の匂いが、ぼくのそばを通り過ぎていく。
里佳子の声が凛と響き渡る。きっぱりとした物言いは、諦観しているようでも、吹っ切っているようでもあった。
ぼくは言葉を失った。彼女を腕の中に入れたまま、なにも言えなかった。
なにかが決定的にぼくらを別っているような気がした。幾度となく躯を重ねても、言葉を交わしても、心を合わせられない理由。気付いてしまった。里佳子はぼくと違う。彼女は聡明過ぎるのだ。聡いばかりに、この世の理をとらえてしまっているのだ。
震えるぼくの腕を、彼女は ひんやりした手でそっと振り払った。
「なのに、自分のエゴイズムで個体を創造る生き物なのよ。」
ぼくら生きているものはエゴでつくられた。
その尊さを、かなしさを、わびしさを知っているはずなのに、ぼくらは自分のエゴイズムから創造する。
創造された個体は、自我を持つ。意識は断絶され、疎通ができなくなる。
せめてぼくが蛹だったら、生きていることになんの疑問も持たなかったのに。
ただ葉を食べて肥えて、蛹になって、羽を広げて子孫を残すサイクルに身を任せていけたのに。
ぼくらは――どうして相手に楔を打つことでしか、証しを残せないんだろう。
「……不幸だと思うかしら。 自我を持ったら、わたしを恨むかしら」
閉め忘れた障子から、朝焼けの光が差してきた。机にはビールの缶が散らばっている。簡単に作ったつまみは全部空け皿のまま放置されている。畳に敷かれたタオルケットの上で、里佳子はぼくの隣で呟いた。
なぜ里佳子が背中合わせで隣に居るのか、ぼくは一瞬 混乱してしまう。
そして昨夜 押し掛けられたことに始まり、飲み比べから愚痴り合いに発展し、煽られその後のやりとりに及んだこと――気抜けしていた頭が、徐々に覚醒していった。
朝になって里佳子の話を聞いているうちに ぼくはまたうとうととしてしまっていたらしい。
「当然よね。意思も聞かずに放り出そうとしてるんだもの」
今まで話していたことを思い出す。里佳子はこれからの不安を少しだけ吐露していた。勝気な彼女が本音を吐くのは、いつもこんな朝方だ。
「いいや。そう思わないよ」
目を瞑って答える。草いきれの余薫はもうない。蒸れた肌の馨と、藺草の匂いが立ち込めているだけだった。
「ぼくらは望んでふたりで居た。付き合っていた期間だったとしても、いま居る間だけでも、それだけは本当だった。自我を持つのなら、いずれ解ってくれると思うんだ」
そう思うことこそ、エゴにしか過ぎないのかも知れないけれど。
心のなかで里佳子に呼びかけてみる。
いつの間にか夢を見ていたんだ――大学時代に、ふたりで居た夢を。
「うーんと、そうだなあ……シュレーディンガーの猫みたいなものだよ。箱を開けてみないと猫の生死は解らない。開けるまで『あらゆる可能性が不確定』で、開けた瞬間にひとつの状態に収束する」
「不確定性原理にすりかわってるわよ。だいたい、それじゃ確率解釈のパラドックスじゃない」
「茶々は入れない。 だから、きっと――悲観的に考えるのは、まだ早いよ」
君は聡明だった。凛としていて、勝気で、気まぐれで、無鉄砲で、それでも何処か寂しそうだった。
ぼくが君のすべてを受け入れていたら。あのとき 世界に叛いた君の精一杯の呼び声に同意していたら。生まれてくる存在を、別の形で祝福していた。気休めにしかならない偽善の言葉で、君を安心させることなどしなかった。
それでも願わずにはいられない。エゴで生まれゆく個体の行く末を。
願わずにいられない。聡い彼女の血を受け継ぐ個体が、世界の理を見てしまわないように。
「本当に生まれたら、ぼくのところに見せにおいで。自我が出るころになったら、赤ん坊の頃に別れたと言えばいい。そうすれば少しは理由がつくだろう?」
反対側を向いていた里佳子が、ばっとこちらに顔を向けた。呆気に取られている。間の抜けた表情を見るなんて久しぶりだ。少しだけ愉快になった。
「優しい人ね。わたしは靡かないくせに甘えてしまう人間よ。知ってて言ってるの」
「…ああ」天井を仰いだまま、ぼくは噛み締めるように言った。
「君がどういう人間か、ぼくは知ってるつもりだよ。」
天井の梁に炎の眩燿が映っていた。
ステンドグラスを透き通した赤い光。もしくは、スペクトルが並んだ円弧状の集合体のように。水滴がプリズムと同じ屈折作用をして現れる七色の帯…それを見て向こうがわに憧れる少女の話は、なにかの歌詞だったか、物語だったか。
いや、もう考えるのはよそう。箱を開けるのは今じゃない。
外はそのうち鳥が飛び回り、虫が騒ぎ出すようになる。秋に移行するまでの夏空の最後の足掻き。熱を持った一日の始まりだ。
「ありがとう。恩に着るわ…… 佐柳君」
彼女のなかで育つサナギは、どんな夢を見るのだろう。
ぼくらのエゴで生まれた個体は、どんな風に世界を見るのだろう。
彼女は強い。だから、生まれてくるその子も、強く育つとぼくは信じている。
なにかに絶望しても、苦悩しても、きっと かぎりあるものの意味を知ってくれると、信じている。
エゴでぼくらは創造する。猫は箱のなかで死ぬ。まだ見ぬきみは 水面の向こうがわへ行ける日を待っている。
――きっと蛹は、蝶の姿を知らずに眠る。