雪の少女 ♯2
見つめ合ったままどのくらいの時間が経過したのだろうか。
数秒だったようにも感じる反面、遠い過去のような違和感も覚え始めていた。
釘付けされた視線は、ただ彼女の困惑した表情に向けられたまま、微動たりともしない。
黒髪と純白の肌、淡い水玉にベージュのブックカバー、そして背面を淡く彩るのは雪のカーテンだ。
全てが調和し、まるで1つの絵画のようなコントラストを目の前にし、椎田は茫然自失を免れることはできなかった。
白、黒、白。
‥‥‥綺麗だ
放心状態の椎田を前にした少女はというと、横に脱がれていた肌色のカーディガンを持ち、読みかけの本を抱えたまま立ち上がった。
椎田が我に返った時には、既に待合室のもっとも隅にあたる座席に移動し、腰掛けていた。
そして何事も無かったように、カーディガンを膝元に掛け、本を広げて読みふけてしまったのだ。
‥‥‥しまったなぁ
見とれる前にきちんと謝るべきだったか、と後悔した時にはもう遅かった。
彼女からすればスーツ姿の椎田は異端者だったのにも関わらず、覗き見ただけではなく、挨拶も無い。
そうなっては愛想を尽かされたとしても何の文句も言えまい。
唾を呑み込み、1歩、休憩室へ足を踏み入れた。
中央には大きな楕円形の木目柄デスクが置かれ、窓、壁際にもクッション付のソファーが並べてある。
清掃が良く行き届いており、テーブルに目立ったゴミもなく、窓ガラスは遥か遠くの町明かりまで澄み切っていた。
待合室といっても利用するのは入院患者が大多数を占めているのだろう、天井から大型の液晶テレビが吊り下げられており、本棚には週刊誌や漫画本に至るまで幅広いジャンルが用意されていた。
観葉植物(植物には詳しくないが、モミの木では無いのは確かだろう)には、おそらく看護師が趣味で飾ったのか、クリスマスツリーの装飾が施され、赤、黄、青、緑と電球がテンポよく輝いていた。
観葉植物の悲鳴が今にも聞こえてきそうであり、面白おかしさで満ち溢れていた。
「ふふっ、、」
頂点には星が輝いており、違和感抜群である。
看護師の遊び心も入り混じってか、その光の温かさは心地よかった。
頂点の星とサンタクロースの絵は、患者の子供が描いたのだろう、クレヨンと絵心の温かさがなんともこそばゆい
空調も病室のように綿密な管理をしているらしく、上着を着たままだと少々暑苦しいようだ。
肌寒い玄関口とは並はずれた環境であるために、待合室の利用者は多いのだろと思っているのだが、なぜかここには彼女以外に人気はない。
翌々考えると不思議なことだが、今はそれどころではない。
椎田はロングコートを脱ぎ、看板と一緒に中央の机に置いた。
少女はこちらを全く気にておらず、その視線は本に向けられ左右している。
その目が、時折、おどおどとこちらを伺っている。
椎田は息を飲みながらも、決意した。
‥‥‥とりあえず謝ろう
少女に2,3歩近づき、面と向かってとは言えない距離だが、頭を下げた。
誰にでも下げられるような軽い頭なのだから、惜しむことはあるまい。
手島先生との約束には『患者とのコミュニケーション』も含まれているため、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
何より、嫌われたまま立ち去る程、気持ちが腐ってしまったわけではない。
この際だ。
余計なプライドは取っ払ってしまい、思うがままぶつけてみようと決めた。
「ごめん!、、まさか先客がいるとは思わなかったから」
「‥‥‥」
少女の視線が止まり、椎田に向けられる。
椎田も腰を正して、視線を交えた。
「あなた、、、やっぱり」
「やっぱり?」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「、、、、、コーヒー」
「コーヒー?、、、ですか」
「右から三番目の自動販売機で150円のがいい」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥はい?」
買って来いとでもいうのだろうか。
確かに謝罪を言葉や態度だけで済まそうというのは、社会的な考えでは甘いかもしれない。
しかし、社会人(新免ということは隠しておこう)に向かって代償を、しかもうわ言のように軽く要求してくるとは肝の据わった子供だ。
まぁ、実際子供かどうかは微妙なところであり、広く見積もっても高校生くらいだろ。
椎田が生意気と決めつければそれまでだが、少女が椎田に対して高をくくっているとなれば、こちらも相応の態度で臨まなければと考えを改めた。
椎田雅也。
無難な道を歩み続けてはや20年。
成績は中の下、運動はまあまあ、容姿はパッとしない暗い表情。
誇れる資格も経験もないのは確かだが、中学生に蔑まされることなど身に覚えはない。
何より、椎田にとって150円はただの150円ではないのだった。
首都圏の営業所に配属されたため、安い給与の大半は家賃に食い尽くされるのだ。
光熱費、食費、携帯電話の使用料までもを、涙を呑んで切り詰めることでようやく自立できる状況。
150円とて無駄に切り捨てられない。
アルバイトを続け、試験さえ乗り越えるだけの学生時代がいかに楽な生活だったかを思い知らされた。
以来の一年間、全ての出費を簿記し、徹底するようになった。
夕食の予算が150円増えれば、サラダが付く。
いや、健康を軽んじれば惣菜のランクを上げるのもありだろう。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
いや、買ってくることにしよう。
野菜の盛り合わせも、チキン龍田も来週に持ち越しにすればいいことだ。
今は彼女のご機嫌を最優先とし、1つでも題材にプラスになることを探さなければならない。
何よりこちらに非があるのだ。
カバンから財布を抜き取り、速足で自動販売機に向かった。
右から三つ数え、予め100円硬貨1枚、50円硬貨1枚をそれぞれ投じ、上段のコーヒー欄のボタンを押そうとした。
しかし、その指が動かない。
「、、、4種類ある」
どれも価格は150円で
左から『深煎り豆』『深いコクとまろやか』『ミルクが香る』『BLACK』
さすがに砂糖無しは無理だろうと思い、ブラックは選択肢として消去された。
‥‥‥深煎りはクセがあるだろうし、無難なのはマロヤカだろうか、、
しかし、ボンタンを押したのはミルクが香る、だった。
ガタンと音がし、インターフォンから『お買い上げありがとうございました』との音声が流れる。
中学の給食メニュー欄には牛乳が必ず載っていたが、稀にココアの粉がついてきたのを思い出したのだ。
思い返せば中学時代、給食だけが楽しみだったようなものだ。
彼女も学生ならば、コーヒー牛乳は必ず飲むことはあるはずだ。
コーヒー牛乳ならば間違いは無いだろうと確信し、がたんと落ちてきた缶に手を伸ばした。
「つめひゃい!!」
猛烈な勢いで見上げた先のコーヒー欄、そのボタンの下には赤い色で『あたたかい』の5文字が光っている。
‥‥‥大嘘じゃねーか!!
向けようのない怒りが椎田の中でグツグツと煮え上がってきている。
冷え切った缶コーヒーを震える手で右ポケットに放り込み、再び財布に手を伸ばす。
故障しているのならば貼り紙くらいは残してくれてもいいのでは、そう先人たちに毒舌を吐きながらも硬貨を取り出した。
‥‥‥管理者がシール貼り変えたはいいが肝心のスイッチを切り替え忘れた?
陰険な傾向の深読みが悶々と浮き上がってくるのは、人間の真性なのだろうから仕方ないだろう。
3つ目の自動販売機ではないが、隣に全く同じものが売られている。
気を取戻し、早急に少女へ御詫びのコーヒーを渡すことにしよう。
硬貨を放り込み、『ミルクが香る』ボタンを押すとガタンという音と同時に缶が放り出された。
‥‥‥もしかして隣も故障しているなんてことは
買っておいて今更だが、そのような不安が胸を揺さぶり始め、恐る恐る右手を出口に伸ばした。
指先からじわりと掌に伝わる熱は、冷めた体には突き刺さるように感じるが、心地が良い。
余計な心配だったと思い直し、缶を取り出して左手に持ち変えた。
そして、目を見張る。
「‥‥‥」
左手に収まる黒い缶コーヒ。
中央に大文字縦書きで堂々と『BLACK』の五文字が輝いていた。
学生時代は簡単なレポートや課題も、1度2度の再提出は当たり前のような出来事だったのを思い出す。
また、同じように不幸も1度や2度は必ず続いたものだった。
同じガラス器具が1日で何度も割れることもしばしば、折あるごとにパトカーから違反を取られたりと災難は波のようにやってくるものだ。
単純な確率論や心の持ちようなどのファクターがあるとしても、たとえそうだとしても、今の椎田の憤慨は収まりどころを知らない。
コーヒを握りしめる右腕には、思わずとも力が入る。
「俺は今、怒っていい」
不幸は連続するものだった。
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今1番の徒労感が押し寄せるがままに、引き戸のハンドルを握りしめた。
椎田の記憶が正しければ、この病院は2年前に大きな改装工事を行ったことがあるはずだ。
木目柄で厚みのあるドアは、ただでさえ横幅が広く設計されているのだから相当の重量があるだろう。
それを考慮した上で、指先を掛け、軽く押しただけで滑らかにスライドする引き戸には病院側の徹底した配慮が感じられた。
しかし、この世界でただ1人、椎田だけには軽い引き戸が楽には感じず、唐突に思い浮かぶのは『なぜこんなに簡単に開いてしまうのだろうか?いっそのことぶっ壊れてしまって開かなければいいのに。そもそも貴様があそこで音を立てなければ僕は今頃、、、』との蟠りも抱いてしまうほどだった。
出来事をナースステーションに「自販壊れていますよ」の1言で報告してきた。
当然だろうが看護師が慰めてくれることは無かった。
誰でもいいから、不幸の連続を言葉で吐き出したい焦燥感を押し込み、気持ちを切り替える。
今一度、気を取り直して部屋へ踏み入った。
すぐに少女の背が見えた。
ここを掛けて出た時とは座っている場所が大幅にずれている。
入口から対角線所の端から、中央のこれでもかと広い楕円状のデスクへと移動している。
あれだけ熱心に走り読みしていた本は机に伏せられ、少女はただ窓ガラスのはるか向こうを眺めていた。
あまりに近い距離に少女の背があったため、椎田は驚きから足が止まってしまった。
少女の視線は景色を、ただただ見つめていた。
降り積もる雪を追うでもなく、町全体を捉えている。
この病院は首都圏とはいえ辺境の、それも小さな丘に建てられている。
視界を遮るものは少なく、そびえ立つ高層ビルやタワー、そして淡くかかる雪化粧された駅、店、車がざわめく姿が良く見える。
まるで別世界だ。
白亜の壁が続く一本の道のようだった。
改めて少女に視線を向ける。
微動たりもしない表情は、ただただ虚空を貫いている。
‥‥‥ここまで近づいて気づいていない?
そうだとすれば、病気とは神経障害系だろうか。
視覚、聴覚に何かしらの障害を抱えているのかもしれない。
こちらから声を掛けなければ、事は始まらないだろう。
椎田は固まりきった両足を奮い立たせて楕円状に回り込み、机を挟んで少女の目の前に立ちふさがった。
「コーヒー。買ってきたよ」
そして、ポケットで保温しておいた『ミルクが香る』を片手で差し出した。
事件の後、病院の近くにあるコンビニに走り込んだのだ。
少女は景色が遮られることでやっとこちらに視線を合わせてきた。
目を見開き、いきなり目の前に現れたことに驚きを隠せないでいる。
背をぱっと伸ばし、仰け反らすことで椎田と距離を取った後に返事が返ってきた。
「わあっ!、、急に目の前に現れないで」
急に割り込んだ覚えなど毛頭無いが、ここは下手に出ておこう。
「ごめん。景色に見とれていたようだから」
「見とれる、、、私が?」
「ああ、ずっと見ていたじゃないか。雪景色を」
「、、、そうでしたか」
少女が初めて敬語を使った時、妙な違和感を覚えていたのは椎田の勘違いだろうか。
部屋を覗いた時の尊崇してしまいそうな雰囲気、凛々しく穏やかな空気感はどこへ消え去ってしまったのだろうか。
しかし、口調が変わったところで椎田が成すことは変わりない。
レポートを書く材料としての、病気を抱えた子供とのコミュニケーション実話。
これがなければ、うまく言い包めたとしても説得力に欠ける。
そんなことを考えている間にも、差し出した手にかかる重みは一向に無くならなかった。
少女はコーヒーを受け取らず、視線を傾け、髪を1掻きして答える。
「コーヒー。ありがとうございます」
「さっきは本当に済まなかった」
「いえ、逆に伺いもせずに堂々と入ってこられた方が不謹慎ですから」
コーヒーを机に置き、椎田が椅子を引いた途端に少女は机に置いてある本を膝元に隠してしまった。
膝に掛けてあったカーディガンを両肩に掛け、やっとミルクコーヒーに手を伸ばしてくれた。
椎田もコートを脱ぎ、手元に折って持ち抱えたまま向かい側に座った。
少女はその行動にまたもや驚いたようで、立ち上がろうか迷ったようだが、結局のところ動かずにコーヒーの淵に指を掛けて返し、一口ほど啜る。
椎田も左ポケットにしまいこんでいた『BLACK』を飲もうと取り出し、蓋に指を掛けた。
少女が不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「あの、、そもそもですね。あなたは誰でしょうか」
「ん?、、、うーん。なんていえば分かりやすいかなぁ。お医者さんに薬を紹介する仕事をしている人、、かな」
「それは分かるけど、、」
‥‥‥分かるのか!?
「そんな仕事をしている人がなんでここにいるのかなぁって思って」
「ああ、それは、、、今さ、仕事が行き詰っていてさ、休憩しようかなと思って」
「、、、、、、、、行き詰る?」
椎田はレポートのことを手早く打ち上げた
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「僕たちの仕事で利潤だけを追求しているだけじゃぁダメなんだよ。企業の社会的責任って言ってね、消費者や株主たちに『私たち企業は永続的な未来と社会に貢献していきますよ』という説明をしなきゃらなないんだ。そして、僕が書くレポートが報告書に掲載されるんだよ」
「詳しくは分かりませんが、大切なレポートってことだけは、、、」
「でも、、、製薬については一年間勉強してきたことだから、ある程度は書けると思うんだ。けど、子供の患者については、、、」
全く分からない。
無理に書いたとしても、大人視点のテーマから大きくずれたレポートになってしまうだろう。
「、、、、、、交換条件でどうでしょうか」
一通りの話を終えた時には、コーヒーは冷え切っていた。
少女の言葉に、椎田は身を乗り出している。
「手伝ってくれるの?」
飛ぶ鳥を打ち落とす勢いに少女が身を引くが、椎田の目が真剣そのものだったために逃げ出すことはなかった。
「ま、、まぁ、そんなところです。子供だけじゃなく近くの病室も案内できます。寧ろ私でよければいくらでもお話しますよ」
「本当か!!」
「、、、、その代わりにですね?レポートの題材が決まった後でいいです、探して欲しいことが一つだけあるのです」
「探す?物とか、漫画、ゲーム?」
少女は頷かず、こちらを見つめてきた。
陰りのない瞳は宝石のようで、冗談を飛ばしているとは思えない。
「まさか、、、人?」
最近はインターネットが十分すぎるほどに普及しているため、大方の探し物は検索できてしまう。
手間暇の全てをプログラムが一任してしまう時代に、調べられないものなどあまり思いつかないが、人間だけはどうだろうか。
個人情報の管理が厳しくなってきている昨今、興信所や探偵にでもお願いしなければならないかもしれない。
当然、それには莫大な費用がかかってしまう。
少女が頷くと、椎田は大きく肩を落とした。
「、、、人探しってのは、、、思った以上に難しいんだよ」
「きっ、、きっとこの病院のどこかにいるはずなの。私はまだ子供だから、真剣に話してもあまり相手にされなくて、、、手伝ってもらえませんか?」
椎田はどうしようかと、両手を組みながら考える。
病院といえど職員と学生を含めれば千人は下らないだろう。
しかし、名前や職場が限定することができたなら、手島先生に頼み込んで、一緒に探してもらうことだってできるだろう。
「うーん。まぁできる限りのことをするよ」
「わっ、、あ、ありがとうございます!」
少女が頭を下げ、黒髪がふわりと揺れたのを見て、椎田はこれでよかったと思い直した。
しかし、少女の探し人とはいったい誰のことだろうか。
病院内での知り合いとなれば、深く関わりを持った人間は除外される。
父や母など、家族や親戚のような親密な関係では尚更のことだろうし、予想されるのは、すれ違い程度の位置にある人物だ。
薄く、曖昧なイメージで、探す手立ても思いつかない人物。
そんな浅い考えを持っただけで気が遠くなり、不可能なのではという一抹の不安がよぎる。
しかし、安請け合いしたつもりなどなかった。
仕事でも気にかけ、病院を回っていれば必ず見つかるはずだ。
例え見つからないとしても、少女が諦めるその時まで善処することとしよう
もう一つ気になるといえば、この少女が病院内で全く相手にされないとはどういうことだろう。
子供相手とはいえ、特別な事情さえなければしゃくに触ることなど考えられない。
おそらく、勝手な推定だが、病室内のグループで何らかの差し障りが起きたのではないだろうか。
長期入院のおばさんが相部屋を仕切っている、なんて話はよくあることだ。
少女とのトラブルをきっかけに、厄介者として締め出されたのかもしれない。
深読みが暴走しているな、そう頭を冷やしながらも反面、下腹部が熱く煮えたぎるのを感じていた。
もやもやした葛藤を抱えたまま冷えたコーヒーを握りしめると、冷えたアルミ缶の感触が意識を呼び覚ますようだ。
そして一口飲む。
「、、、にが」
「ふふっ、、温め直したらいかがですか?」
「ここ、電子レンジもあるのかぁ」
「二年前ですね。ここに設置されたのは。集まる患者さんはお喋りな人ばかりで、ホットミルクなどを温めなおしていました」
「二年前?君は一体いつから、、、」
言いかけて口を紡ぐ。
病状を隠したい人もいるだろう、こちら側から無為に問うてはならないと思い、口に手を当てた。
少女は壁に埋め込まれている暖房のコントローラーに駆け寄り、指先で設定を変更していた。
「そうですね。私は子供かどうか微妙ですが、私のお話からしましょう。病院を案内するのはそのあとでどうでしょうか?」
少女はそのまま大窓に向かい、片手をガラスに翳した。
「救いようもないほど能天気だった、藤川友香のお話を」