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「自分の書いた小説に転生したのに、設定が崩壊してるので“書き換え”ながら生き残ります」―作者なのにヒロインに殺されかけてます―  作者: 百花繚乱


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第九話「現実の向こう側」

朝の光は柔らかかったが、私の頭の中はまったく穏やかではなかった。第八話まででわかったことは多い。精度、重さ、消費、視点。この四つが、私の“書く力”を形作る柱だ。曖昧な文章は暴走し、重すぎる言葉は反動を増幅させ、一度使った文章は消費され、他者の内面や視点に踏み込むと負荷は跳ね上がる。ここまではいい。問題は、その先だ。ルールが見えたということは、逆に言えば、相手にも対策ができるということだ。アリアは明らかに私より先を見ている。彼女はこの世界の“ずれ”を理解しているだけでなく、それを楽しんでいる節がある。あの夜の戦いで確信した。ヒロインであるはずの彼女は、私の物語の中で最も危険な存在になりつつある。


リゼットは机の前に立ち、散らばった紙を順番に眺めていた。彼女は魔導局の調査官だと名乗ったが、私の知る原作には出てこない。つまり、彼女自身が“ずれ”の産物なのか、あるいは本来語られていなかった世界の裏側から現れた存在なのか、まだ判別がつかない。ただ、少なくとも敵ではない。今は。


「書き方が変わりましたね」と、リゼットが言った。抑揚の薄い声なのに、観察の精度だけは恐ろしい。「昨日までは“できたらいい”という書き方でしたが、今朝のものは違う。結果と範囲を固定しようとしている」


「そうしないと危ないって、やっとわかっただけです」


「それだけで十分、進歩です」


進歩。その言葉に私は少しだけ苦笑した。生き残るための試行錯誤が、褒められるような段階にあるというのは、考えてみればかなり危険な状況だ。それでも、進んでいる実感はあった。恐怖が減ったわけではない。むしろ増している。ただ、怯えたままでも手を動かせるようになった。それはたぶん、前世の――いや、現世の自分が、売れない小説家として何度も何度も修正を繰り返してきたからだろう。ボツになった企画、伸びなかった連載、更新のたびに数字を見て胃を痛めた夜。うまくいかなかった経験が、こんなところで役に立つなんて思ってもみなかった。


「ユイ様」


リゼットが一枚の紙を持ち上げた。それは、私が今朝検証に使ったものではなく、もっと古い、転生直後に書いた断片だった。『ユイは、魔力を指先に集めることができた』。最初の成功。最初の震え。最初の“書いたことが現実になる”という確信。


「この能力、正確には何だと思いますか」


問われて、私は少し黙った。答えられるほど理解しているつもりはない。だが、今の時点での仮説ならある。


「物語の改変、って言い方はたぶん雑すぎる。もっと近いのは……世界が受け取る“説明文”を差し込んでる感じです」


リゼットの眉がわずかに上がる。私は言葉を続けた。


「本来この世界には、自然に流れていく筋道がある。誰がどこで何をして、どういう順番で出会って、どういう事件が起きるか。私はそこに後から文章を差し込むことで、結果を別の方向に寄せてる。でも、全部を自由に作ってるわけじゃない。世界の側にも“元の流れ”があるから、無理な書き換えには押し返しが来る」


「なるほど」とリゼットは短く答えた。「つまり、世界には“抵抗”がある」


「そう。しかも、その抵抗はたぶん均一じゃない。軽い描写なら通る。でも、根幹に近いものほど重い」


「根幹?」


私は頷いた。「登場人物の本質とか、大きな運命とか、この世界の成立そのものとか。そういうものに触ろうとすると、たぶん今の私じゃ耐えられない」


そこまで言って、私はふと口を閉じた。本当にそうだろうか。今の私では、耐えられない“だけ”なのか。それとも、そもそも触れてはいけないのか。書き手としての本能が、危険と好奇心の両方を刺激してくる。


そのとき、廊下を駆ける足音が聞こえた。慌ただしい。次いで、乱暴なノック。返事をするより先に扉が開き、侍女の一人が青ざめた顔で飛び込んできた。


「ユイ様、大変です。北棟の書庫で……!」


書庫。その言葉に、私はリゼットと視線を交わした。嫌な予感が、同時に胸に差し込む。


「何があったの」


「本が、勝手に……いえ、紙が空中を舞って、文字が壁に浮かんで……閉じ込められた方も……!」


言葉が途中で乱れ、侍女は息を切らす。私は椅子を引くように立ち上がった。書庫。文字。紙。そんな現象が偶然起こるはずがない。私が今朝までここで検証をしていたことと、何かしら無関係ではないだろう。


「案内して」


短く言うと、侍女は慌てて頷いた。リゼットもすぐに後ろにつく。廊下を走りながら、私は内心で何通りも可能性を巡らせた。私の能力は原則として、私が書いたものが現実になる。だが、第六話以降、もう一つ気になっていることがある。書いた結果が“世界に残留”することがあるのではないか、ということだ。つまり、一度差し込んだ説明が局所的な歪みを生み、その歪みが別の現象を連鎖させる。もしそうなら、私はただ事象を変えているだけではない。物語の地盤そのものを緩めていることになる。


北棟の書庫に近づくにつれ、空気が変わっていくのがわかった。冷たいわけでも熱いわけでもない。だが、文字通り“落ち着かない”空気だ。ページをめくる直前の紙のざらつきに似た気配が、通路全体に満ちている。扉の前には数人の使用人が立ち尽くし、中に入れずにいた。私が近づくと、一人が震える指で扉の隙間を示した。


「中で……本が話してるんです」


冗談なら笑うところだが、誰一人笑っていない。私はゆっくりと扉を押し開けた。


書庫の中は、静かな狂気に満ちていた。棚から抜け落ちたページが無数に宙を舞い、それぞれに書かれた文字が剥がれ、黒い粒のように空中へ漂っている。そして、その粒が壁に集まり、文章を形作っていた。いや、文章というより――断片だ。誰かの台詞、地の文、説明文。私の記憶の底にひっかかるフレーズも混じっていた。『銀の瞳は朝露のように揺れた』。『王都北棟の書庫には、禁じられた記録が眠っている』。『彼女がページをめくるたび、運命は薄く裂けていく』。


「……私の文章」


思わず漏れた声に、リゼットが反応した。「あなたの?」


「たぶん……没にした下書きの文も混じってる」


それが何を意味するのか、理解した瞬間、背筋が粟立った。私はこの世界に“完成原稿”だけを持ち込んだわけじゃない。書いたことがあるもの、考えたことがあるもの、捨てた文章の断片まで、どこかで世界に接続されている。もしそうなら、この世界は私の代表作の中にあるのではなく、私の“創作の総体”に触れ始めている。


「閉じ込められた方はどこ?」


侍女の言葉を思い出して私は周囲を見渡した。すると書庫の奥、崩れた棚の向こうに小柄な影が見えた。若い少年だ。年の頃は十四、五ほど。栗色の髪に丸眼鏡、両腕には本を抱え込んだまま、半ば呆然と壁際に座り込んでいる。棚の前には、宙に浮いた文字が幾重にも連なって膜のようなものを作っていた。


「あの子か」


私は一歩踏み出しかけて、止まる。文字の膜はただの障壁ではない。よく見ると、文章が絶えず組み替わっている。『近づく者は拒まれる』。『この記録は選ばれし者のみが読む』。『無断閲覧を禁ず』。命令文が防壁化している。つまり、ここでも“言葉”が現実を規定している。


「下手に触ると反発します」とリゼットが言う。「どうしますか」


どうする。単純に“消す”と書けば重い。完全な無効化は反動が大きいだろう。なら、世界の抵抗と正面衝突せず、条件をずらす。私は一度深く息を吸い、紙を取り出した。焦るな。正確に。軽く。今この場に必要な分だけ。


『壁の文字は、ユイとリゼットと書庫係の少年を拒まない』


書く。発動の感覚が指先から伝わる。文字の膜が一瞬ざわつき、組み替わる。そして、私たちの前だけが静かに開いた。重い痛みは来ない。限定した対象と効果が功を奏したのだろう。


「行くよ」


私は少年のもとへ駆け寄った。彼は顔を上げ、怯えと驚きの入り混じった目で私を見る。書庫係なのだろう。制服の襟元には、小さな銀の栞を模した徽章がついている。


「怪我は?」


「だ、だいじょうぶ……です。でも、本が、本が勝手に喋って……」


「落ち着いて。名前は?」


「ノエル……です。北棟書庫の補佐を……」


新しい名前。新しい役割。私は心のどこかで、また原作との差異を数えていた。こんな少年は、少なくとも表に出る設定にはいなかった。だが今は、その違和感を喜んでいる場合じゃない。


「ノエル、ここで何を見つけたの」


問うと、彼は腕の中の一冊を見た。古びた革表紙の本だ。妙にいやな気配がする。


「奥の禁書棚で……目録にない本を見つけて、開いたら……最初のページに、“作者注記”みたいなものが……」


作者注記。その言葉に、全身の血が逆流するような感覚が走った。私は少年から本を受け取った。表紙には題名がない。留め金を外し、慎重に一ページ目を開く。そこに記されていた文字を見た瞬間、呼吸が止まりかけた。


――『この章は、まだ採用するか未定。ヒロインの出番を前倒しにする場合、ユイをここで書庫に行かせる』


私の字だった。


いや、正確には、現世で私がプロットメモに打った文面そのものだった。採用しなかった展開案。アリアの登場を早め、書庫で秘密を掴ませるための没案。そんなものが、なぜ今ここに本として存在しているのか。


「……まさか」


私はページをめくる。すると次のページには、もっと断片的なメモが並んでいた。『アリアは“別の作者”を知っている?』。『現実世界とのリンクをどこで出すか検討』。『ユイの家族パートは重くなりすぎない程度に挿入』。そこまで読んだところで、視界がぐらりと揺れた。


映像が流れ込む。


蛍光灯の白い光。狭いワンルーム。散らばった資料。ノートパソコンの画面。見覚えのあるマグカップ。現世の、私の部屋だった。机の上には書きかけの原稿が開いたままになっていて、スマホが何度も振動している。画面に表示された名前は、「真理」。大学時代からの友人で、デビュー前から私の愚痴を聞いてくれていた数少ない人だ。続いて着信履歴に「母」。そしてメッセージ通知のプレビューが見えた。


――『あんた、締切前に逃げるタイプじゃないでしょ。連絡して』


次の瞬間、場面が切り替わる。別の部屋。実家の居間。母がスマホを握って落ち着かない様子で立ち尽くし、向かいのソファでは高校生の弟がテレビを消して何か言っている。音は遠くて聞こえない。でも、表情だけでわかる。不安だ。心配している。


「っ……!」


私は反射的に本を閉じた。視界が元に戻る。書庫。散らばる紙。ノエルの怯えた顔。リゼットの鋭い視線。


「今、何を見たんです」


問いかけられても、すぐには答えられなかった。心臓が速い。手が震える。現世。私は確かに今、現世の断片を見た。ただの回想じゃない。今この瞬間に起きている“向こう側”を、覗いた感覚だった。


アリアの笑い声が聞こえたのは、そのときだった。書庫の高い窓辺、いつの間にか彼女が腰掛けていた。銀髪を朝の光に透かせ、まるで最初からそこにいたみたいな顔で。


「見えました?」


私は睨む。「あんた、知ってたの」


「ええ、だいたいは」


アリアは足を組み、愉快そうに首を傾げる。「この世界は、こっちだけで完結してないんですよ。あなたがこちらで書けば、向こうにも余波が出る。向こうで未練や空白が強ければ、こっちにもひずみが返ってくる。単純な話でしょう?」


単純なわけがあるか、と怒鳴りたかった。だが、喉がうまく動かなかった。もし本当にそうなら、私がここで生き延びようとして書くたびに、現世にも何かが起きているかもしれない。原稿が勝手に更新される、誰かが夢を見る、私の失踪がただの失踪では済まなくなる。家族も、友人も、巻き込まれるかもしれない。


「……何が起きてるの、向こうで」


アリアはすぐには答えなかった。代わりに、ふわりと窓から降りる。書庫に散った文字が、彼女の周囲だけ静かに道を空ける。まるで彼女がこの“文字の乱れ”に愛されているみたいに。


「起き始めてますよ。あなたの未公開プロットが現世のファイルに増えてたり、消したはずの設定メモが誰かの目に入ったり。まだ小さいけど、そのうち、物語と現実の境目がもっと薄くなる」


「どうしてそんなことが起きるの」


その問いに、アリアは初めて少しだけ真面目な顔になった。


「作者が、こちら側に来たからです」


短い答えだった。けれど、重かった。


「本来、物語を書く側は外にいるべきなんです。外から眺め、外から決め、外から終わらせる。でもあなたは中に落ちた。だから、外と内が繋がったままになった」


リゼットが低く口を挟む。「つまり、二つの世界の境界が不安定になっていると」


「そういうことです、調査官さん」とアリアは笑う。「そして面白いのは、境界が薄くなるほど、私も強くなる」


私は息を止めた。「……どういう意味」


アリアは一歩、こちらに近づく。瞳の奥に、あの夜より深い光があった。


「私はヒロインですから。読まれるほど、語られるほど、必要とされるほど、形が濃くなる。あなたが現世とこの世界を繋げてしまったせいで、私は“作品の中のヒロイン”じゃなくなりつつある。向こうの読者の視線にも、まだ触れられるようになってきてる」


ぞくり、とした。アリアが育つ。強くなる。単に戦闘力や魔法が増えるという意味じゃない。存在としての密度が増すのだ。彼女がもし“ヒロイン”であることそのものを力に変え始めたら、私の知るどんな展開より厄介になる。


「じゃあ、止める方法は」


私の問いに、アリアは笑みを消した。


「ありますよ。でも、あなたが一番やりたくない方法です」


「何」


「書かないこと」


その答えは、あまりにも残酷で、あまりにも正しい。書かなければ改変は進まない。改変が進まなければ世界のひずみも広がらない。けれど、書かなければ私はこの世界で弱いままだ。生き残れない。アリアに対抗もできない。そして何より――書かずにいることは、たぶん私にとって死ぬより苦しい。


「無理」


即答していた。アリアは満足そうに笑う。「知ってます」


その瞬間、書庫の奥でまた文字がざわめいた。禁書棚のさらに奥、暗い通路の先から、低く軋むような音がする。ノエルがびくりと震え、私の袖を掴んだ。「まだ……あるんです。あっちに、もっと変な本が」


リゼットが前に出る。「確認します」


私は頷き、本を抱え直した。ここで尻込みするわけにはいかない。現世のことが見えた今、むしろ後戻りはできなくなった。家族も友人も、私の知らないところでこの異常の影を受け始めているなら、原因を掴まないといけない。自分のためだけじゃない。


書庫の奥へ進むにつれて、空気はさらに濃くなる。ノエルが小声で説明した。彼はもともと記録魔法に強く、古文書の修復を任されていたこと。だが今朝、普段は鍵のかかっているはずの棚が開いていて、この無題の本を見つけたこと。開いた途端、文字が散り、書庫全体が乱れ始めたこと。つまり彼は被害者であり、同時に“発見者”でもある。私は彼を見た。怯えてはいるが、目の奥には好奇心が消えていない。危ないタイプだ。けれど、こういう人間は味方にすると強い。


「ノエル」


「は、はい」


「今後も変な本を見つけたら、勝手に開かないで。まず私に見せて」


彼は目をぱちぱちさせたあと、少しだけ真面目な顔で頷いた。「……わかりました。でも、見つけたくなると思います」


「でしょうね」


思わず苦笑する。そういう意味でも、この少年は書庫に向いている。


奥の通路の先には、小さな閲覧室のような空間があった。円卓が一つ、その上には閉じた本が三冊。そして、壁一面にびっしりと文字が浮かんでいる。その中に、一つだけ、やけに新しい書体が混じっていた。現世で私が使っていた、パソコンの明朝体に近い整った文字。


――『第九話で、現世の断片を見せる。家族と友人の不安を挟む。ヒロインはここで一段強く見せる』


血の気が引いた。これはメモじゃない。今まさに起きたことの説明だ。つまり、この部屋には“この先の展開”が断片的に先取りされている。


「……誰が書いたの」


問いは、半ば独り言だった。だが、その答えは思いがけない方向から返ってきた。


「わたしだと思ってたんですけどね」


アリアが、珍しく曖昧な声で言った。


「違うの?」


「違います。少なくとも、今の私はここまで露骨には書かない」


その言い方に、私ははっとした。今の私は。つまり彼女も、変化している。最初からすべてを知っていたわけではないのかもしれない。彼女もまた、“育っている”途中なのだ。ヒロインとして、物語そのものに近い存在として。


「じゃあ、誰が」


アリアは壁の文字に触れかけて、やめた。指先がわずかに震えていた。


「……もう一人います」


静かな声だった。


「作者じゃない。でも、読者とも違う。物語の外にいて、内側をいじれる誰か。たぶん、あなたが来る前から」


書庫の空気が一段重くなる。リゼットは剣の柄に手をかけ、ノエルは息を呑む。私は、胸の奥で別の震えを感じていた。恐怖だけではない。物語が、一段深くなった手応えだ。私が自分の小説に転生しただけだと思っていた世界は、もうとっくにその枠を超えている。現世との接続、没案の具現化、成長するヒロイン、そして“もう一人”の介入者。ここから先は、単純な生き残りでは足りない。私はこの世界の構造そのものを暴かなくてはいけない。


私は紙を取り出した。迷いはあった。書けば、また世界は動く。向こうにも余波が及ぶかもしれない。それでも、立ち止まれない。


『閲覧室の文字は、今この場にいる四人にだけ真実を示す』


書いた瞬間、頭の奥が鈍く軋んだ。重い。けれど、耐えられないほどではない。壁の文字がざわりと組み替わる。そして、浮かび上がった。


――『まだ名前は明かせない。だが、現世では“続き”が更新され始めている』


私は息をのんだ。


現世で、続きが更新される。


私がここにいるのに。


母と弟、友人の真理。誰かがその更新を見て、何を思うだろう。私が消えたのに原稿だけが進んでいく。その不気味さ、その不自然さ。その先に何が起きるのか、想像するだけで胸が締めつけられる。


でも同時に、私は理解した。向こうは終わっていない。私がいなくなって空白になっただけではなく、物語は現世でも動いている。ならば、いつか干渉できるかもしれない。家族や友人に、何かを届けられるかもしれない。


「ユイ様」


ノエルの声で我に返る。彼は壁の文字を見つめたまま、小さく言った。「これ、すごく危ない気がします。でも……すごく、読みたいです」


私は彼を見た。たぶんこの少年は、これから深く関わる。記録と文字に引かれる資質を持ち、危険を危険として理解しながら、なおページをめくってしまう側の人間だ。書庫係補佐ノエル。新しい登場人物として、十分すぎるほど魅力的だった。


「わかる」と私は答えた。「でも、読む順番は選ばないと死ぬ」


するとアリアが、小さく笑った。「いい仲間が増えましたね、作者様」


その言い方に私は眉をひそめる。「仲間って決めつけないで」


「でも必要でしょう?」とアリアはさらりと言う。「あなた一人じゃ、もう抱えきれない」


反論できなかった。現世まで視界に入った今、私一人の頭とペンだけでは限界がある。リゼットの観察眼、ノエルの記録知識、そして――認めたくはないが、アリアの“物語側”としての感覚。利用できるものは、利用しないといけない。


私はもう一度、壁の文字を見た。向こうでは続きが更新され始めている。こちらでは物語がひずみを増している。そしてヒロインは育ち、もう一人の介入者が影を落としている。世界は確実に広がった。深く、危険に、面白く。


「次は」と私はゆっくり言った。「現世に届く方法を探す」


リゼットが静かに頷き、ノエルは目を見開き、アリアだけが楽しそうに笑った。


「いいですね」と彼女は言う。「やっと、“物語の外”を見始めた」


その言葉を聞きながら、私は胸の奥で静かに決めた。ただ生き残るだけじゃない。現世にも届く。家族にも、友人にも、この異常を終わらせるための糸口を残す。そして、そのためにも――まずはこの世界で、勝つ。


円卓の上の閉じた三冊の本が、同時にかすかに震えた。まだ開いていない新しい扉が、ここに三つある。その事実だけで、物語はさらに先へ進めるとわかった。私はペンを握り直す。書くたびに世界は揺れる。それでも、書く。書かずにいられないからではない。もう、それでしか守れないものがあるからだ。


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