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「自分の書いた小説に転生したのに、設定が崩壊してるので“書き換え”ながら生き残ります」―作者なのにヒロインに殺されかけてます―  作者: 百花繚乱


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第五十二話 「確定の重さ」

 第二閲覧室を出たあとの廊下は、静かすぎて気味が悪かった。


 北棟の奥はもともと人の気配が薄い。けれど今日は、その薄さがいつもと違う。誰もいないのではなく、皆がどこかで息を潜めているような静けさだった。書庫の壁に沿って並ぶ燭台の火は揺れていないのに、空気だけが微妙に落ち着かない。未送信文の保存箱を開いた直後だからかもしれないし、開いたことで何か別の層に触れてしまったからかもしれない。


 私は小会議室へ向かう途中、一度だけ立ち止まった。


 すぐ後ろを歩いていたリゼットが、何も言わずにこちらを見る。追及の目ではない。状態確認の目だ。そういうところがこの人らしいと思う。感傷的に肩を抱くこともしなければ、平気なふりを強要もしない。ただ、「今、どこまで持つのか」を測る。


「……大丈夫」


 先に言うと、リゼットは数秒だけ私を見て、それから短く頷いた。


「なら歩いてください。立ち止まる方が危ない」


「厳しいな」


「甘くすると崩れるでしょう」


 その通りだった。私は苦笑して歩き出す。


 その少し後ろでは、ノエルが大事そうに記録台を抱えながら、しかし露骨にそわそわしていた。彼はこういう時、頭と心の両方が忙しいのがわかりやすい。記録したい。整理したい。でも、さっき見たものの生々しさがまだ整理を拒んでいる。たぶん今の彼の頭の中では、「未送信文の保存箱は対象の未送信を引き寄せる」という綺麗な一文と、「アリアが、必要とされなくなったら私は何になるのと書いていた」という綺麗では済まない事実が、同じ重みでぶつかっている。


 セオドアは前を歩いていた。歩幅も速度も一定で、外から見る限りではさっきと何も変わっていない。けれど、あの男が本当に何も変わらないときは、たぶん逆に危険だ。彼は変化を感情で処理しない代わりに、全部いったん構造へ落とし込む。落とし込めるものが増えるほど、口数が減る。


 一方で、アリアは私の少し右を歩いていた。


 普段なら勝手に窓際へ消えたり、少し前に出てこちらを振り回したりするくせに、今は妙に近い。それが気まずい。いや、気まずいという言い方も少し違うかもしれない。近いまま互いに踏み込めずにいる感じだ。さっき見てしまったものが、まだ二人の間に置かれている。


 未送信文の保存箱が引き出した、アリアの一文。


 ――『必要とされなくなったら、私は何になるの』


 あれは酷かった。酷いというのは、弱いとか陳腐だとか、そういう意味ではない。むしろ逆だ。あまりにも、その人の核に近いから酷い。役割の外へ落ちた言葉は強い。アリア自身が言った通りだ。そして彼女は、役割に最も近いところで生きている。だからこそ、その外へこぼれた言葉は、たぶん私のものよりずっと危険だ。


 小会議室へ入ると、セオドアが最初に扉の内側へ封鎖式の札を貼った。ぱし、と乾いた音。見た目には薄い紙片なのに、貼られた瞬間に部屋の空気が少しだけ引き締まる。


「一時的に外部への漏れを止める」


 彼はそう言ってから、長机へ銀板と記録用紙を広げた。


「未送信文の保存箱は第二閲覧室に再封印した。だが、開いたことで内部の“意味流”が一度外へ触れている。影響が残る可能性がある」


「意味流って、便利な言葉ですね」


 アリアが言う。調子はだいぶ戻っていた。戻している、の方が正確かもしれない。本人の意地だ。


 セオドアは気にせず続ける。


「便利だ。正確に名前を付けられないものに仮の名を与えるのは、研究において必要な段階だからな」


「で、その便利な何かが残ると、どうなるんです?」


 今度は私が問う。


 彼は銀板の表面を指でなぞった。淡い文字列が流れている。


「一度外へ出た未送信は、確定しないまま場に留まりやすい」


「確定しないまま?」


 ノエルが反応する。やはりそこを拾うか、と思った。


「未送信文の保存箱の中にある間は、“届かなかったもの”として保管されている。閉じた状態だ。だが、一度開かれると変わる。誰かに見られ、意味を持たされ、けれどまだ届いていない。つまり――」


「途中の言葉になる」


 私が言うと、セオドアはわずかに頷いた。


「そうだ。途中の言葉は厄介だ。届いたわけでも、消えたわけでもない。だから場に残る」


 その説明は、痛いくらい理解できた。


 途中の言葉。

 言ってしまったわけでも、飲み込めたわけでもないもの。

 消してしまえないくせに、完了もしていないもの。


 それはきっと、言葉として一番重い。


「……じゃあ」


 ノエルが記録用紙の端を押さえながら、慎重に口を開いた。


「さっき出てきた紙片の内容って、まだこの辺に残ってるんですか……?」


 誰もすぐには答えなかった。


 その沈黙が答えみたいなものだった。


 私は椅子に腰を下ろす。木の座面が思ったより冷たい。頭の奥はまだ少し重く、さっきから視界の隅に白いちらつきがある。書いていないのに疲労が強いのは、箱を開く前から見すぎていたからか、それともアリアの一文まで見てしまったからか。


 ふいに、窓際の空気が揺れた。


 全員がそちらを見る。


 鏡の担い手が、いつの間にかそこにいた。


 相変わらず、出現が自然すぎて不自然だ。この存在は入ってくるというより、「そこにいることが遅れて認識される」に近い。灰色の髪も、無機質に整った顔立ちも、印象が薄いわけではない。むしろ逆で、見れば見るほどこちらの感情だけが映し返されていく感じがする。だから私は、この人の前では少し落ち着かない。


「残っている」


 鏡の担い手は、それだけ言った。


 ノエルが小さく身を強張らせる。


「や、やっぱり……」


「どの程度」


 セオドアが問うと、鏡の担い手は一拍だけ黙り、それから答えた。


「強い」


 ありがたくない簡潔さだった。


「具体的には」


 今度はリゼットが促す。


 鏡の担い手は部屋の中央を見る。何もない場所を、ただ同じ重さで見ているように見える。


「今この部屋には、三つの未確定がある」


 その言葉に、私の背筋が冷えた。


「三つ?」


「一つは、箱から出た最初の紙片。誰のものとも定まっていない“聞けばよかった”」


 あの一文だ。

 私は無意識に机の縁を握る。


「二つ目は、ユイの未送信」


「家族パートは重くしすぎると本筋が鈍る、ですか」


 アリアが言う。少し乾いた声だった。


 私は頷けなかった。あれはただのメモだ。現世の私が、物語の扱いとして家族を切り分けようとした痕跡にすぎない。けれど、その冷たさがそのままこちらへ返ってきているのが苦しい。


「三つ目は」


 鏡の担い手の視線が、ゆっくりとアリアへ向く。


「ヒロインの未送信」


 部屋の空気が、また少しだけ沈んだ。


 アリアは顔色一つ変えなかった。変えなかったけれど、その沈黙は明らかに受け止めている沈黙だった。


「で、それが強いとどうなるの?」


 私は聞く。聞かなければ、この場の重さに押し潰されそうだった。


 鏡の担い手は、ほんの少しだけ首を傾ける。


「観測が偏る」


「またそれか……」


 私は額を押さえる。最近ずっとそれだ。観測、偏り、確定。理屈はわかる。わかるけれど、人間の感情をそんな簡単な単語で処理しないでほしいという気持ちもある。


 セオドアが補足した。


「強い未確定が場に残ると、人はそこを見ようとする。見れば意味が強化される。強化されれば、他の可能性より先に確定へ近づく」


「つまり」


 リゼットが言う。


「放置すると、勝手に“何かが決まる”」


「そうだ」


 その一言は重かった。


 未送信は本来、届いていないから未送信なのだ。届かなかったことそのものに意味がある場合すらある。なのに、この場に残しておけば、誰かが見て、誰かが意味を強くし、誰かにとって都合のいい形で勝手に固まっていく。


 それは駄目だ、と思った。


 駄目だというのは感情的な拒絶だけではない。構造として危険だ。さっきまで箱の中にあった未送信が、勝手に届いたことにされるかもしれない。あるいは、本来違う相手へ向かっていたはずのものが、別の相手へ向いたことになるかもしれない。


「……確定って、そんなに重いんだ」


 ノエルの呟きが、妙に静かに響いた。


 その言葉に、セオドアも、リゼットも、アリアも、誰も軽く答えなかった。


 代わりに、私は自分の手元を見た。


 書いて確定させる。

 観測して確定させる。

 あるいは、見すぎることで勝手に確定へ寄っていく。


 この世界に来てから、私はずっと「変えられる」側の感覚に引っ張られていた。けれど、本当はその逆だ。変えるということは、他のものを閉じるということだ。残したいものが多いほど、決めることは重くなる。


「……ユイ」


 アリアが不意に私を呼んだ。


 顔を上げると、彼女は机の向こうではなく、少しだけ私の近くに立っていた。いつの間に移動したのか、本当にわからない。


「何」


「さっきの、気にしてます?」


 何を指すのかはわかっていた。


 箱から出た、彼女の未送信。


 必要とされなくなったら、私は何になるの。


「してるよ」


 正直に言うと、アリアは少しだけ目を細めた。


「そうでしょうね」


「そりゃするでしょ」


「見すぎです」


 またそれだった。けれど今は、少しだけ違う意味に聞こえる。


「でも、しますよ」とアリアは続けた。「あなた、見たらそのままにできないでしょう。見て、考えて、勝手に責任を背負って、勝手に重くなる」


「悪口?」


「事実です」


 少しだけ間があく。


 私は椅子に座ったまま、彼女を見上げた。こういう構図になると、アリアはいつも以上にヒロインらしく見える。見上げる側の都合でそうなるのか、それとも彼女が本当にそういう位置に立つべき人間なのか、最近はもうわからない。


「でも」


 アリアは、そこでほんの少しだけ言葉を選んだ。


「だから、変に優しくしないでください」


 私は瞬きをする。


「……どういう意味」


「意味そのままです」


 彼女は視線を逸らさない。


「さっき見たからって、“ああ、この子は本当はそういう不安を抱えていて”とか、“だから守らなきゃ”とか、急にそういう顔しないでください」


 胸の奥がぎくりとした。図星だった。


 たしかに私は、あの一文を見た瞬間、アリアを以前より“脆いもの”として見かけていたかもしれない。危険なヒロインではなく、傷つく個人として。もちろんそれ自体が悪いとは思わない。でも、彼女にとっては違うのだろう。


「私はそれでもヒロインです」


 アリアの声は静かだった。


「役割の中にいるのも本当。そこから外に落ちた言葉があるのも本当。でも、見たからって、どっちか一つだけにしないでください」


 私は何も言えなかった。


 それは難しい要求だった。けれど、正しいとも思った。未送信の一文はその人の核に近い。でも、その一文だけがその人の全てになるわけじゃない。役割も、外に落ちた感情も、どちらも本当だ。どちらかだけにすれば、たぶんそれもまた“勝手な確定”になる。


「……わかった」


 しばらくして、ようやくそれだけ言う。


 アリアはほんの少しだけ息を抜いた。


「ならいいです」


 リゼットが、そのやり取りを黙って見ていた。やがて彼女は視線をセオドアへ戻す。


「対処を決めましょう。未確定を場に残せないのなら、今ここで方針を定めるべきです」


「消去は避けたい」


 セオドアは即答した。


「未送信を消すと、今度は“なかったこと”になりかねない。そうなると痕跡の追跡も困難になる」


「じゃあ封印?」


 ノエルが聞く。


「一時的には可能です」とセオドアは言った。「だが根本解決ではない」


 私はそこで、ふいに別のことを思った。


「ねえ」


 全員がこちらを見る。


「確定って、重いんだよね」


「そうだ」


「だったら、軽く確定することはできない?」


 セオドアが眉を動かす。リゼットも、ノエルも、アリアも黙る。


 私は言葉を探しながら続けた。


「全部を決めるんじゃなくて……たとえば、“これはまだ届いていない言葉だ”ってことだけを固定するとか」


 セオドアの目が少しだけ鋭くなった。興味を持ったときの目だ。


「なるほど」


「意味の中身じゃなくて、状態だけを確定する」と鏡の担い手が言った。


「できる?」


 私が問うと、セオドアは数秒考えてから答えた。


「理論上は可能だ。内容ではなく位相を固定する。つまり、“未送信であること”だけを確定させる」


 ノエルが目を丸くする。


「そんなこと……」


「簡単ではない」とセオドアは言う。「だが今の状況では合理的だ。内容を勝手に進ませず、消去もせず、場から暴走性だけを奪える」


 リゼットが短く頷いた。


「やる価値はある」


「ユイ」


 アリアが私を見る。


「今度は、見すぎないで書けますか?」


 挑発のようにも聞こえる問いだった。でも本当は、確認なのだろう。さっきの箱の前で、私はすでに意味を詰め込みすぎていた。今また同じことをしたら、未送信を固定するつもりが、どれか一つを勝手に選ぶことになる。


 私は深く息を吸った。


「……やる」


 紙を引き寄せる。ペンを持つ指先が少しだけ震える。疲労はまだある。頭痛も残っている。でも、この震えは痛みよりも別のものだ。確定の重さを、さっきよりはちゃんと知ってしまったせいだ。


 何を書くべきか。

 内容ではなく、状態。

 意味を固定せず、未送信であることだけを定める。


 曖昧すぎれば暴走する。

 重すぎれば、別の何かまで閉じる。

 精度と重さ。その綱渡り。


 私は、ゆっくりと書いた。


 ――この場に残る三つの未送信は、まだ誰にも届かないまま留まる。


 書き終えた瞬間、空気が少しだけ軋んだ。


 重い。

 けれど、耐えられないほどではない。


 銀板の表面が一斉に淡く光る。ノエルが息を呑む。鏡の担い手は目を閉じずに見ている。アリアは何も言わない。リゼットの手は剣から離れていない。


 数秒後。


 部屋の中央に、白く薄い三つの点が浮かんだ。


 一つは、誰のものとも定まらない“聞けばよかった”。

 一つは、私の“家族パートは重くしすぎると本筋が鈍る”。

 一つは、アリアの“必要とされなくなったら、私は何になるの”。


 それらは紙片の形ではなかった。もっと曖昧な、光とも霧ともつかない存在だ。けれど、先ほどまでの不安定な生々しさは消えている。届いていない。まだ途中。けれど、勝手に進みもしない。まさに“留まっている”。


「……成功か」


 セオドアが低く言う。


 鏡の担い手は短く頷いた。


「暴走は止まった」


 ノエルが、ほっとしたように肩を下ろした。


「よかった……」


 その声を聞いた途端、私の頭の奥で遅れて痛みが来た。


「っ……」


 思わず机へ手をつく。大きな痛みではない。だが、鈍く深い。軽く確定する、と考えていたわりに、やはり確定は確定なのだと身体が教えてくる。軽い固定でも、世界の側から見れば十分に重いのだろう。


 リゼットがすぐに近づいた。


「無茶をした自覚は?」


「いつものこと」


「笑えません」


 いつも通りの返しなのに、少しだけ安堵が混じっているのがわかった。


 アリアは三つの光を見ていた。とくに自分の未送信に。彼女は手を伸ばさない。ただ、その場にあることを認めるように見ている。私はその横顔を見て、さっきの言葉を思い出した。


 どっちか一つだけにしないで。


 たぶん今のこれは、そのための第一歩だ。役割の外に落ちた言葉を、勝手に届いたことにしない。でも、なかったことにもせず、ここにあると認める。


「……ねえ」


 アリアが、三つの光を見たまま言った。


「これ、いつか届くんでしょうか」


 誰にともなく発せられた問いだった。


 セオドアは理論で答えそうになり、たぶん途中でやめた。鏡の担い手は何も言わない。ノエルは口を開いて閉じる。リゼットも、すぐには答えない。


 私は少し考えてから答えた。


「届くかもしれないし、届かないかもしれない」


 アリアがわずかにこちらを見る。


「でも」


 私は続ける。


「届いてないものとして、ここに残しておくことはできる」


 それは綺麗な救いでも何でもなかった。確約もない。解決でもない。けれど、今の私たちに言える一番ましな答えだった。


 アリアは少しだけ目を細め、それからふっと笑った。


「曖昧ですね」


「そうだね」


「でも、前よりましです」


 その言い方に、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 未送信文の保存箱は、ただ接続の道具ではなかった。こちらの側に溜まった未確定を暴き、その重さを見せつける道具だった。そして、確定とは何かを改めて突きつけてくる道具でもある。


 届かないまま留める。

 それは逃げではなく、たぶん責任の別の形だ。


 部屋の中央に浮かぶ三つの光は、まだ小さく揺れていた。けれど、さっきまでの危うさとは違う。勝手にこちらへ刺さってくる棘ではなく、ちゃんと距離を持ってそこにある。


 私はそれを見ながら思う。


 この物語で一番重いのは、派手な改変や大きな戦闘じゃないのかもしれない。

「まだ届いていない」と認めること。

「それでも消さない」と決めること。

 その方がずっと、重い。


 そして、その重さを知った先でしか、たぶん次の接続は本物にならない。


 窓の外では、夕方に向かう光がゆっくり薄くなり始めていた。

 その変化を、誰もすぐには口にしなかった。


 今はまだ、この三つの未送信が、勝手に夜へ飲まれていかないように見ている方が大事だったからだ。


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