第四十九話 「全部選べばいい」
崩れる音は、遠くのもののはずだった。
それでも書庫の空気は、その振動を確かに受け取った。石が割れる乾いた響きではない。もっと曖昧で、境界そのものが裂けるような音。遠くで起きたはずの出来事が、ここにも同時に存在しているかのような、嫌な連動。
ノエルの手が止まる。
開いた本の上で、ペン先がわずかに震えた。彼が書き留めているのは、三つに重ねられたリゼットの状態。踏み込む、止まる、後退する。それらを一つとして記録し続けることで、この場の均衡は保たれている。
だが――
「……増えてる」
ノエルの声がかすれた。
「何が」
ユイが問う。
「分岐……この本、さっきより重くなってます……」
ユイは一歩近づき、ノエルの手元を覗き込んだ。
ページが増えている。
書いた覚えのない行が、すでに存在している。
――中央広場にて、衝突発生(複数結果併存)
――南区にて、避難成功/避難失敗が同時記録
――王都外縁、未確認の侵入/侵入なしの両立
「……書庫の外でも、同じことが起きてる」
セオドアが低く言う。
「分岐は局所ではない。全体に広がっている」
ユイの背筋に、冷たいものが走る。
(……やっぱり)
ここだけを安定させても、意味はない。
世界全体で、同じ現象が起きている。
「つまり?」
リゼットの声は短い。
「この方法を、すべての分岐に適用する必要がある」
セオドアの答えは明確だった。
ノエルが顔を青ざめさせる。
「そんなの……無理ですよ……!」
「現実的ではないな」
セオドアも否定はしない。
「観測者も、記録者も、足りない」
「そもそも時間が足りない」
リゼットが続ける。
「分岐は増え続けている。この速度では、いずれ追いつかない」
沈黙が落ちる。
それは、明確な“限界”だった。
ユイは、ゆっくりと息を吐く。
(……やり方はわかった)
だが、それを“広げる手段”がない。
このままでは、局所的な延命にしかならない。
そのときだった。
「じゃあ、全部やればいいじゃないですか」
軽い声が、空気を切り裂く。
鍵の担い手だった。
彼は、相変わらず楽しそうに笑っている。
「全部って……」
ノエルが呟く。
「全部ですよ」
鍵の担い手は肩をすくめる。
「全部の分岐を、全部そのまま残す」
「それができないって話してるんだけど」
ユイが苛立ちを抑えながら言う。
「人手が足りない。時間も足りない」
「人手も時間もいらない方法がありますよ」
その一言で、空気が変わる。
セオドアの視線が鋭くなる。
「……どういう意味だ」
鍵の担い手は、ゆっくりとユイを見る。
その目は、いつもより少しだけ深い。
「あなた、書けるでしょ?」
ユイの手が、わずかに止まる。
「……何を」
「“全部”」
その一言が、重く落ちた。
ノエルが息を呑む。
リゼットが、わずかに目を細める。
セオドアは何も言わない。
アリアだけが、静かにユイを見ている。
「……それ」
ユイはゆっくりと言った。
「どういう意味?」
鍵の担い手は笑う。
「そのままですよ」
一歩、近づく。
「全部の分岐を、“一つの物語”として書く」
ユイの心臓が、強く打つ。
(……無茶だ)
そんなこと、できるわけがない。
分岐は無数にある。
それを一つにまとめる?
矛盾だらけになる。
「無理だよ」
ユイは即答した。
「そんなの、物語にならない」
「なりますよ」
鍵の担い手はあっさり言う。
「だって今、そうなってるじゃないですか」
その言葉に、ユイは言葉を失う。
確かに――
今この世界は、矛盾を抱えたまま存在している。
複数の結果が、同時に成立している。
それでも、崩壊はしていない。
(……いや)
崩壊しかけている。
だが、完全には壊れていない。
「つまりね」
鍵の担い手は、楽しそうに言った。
「物語の定義を変えればいいんですよ」
セオドアが、わずかに反応する。
「定義の変更……」
「“一つの流れ”じゃなくて、“全部の流れ”を内包するものにする」
ユイの思考が、ゆっくりと回り始める。
(全部の流れを……一つに……)
それは――
「“並列の物語”……?」
ユイの呟きに、鍵の担い手が指を鳴らした。
「そう、それ」
乾いた音が響く。
「全部の分岐を、“同時進行の物語”として扱う」
ノエルが、震える声で言う。
「そんなの……読めないですよ……」
「読む必要ないでしょ」
鍵の担い手は笑う。
「存在すればいいんです」
その一言が、決定的だった。
読むための物語ではない。
存在するための物語。
「……それって」
ユイはゆっくりと言った。
「“世界そのもの”じゃない?」
鍵の担い手は、にやりと笑う。
「やっと気づきました?」
その瞬間、すべてが繋がる。
物語を書く。
それは、世界を定義すること。
ならば――
(全部を書けば、全部が残る)
観測しなくても、確定しなくても。
「……でも」
ユイは歯を食いしばる。
「それ、代償があるでしょ」
鍵の担い手は、少しだけ目を細めた。
「ありますよ」
その声は、初めて少しだけ重かった。
「“物語の消耗”」
ユイの手が、震える。
自分の能力の制約。
書けば書くほど、削れる。
存在が、薄れる。
「全部書いたら……」
ノエルがかすれた声で言う。
「ユイ、どうなるんですか……」
沈黙。
鍵の担い手は、答えない。
だが、答えは明白だった。
消える。
完全に。
「……それでも」
ユイは、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、迷いがあった。
だが同時に――
決意もあった。
「全部残せるなら」
アリアが、一歩前に出る。
「ダメです」
その声は、はっきりしていた。
全員が、彼女を見る。
銀の瞳が、真っ直ぐユイを射抜く。
「それは、“あなたがいない物語”になります」
その言葉に、ユイの呼吸が止まる。
「……でも」
「意味ないです」
アリアは、きっぱりと言った。
「あなたが消えたら、それはもう“あなたの物語”じゃない」
その一言が、深く刺さる。
ユイは、何も言えなかった。
(……そうだ)
全部残す。
そのために、自分が消える。
それは――
(本末転倒じゃん)
沈黙が落ちる。
重く、動かない空気。
その中で。
鏡の担い手が、静かに言った。
「選べばいい」
全員が振り向く。
「全部か、自分か」
その言葉は、あまりにも単純だった。
だが――
だからこそ、逃げ場がない。
ユイは、ペンを握りしめた。
選ぶしかない。
全部を残すか。
自分を残すか。
そのときだった。
「……違う」
ユイは、小さく呟いた。
鍵の担い手が、興味深そうに見る。
「何が?」
ユイは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、さっきまでと違っていた。
「二択じゃない」
空気が変わる。
「全部も、自分も、両方残す」
その言葉に、全員が息を呑む。
「そんなの……」
ノエルが言いかける。
だがユイは、止まらない。
「まだ、方法はある」
鍵の担い手が、にやりと笑う。
「……いいですね」
その声は、楽しそうだった。
「じゃあ、見せてくださいよ」
ユイは、ペンを構えた。
次の一文が、すべてを変える。
その瞬間。
世界が、わずかに揺れた。




