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「自分の書いた小説に転生したのに、設定が崩壊してるので“書き換え”ながら生き残ります」―作者なのにヒロインに殺されかけてます―  作者: 百花繚乱


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第13話「家族のいる場所」

夜が更けるほど、異世界の静けさは残酷になる。昼間は人の気配や書庫のざわめきや、リゼットの足音やノエルの落ち着かない声が、かろうじて思考の隙間を埋めてくれる。けれど一人になると駄目だ。真理から返ってきた断片的な言葉や、現世の部屋の光景や、母と弟の表情が、静かに、でも確実に胸の深いところへ沈んでいく。私は小会議室から与えられた仮の個室に戻ってからも、まともに眠れなかった。ベッドに入って目を閉じると、あの白い部屋の蛍光灯と、実家の居間の色合いが、まぶたの裏に滲んでしまうからだ。


この世界に来てから、私はずっと“生き残ること”を最優先にしていた。設定と違う。ヒロインが危険だ。能力がある。代償がある。世界が崩れている。そういう大きな問題の前では、現世のあれこれは、どこか後回しにしても許される気がしていた。いや、正確には、考えたら耐えられないから見ないようにしていたのかもしれない。家族のことなんて、とくにそうだ。真理には返事をしたいと思えた。彼女は私の書くことと直結していたからだ。でも母と弟は違う。私の“作者としての異常”とは、たぶん最も遠いところにいるはずだった。だからこそ、そこに思考が触れると、急に足元がなくなる。


私はベッドから起き上がり、机に置いてあった小さな灯りをつけた。淡い琥珀色の光が部屋の輪郭をゆっくり浮かび上がらせる。現世の安いデスクライトと違って、火を使わない魔導灯は明るさがやさしい。そのやさしさが、今は少しだけ腹立たしい。こっちは全然やさしい気持ちじゃないのに、部屋だけ穏やかな顔をしているからだ。


机の上には、昨日から使っている紙束とペン、それから真理のメモの断片がある。私はそれに手を伸ばしかけて、やめた。今は真理じゃない。たぶん、今考えるべきなのは別のことだ。そう思った瞬間、不意に窓の外で風が鳴った。反射的に振り向くと、窓辺に銀色の髪が揺れている。


「趣味悪い登場の仕方やめてくれない?」


私が言うと、アリアは窓枠に腰掛けたまま肩をすくめた。「ちゃんとノックしたら開けてくれるんですか?」


「開けない」


「でしょうね」


彼女はするりと部屋の中に降りてくる。夜の光の中だと、アリアの色はいつもより薄い。白に近い肌も銀の髪も、触れたら消えそうなくらい静かなのに、そこにいるだけで空気の密度が変わる。この子が“ヒロインに近い側の存在”だと言われるたび、私は少しずつ納得してしまう。人は目立つから中心にいるんじゃない。中心にいるから、場の空気まで変えてしまうのだ。


「寝ないんですか」とアリアは聞いた。


「そっくりそのまま返す」


「わたしは夜の方が頭が冴えるので」


「私は今、冴えてるんじゃなくて、無駄に起きてるだけ」


そう返すと、アリアは少しだけ笑った。でもその笑みは長く続かない。彼女はすぐ、机の上の真理のメモに目を落とし、それから私の顔に視線を戻した。


「現世のこと、考えてました?」


「考えてたら悪い?」


「悪くはないです」


少しだけ間があいてから、彼女は静かに続けた。「ただ、あまり長く見ると、引かれますよ」


またそれだ。十一話でも言われた“外へ返すほどこちらが薄くなる”という話。私は無意識に眉を寄せた。


「引かれるって、どこまで本当なの」


「かなり本当です」


「脅してる?」


「事実を言ってるだけです」


アリアは私の前の椅子に勝手に座った。こういうところは本当に遠慮がない。けれど、今はそれが少し助かった。誰かが部屋にいると、思考が溺れずに済む。


「……ねえ、アリア」


「はい」


「もし私が向こうのことを考えすぎて、こっちで崩れたら、あんたはどうするの」


自分でも妙な質問だと思った。敵に近い相手に聞くことじゃない。けれど、聞いてしまった。アリアは私をじっと見て、それから意外なくらいあっさり答えた。


「困ります」


「ずいぶん正直」


「だって困るでしょう。あなたが崩れたら、この物語、つまらなくなりますし」


「ひどいな」


「半分は本音です」


半分。つまり、半分は別の理由がある。そう思ったが、彼女はそれ以上説明しなかった。私も追及しなかった。今のアリアは、追えばすぐ逃げる気配をしていたからだ。


沈黙が落ちる。その沈黙の中で、私はゆっくりと一冊の本を取り出した。灰色の装丁の、救済案が封じられていた本ではない。さっき小会議室から持ち帰った、閲覧室の端に置かれていた薄い補助冊子だ。セオドアが「直接の危険は薄いが、読むなら一人で読むな」と言っていたもの。題名はない。ただ、ページの余白に書き込みが多く、私のメモに近い匂いがする。


「まだ読むんですか」


「……ちょっとだけ」


「その“ちょっとだけ”でろくなことになった試しがないんですけど」


「知ってる」


それでも、私は本を開いた。目的ははっきりしている。真理との接続ができた今、次に知りたいのは家族のことだった。現世へ返事を返す方法だけじゃなく、向こうで私の不在がどう広がっているのか、知っておきたかった。知らないままでいる方がたぶん楽だ。でも、楽なまま進める段階はもう過ぎた。


最初の数ページには、断片的な注記しかなかった。『家族パートは重くしすぎると本筋が鈍る』『母の理解をどう描くか』『弟は無関心に見せて、実は読んでるくらいが効く』。読むたびに、胸のあたりが少しずつ嫌な感じにきしむ。嫌だ。これは、私が“物語として処理”しようとしていた痕跡だからだ。母をどこまで出すか。弟をどう機能させるか。現実ではちゃんと呼吸しているはずの人たちを、私はこういう形で眺めていた。創作する人間としては普通の整理かもしれない。でも、今はきつい。


ページをめくる指が少し重くなる。そこで、不意に紙面が揺れた。次の瞬間、文字の列が一斉に霞み、視界の奥へ流れ込んでくる。


居間だった。


現世の、実家の居間。古いテレビ台の木目も、ソファにかかったくすんだ色のブランケットも、その上に脱ぎ捨てられた弟のパーカーも、見覚えがありすぎる。私は息を止めた。これは記憶じゃない。前に見た断片よりも鮮明で、温度まである。夕方なのだろう、窓の外は薄いオレンジ色で、室内の電気はまだついていない。母がダイニングテーブルに座って、スマホを両手で包み込むように持っている。姿勢が小さい。あの人は心配をすると、怒るより先に小さくなるのだと、今さら気づく。


「……まだ、連絡ないの」


母の声が聞こえる。遠いようで、でも確かに。私は思わず本を握りしめた。


「ないってさっき言ったじゃん」


弟の声。ぶっきらぼうで、でも荒い。彼は冷たいふりをするときほど、語尾が少し強くなる。高校の頃から変わらない。


「警察の人は何て」


「捜してるって。そりゃそうだろ」


「でもあの子、何か……ひとことくらい……」


母の声が途切れる。そこで弟が珍しく語気を落とした。


「母さん」


たった一言なのに、そこに“泣くなよ”と“俺もつらい”が両方入っているのがわかってしまう。私は胸の奥が痛くなった。弟は昔からこうだ。優しくない。気も利かない。でも、どうでもいい相手にはそもそも何も言わない。言葉が荒いときほど、たぶん必死だ。


映像の中で、母はスマホの画面を見下ろしている。待っているのだ。私からの連絡を。今さら、当たり前のことに打ちのめされそうになる。母にとって私は“創作する小説家”である前に、ただの娘だった。売れていようがいまいが関係なく、食べてるのか、眠ってるのか、締切前に風呂に入ってるのかを気にする相手だった。それを私は、少し面倒だと思っていた。いや、かなり。うっとうしいとすら思ったことがある。でも今、向こう側の母は、ただ連絡が来るかもしれないスマホを見ている。


「……っ」


喉が詰まった。映像はまだ続いている。弟が立ち上がって、棚の横にある小さな段ボールを持ってくる。それは私が実家に置きっぱなしにしていた本の箱だった。原稿用紙や文芸誌、昔のノートが雑に突っ込んである、半分黒歴史みたいな箱。


「何それ」


母が聞く。


「姉貴の昔のやつ。なんか手がかりあるかも」


「勝手に見ていいの」


「今それ言う?」


その返しがあまりにも弟らしくて、私は泣きたいのか笑いたいのかわからなくなった。弟は箱を床に下ろし、無造作にノートを一冊取り出す。表紙の隅に、私の汚い字で“中学二年・物語ネタ帳”と書いてある。うわ、やめて。マジでやめて。声に出したいのに届かない。


弟はぺらぺらとページをめくる。途中で「うわ」と小さく呟く。たぶん黒歴史に当たった。母は隣で少し困った顔をしている。でも、その困り方の奥に、ほんの少しだけ懐かしさがあるのがわかった。そうだ。母は私が小さい頃、ノートに妙な話ばかり書いていたのを知っている。寝る前に急に「この子は双子の姫でね」とかわけのわからない設定を話し始める子供だったのを、知っている。


弟の手が一枚の紙で止まった。折りたたまれたメモ。開く。そこに何が書いてあるのかまでは、こちらから見えない。でも、弟の表情が変わる。険しさが、ほんの少しだけほどける。そして、母にその紙を渡した。


「……これ、たぶん姉貴」


母が読む。数秒後、彼女は目を見開いた。


「これ……まだ小さいころに、わたしが言ったこと」


弟は頷く。「たぶん覚えてたんだろ」


「そんなの……」


母は言いかけて、言葉を失う。私はその瞬間、なぜかはっきりわかった。きっとその紙には、私が昔、母に言われて傷ついたか救われたかした一言が書いてある。私は昔から、会話をそのままストックする癖があった。いい台詞だと思ったら、怒られた言葉でも、泣いた言葉でも、書き留める。母も弟も、その癖を知らない。でも、今こうして残骸みたいに見つかれば、たしかに“私らしい”と感じるはずだ。


場面がにじむ。音が遠ざかる。私は反射的に本を閉じた。視界がぐらつき、椅子の背にもたれた。呼吸が浅い。涙は落ちなかったけれど、落ちる寸前のところまで来ている。


「……見えたんですか」


アリアの声が、思ったより近くで聞こえた。いつの間にか彼女が机の向かいではなく、すぐ横まで来ていた。私は顔を上げずに頷く。


「母と弟」


それだけ言うのが精いっぱいだった。


「元気そうでした?」


その問いに、私は少しだけ笑ってしまった。変な質問だ。行方不明の娘と姉の不在に向き合っている人たちが、元気なわけがない。でも、アリアの言い方は不器用な気づかいにも聞こえた。


「元気じゃない。でも……生きてる」


「それはそうでしょう」


「そういう意味じゃなくて」


私はようやく顔を上げた。アリアの表情は静かだった。読めない。いつも通り、読めない。けれど今は、その読めなさに少し救われる。もし彼女が露骨に同情した顔をしていたら、たぶん私はもっときつかった。


「ちゃんと生きてるんだなって思った。私が見てないところで、勝手に時間が進んでて、私がいなくて、困ってて、それでも生きてる」


「当たり前です」


「うん。でも、私はそれをずっと見ないふりしてた」


アリアはしばらく黙っていた。それから、机の上に手を置いて、ぽつりと言った。


「あなた、家族のことはあまり書かなかったでしょう」


胸を刺されるみたいな一言だった。私は目をそらした。


「……書きにくかったから」


「どうして」


「近すぎるから」


すぐに答えてしまった。たぶん前からわかっていたのだ。私は家族のことを書くのが苦手だった。真理みたいに“言葉”で繋がっている相手は、まだ書ける。会話や距離感や、すれ違いを構造として扱える。でも家族はだめだ。近すぎて、機能に落とすと急に嘘になる。かといって本音を書けば、生々しすぎる。だから逃げた。作品の中で“母親役”“弟ポジション”は出しても、私の家族そのものはなるべくぼかしてきた。


「書かなかったから、軽いわけじゃないんですね」


アリアの声は静かだった。私は答えなかった。答えられなかった。代わりに、本の上に指を置いたまま、小さく息を吐く。


「私、勝手に思ってたんだよね。現世で私を一番強く引っ張るのは、真理みたいな“書くこと”に近い相手だって。もちろんそれはそうなんだけど、家族って……もっと別の方向で重い」


「役割じゃないからでしょう」


私ははっとした。アリアを見る。彼女は少しだけ窓の方へ視線を流していた。


「家族って、物語の役割にしにくいんです。母とか弟とか、そういう名前を付けた瞬間に、説明が雑になる。けど現実では、そんな言葉一つで終わらない」


私は何も言えなかった。今の台詞は、驚くほど私に近かった。アリアはヒロインで、この世界の“物語の近く”にいる存在なのに、たまにこうして、すごく現実的なところを正確に突いてくる。


「……あんたさ」


「はい」


「本当に何者なの」


いつもの問いだった。でも今夜のそれは、少し違う響きを持っていた。ただ不気味だから聞くのではなく、理解したいから聞いてしまう問い。アリアは、ほんの一瞬だけ困ったように目を伏せた。そして珍しく、答えに少し時間をかけた。


「わたしは……たぶん、あなたが思ってるよりずっと“役割”の中にいるんです」


「役割」


「ヒロインとか、中心とか、必要とされる側とか。そういうものに近すぎる。だから逆に、役割にならないものが見えるのかもしれません」


その言葉の意味を、私はすぐには噛み砕けなかった。でも、彼女の横顔がいつもより少しだけ幼く見えた。完璧な不穏さの奥に、触れたら壊れそうな細さがある。それが今夜は、はっきり見えてしまった。


「……私、帰りたいのかな」


気づけばそんなことを言っていた。アリアは驚かなかった。


「どうでしょう」


「無責任な返し」


「だって、あなたがまだ決めてないでしょう」


たしかにそうだ。帰りたい。たぶんそれは本当だ。でも、“帰りたい”と“届きたい”は少し違う。母や弟や真理に届きたい。無事だと言いたい。放り出してないと伝えたい。けれど、じゃあ今すぐこの世界を捨てて戻りたいのかと問われると、答えが揺れる。ここにはここで、守らなきゃいけないものができ始めている。リゼットも、ノエルも、セオドアも、そしてアリアも。厄介で、危険で、でももう無視できない。


「最低だな、私」


「そうですか?」


「だって家族があんな顔してるの見て、すぐ“帰る”って言えない」


アリアは少しだけ考えるように首を傾げ、それから小さく首を横に振った。


「それは最低というより、ようやく両方を重く見始めただけじゃないですか」


私は言葉を失った。その通りだった。今までは、現世と異世界をどこかで優先順位に並べようとしていた。向こうは元の世界、こっちは物語世界。だけど、もうそんな単純なラベルは使えない。向こうには家族と真理がいて、こっちには崩れ始めた世界と、読まれるほど強くなるヒロインがいる。どちらかが軽いわけじゃない。どちらも重い。だから苦しい。


しばらくして、私は机の引き出しから別の紙を取り出した。書くつもりはなかった。でも、今見たものをただ胸にしまい込んだら、たぶん耐えられない気がした。ペンを取る。


「何を書きますか」


アリアが聞く。


「まだわからない。でも、家族のことを……たぶん初めて、ちゃんと」


紙の上に最初に出てきたのは、驚くほど短い一文だった。


『母は、待つ人だ。弟は、待てない人だ。』


書いた瞬間、それが現実改変のための文章ではなく、ただの記述として紙に残るのがわかった。今は世界を動かそうとしていない。私自身の輪郭を確認するために書いている。それでも、少しだけ胸が楽になる。私は続けて書く。


『二人とも、私の物語を全部は知らない。でも、私が書いてきたこと自体は知っている。だから、見つける。私が残した痕跡を。』


アリアは黙って見ている。邪魔もしないし、褒めもしない。そういう見守り方をしてくれるのが、今はありがたかった。


「……ねえ、アリア」


「はい」


「もし、向こうに家族がいるとしたら、あんたは会いたい?」


質問した瞬間、少しだけ後悔した。踏み込みすぎたかもしれない。けれどアリアは怒らなかった。ただ、ほんの少しだけ息を止めたあと、静かに答えた。


「わかりません」


「わかんないんだ」


「ええ」


彼女は窓の外を見たまま続ける。「もし会いたいと思ってしまったら、わたしには“ヒロイン”以外の帰る場所があることになるでしょう。それは、たぶん……今のわたしには重すぎます」


その答えに、胸が詰まる。アリアには家族がいるのか、いないのか、それすらまだわからない。でも今の一言だけで十分だった。この子は、自分が“役割”として濃くなっていくほど、個人としての居場所を持つことを恐れている。だから、私が家族の話をするとき、少しだけ静かになるのだ。


「……ごめん」


「どうして謝るんですか」


「なんとなく」


アリアはほんの少しだけ笑った。今度の笑いは、いつもの不穏な微笑みじゃない。ほんの数秒だけ、年相応の女の子みたいな顔になる。レアだ。すごくレアだ。そういう顔を見せるたび、この子はずるいと思う。


「あなた、さっき最低だって言ってましたけど」とアリアは言った。「わたしは、そうやって迷える方が好きですよ」


「また意味深なことを」


「意味深に聞こえるだけです」


「嘘つけ」


そう返したら、彼女は今度こそ少しだけ楽しそうに笑った。その笑い方を見て、私はようやく息を深く吸えた気がした。泣くほどではない。けれど、固まっていた何かが少し解けた。


そのとき、机の上の本が小さく震えた。私もアリアも同時にそちらを見る。開いたままのページの端に、薄く新しい文字が滲み出してくる。これは私が書いたものじゃない。向こうからの痕跡だ。私は心臓を速くしながら本を寄せた。


――『段ボールの底、青いノート』


文字はそれだけだった。でも十分だ。向こうで何かが進んでいる。たぶん弟か母か、あるいは真理が、実家の段ボールの底にある“青いノート”へ辿り着こうとしている。私は目を見開いた。青いノート。覚えている。高校の終わりごろに書いていた、いちばん人に見せたくない私的な創作ノートだ。家族のことも、真理のことも、将来のことも、ぐちゃぐちゃに書いてあった気がする。


「……やば」


思わず本音が漏れた。アリアが首を傾げる。


「何がです?」


「青いノート、かなりやばい」


「危険物なんですか」


「精神的に危険物」


アリアは一瞬きょとんとしてから、小さく吹き出した。珍しい。声に出して笑った。私は呆れて見たけれど、その笑いに救われてもいた。たしかにやばいのだ。だけど、向こうがそこへ辿り着くということは、私の本当の“痕跡”にも近づいているということでもある。恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。でも、それが証拠になるなら、使うしかない。


「次、青いノートが鍵になるかも」


私が言うと、アリアはまだ笑いの余韻を残しながら頷いた。「家族があなたを見つけるための鍵が、あなたの黒歴史なの、すごくあなたらしいですね」


「うるさい」


「でもいいと思います」


「何が」


「家族って、たぶんそういうものでしょう。綺麗に整えた部分より、どうしようもない部分の方を覚えている」


その言葉に、私は返せなかった。図星すぎたからだ。母はきっと、私がまともに朝起きられなかった頃のことも、締切前に食事を抜く癖も、初めて投稿した日にトイレにこもって震えていたことも知っている。弟は弟で、私が売れない時期にひどく機嫌が悪くなっていたことや、表に出さないくせに感想欄だけ何度も見ていたことを、たぶん知っている。家族は、完成品なんて見ていない。未整理でみっともない部分を含めて、ずっと見ている。だから強いのかもしれない。


私は本をそっと閉じた。今夜はもうこれ以上見るべきじゃない。見すぎると本当に持っていかれる。けれど、十分だった。母と弟が探していることも、向こうで何かが動いていることもわかった。そして私自身、家族を“物語の背景”として処理するのをやめられそうな気がした。


「アリア」


「はい」


「ありがと」


彼女は目を瞬いた。たぶん予想していなかったのだろう。少しだけ間が空いて、それからいつもの、少しだけ意地の悪い笑みに戻る。


「今の、記録しておきます。作者様が素直だった夜って、貴重なので」


「消して」


「無理です。わたし、そういうの覚える方なので」


「最悪」


そう言いながら、私は少しだけ笑っていた。アリアもそれ以上は何も言わなかった。ただ椅子から立ち上がり、窓辺へ向かう。


「どこ行くの」


「これ以上いると、あなた今夜寝なくなるでしょう。わたしがいると会話しちゃうので」


「自覚あるんだ」


「ありますよ」


窓枠に手をかけて、アリアは振り向いた。その表情は、また少し静かだった。


「家族のこと、ちゃんと書いてくださいね」


「……急に真面目」


「大事なので」


彼女はそこで少しだけ視線を逸らした。「役割じゃなくて、そこにいた人として」


その言い方に、私はまた言葉を失った。今夜のアリアは、ずるいくらい刺さることを言う。だから困る。敵のくせに、こういうところで心の中心を正確に撃ち抜いてくる。


「わかった」


小さく答えると、彼女は満足そうでもなく、寂しそうでもなく、ただ静かに頷いた。


「おやすみなさい、ユイ」


「……おやすみ」


窓が閉まり、部屋に静けさが戻る。けれど、さっきまでの静けさとは違った。冷たく沈むだけの静けさではない。紙と灯りと、まだ書かれていない言葉がある静けさだ。


私はもう一度机に向かい、さっき書いた一文の下へ、新しく続けた。


『家族は、私の物語を全部知らない。けれど、私が何を捨てて、何を隠して、何を残したかを、誰より知っている。だからきっと、見つける。』


書いた文字は、今度もただの記述として紙に残った。現実改変じゃない。通信でもない。でも、こういう文章を蓄積していくことが、たぶん次の“証拠”になる。真理にだけじゃない。母にも、弟にも、そして私自身にも。


青いノート。段ボールの底。向こうはそこへ向かっている。なら、こちらも備えなければいけない。恥ずかしさで死にそうになってる場合じゃない。あのノートには、たしか“やめたかった夜”のことも、“家に帰るのがしんどかった時期”のことも、真理にだけ見せた掌編の下書きも、全部混ざっていた。いちばん見られたくない。でも、いちばん“私そのもの”でもある。


灯りを消す前に、私は最後に一行だけ書き足した。


『帰る場所があるから迷うのではない。迷えるほど、帰る場所が本物なのだ。』


書き終えてから、自分で少しだけ息を止めた。こんな綺麗な言い回し、普段なら気取りすぎだと消す。でも今夜は消さなかった。少し気取っていてもいい。そうでもしないと、胸の痛みが形にならないからだ。


ベッドに入ると、今度は少しだけ眠れそうな気がした。母と弟は向こうで動いている。真理はきっと記録を続けている。アリアは、自分の帰る場所のことを考えないふりをしている。私はその全部を知ってしまった。知ってしまったからには、もう軽く扱えない。


第十三話の終わりにして、私はようやく理解し始めていた。

現世は“戻る先”であるだけじゃない。

異世界は“戦う場所”であるだけじゃない。

どちらにも、人がいる。役割じゃない、生きた人間が。


そして、その人たちを物語の都合で切り分けないために、私はもっと上手く書けるようにならなければいけない。

書いて、届かせて、証明する。

そのための次の鍵は、たぶん青いノートだ。


恥ずかしくて、痛くて、でも間違いなく、私の続きを繋いでいるノートが。


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