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「自分の書いた小説に転生したのに、設定が崩壊してるので“書き換え”ながら生き残ります」―作者なのにヒロインに殺されかけてます―  作者: 百花繚乱


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第十話「最初の勝利、最初の宣戦布告」

閲覧室の空気は、紙と埃と、まだ名づけられていない不安で満ちていた。壁に浮かぶ文字は先ほどよりも薄れているのに、そこに記された内容の重さだけは、むしろこちらの胸の内に沈殿していくようだった。向こう――現世では、私がいないはずなのに“続き”が更新され始めている。こちら――異世界では、私の没案や設定メモが書庫の奥から実体を持って浮かび上がってきている。二つの世界は離れていない。いや、もともと離れていたものが、私の転生によって無理やり継ぎ合わされ、縫い目から中身が漏れ始めているのかもしれない。


私は円卓の上に置かれた三冊の本を見下ろした。どれも表紙に題名はなく、革の質感も色合いも少しずつ違う。一冊は深い紺。もう一冊は赤茶。最後の一冊は、妙に白っぽい灰色。どれもただの本には見えない。近づくだけで、文章を読む前のあの感覚――頭の中に何かが“入り込んでくる”予兆がした。


「開くのは危険です」


最初に口を開いたのはリゼットだった。いつも通り冷静な声音だが、その視線は鋭い。彼女は単に慎重なのではない。危険を見積もった上で、それでも必要なら踏み込む側の人間だ。だからこそ、その口から“危険”という明確な評価が出たこと自体に重みがある。


「わかってる」と私は答えた。「でも、ここで止まってたら何も進まない」


「止まるべきときに止まれない人は、長く生き残れません」


「書かなきゃもっと早く終わる」


短いやり取りのあと、リゼットはわずかに目を細めた。肯定でも否定でもない表情。たぶん今の彼女は、私が無謀なのか必要な賭けをしているのか、その境目を測っている。


ノエルはというと、怯えと好奇心が半々といった顔で三冊の本を見ていた。彼の指先は落ち着きなく何度か動き、それからぎゅっと袖を掴む。記録と文字に惹かれる体質なのだろう。たぶんこの少年は、禁じられた書物の類に最も近づいてはいけない種類の人間だ。そして同時に、最も必要な資質を持っている。


アリアは窓辺にもたれ、こちらを眺めていた。銀髪に朝の光が淡く乗り、その表情だけ見れば本当に絵になるヒロインだ。けれど、その実態が私にとって最も危険な“物語側の存在”であることを、私はもう知っている。彼女は私たちの緊張をどこか楽しんでいるようにすら見えた。


「どれから開くんです?」と、ノエルが小声で尋ねた。


私は三冊を見比べた。勘だけで選ぶのは危ない。でも、完全な分析材料もない。なら、わずかな違いに意味を見出すしかない。紺の本は重く、閉じたままでも沈むような圧がある。赤茶は乾いた熱を帯びているようで、触れれば火傷しそうだ。灰色の本だけが、妙に“薄い”。危険が弱いわけではない。ただ、他の二冊よりも“介入の余地”がありそうに感じた。


「これにする」


私は灰色の本に手を伸ばした。


その瞬間、アリアがふっと笑った。「無難ですね」


「罠っぽい言い方やめて」


「褒めてるんですよ。あなた、前よりちゃんと選ぶようになった」


その一言が、妙に引っかかった。前より。つまり彼女は私の成長を見ている。測っている。そして、その変化込みで楽しんでいる。ヒロインを育てる、というのはたぶんこういうことなのだろう。主人公が動けば、相対する相手もまた輪郭を濃くしていく。アリアは最初から強かったわけじゃない。けれど今、彼女は明らかに“物語の理解者”としての格を増している。厄介なことこの上ない。


私は灰色の本をゆっくりと開いた。


一ページ目は白紙だった。拍子抜けするほど、何も書かれていない。だが、二ページ目を開いた途端、文字がじわりと浮かび上がってくる。インクで書かれたのではない。紙の内側から滲み出してくるような、ゆっくりとした出現だった。


――『あなたがこれを読んでいるなら、少なくとも最悪の分岐は避けられたらしい』


心臓がひとつ、強く打った。


この文体。私だ。少し硬く、説明を急ぐときの癖が出ている。現世でプロットを整理しているときの、誰に見せるでもないメモの書き方。だが、同時に違和感もあった。私はこんな文章をはっきり書いた記憶がない。


――『この本は“保留した救済案”を封じたもの。採用しなかったのは、都合がよすぎるから。けれど、現実に物語が壊れ始めた場合、唯一の避難路になるかもしれない』


「救済案……」


思わず声に出た。ノエルが身を乗り出し、リゼットが眉を寄せる。アリアだけが、少しだけ退屈そうにまばたきをした。彼女にとっては既知の領域なのか、それとも私の反応を見ているだけなのか、判然としない。


私は先を読む。


――『ただし、これを使うには“現世の錨”が必要。こちら側の人物だけでは成立しない。向こう側であなたを覚えている誰か、あるいは未完の原稿に残った“あなた自身の痕跡”が媒介になる』


現世の錨。向こうで私を覚えている誰か。頭に浮かんだのは、母と弟、そして真理だった。あの断片的な映像が本物なら、向こうではすでに私の不在が日常の穴になっている。だが、その“覚えている”こと自体が力になるのだとしたら、私はまだ完全には切れていないことになる。


「錨……って、どういう意味ですか」とノエルが聞いた。


私はすぐには答えられなかった。代わりにリゼットが低く言う。「二つの世界を繋ぐ固定点でしょう。流されないための基準点だ」


「その解釈で大きくは外れていません」


驚いて顔を上げると、閲覧室の入口に新たな人物が立っていた。男だ。年齢は三十代半ばくらい。長身で痩せ気味、色素の薄い茶髪を後ろで適当に束ね、ローブの下には魔導局らしい黒い制服を着ている。だが、目つきが調査官というより学者に近い。物事を人間ではなく“現象”として見る類の人の目だ。


「……誰」


私が問うより早く、リゼットがごくわずかに姿勢を正した。「局員番号二七、記録解析室主任、セオドア・ベルン。どうしてここに」


「君の報告が妙に断片的だったので、嫌な予感がした」と男は答えた。「現場に来てみれば、なるほど。これは確かに文字災害の類じゃない。もっと根が深い」


セオドア。新しい名前、新しい役割。これでまた世界の幅が広がる。私は無意識に、そのことを冷静に数えていた。登場人物が増えることは、物語の厚みを増すと同時に、制御不能な要素を増やすことでもある。だが、今は制御よりも理解が必要だ。


セオドアは私の手元の灰色の本を見て、興味深そうに目を細めた。「読めるのか」


「少しずつなら」


「頭痛は?」


「あります」


「吐き気、耳鳴り、時間感覚の乱れは」


「……時々」


「ならまだ軽いな」


軽いと言われて、反射的に顔をしかめそうになったが、彼の口調に悪意はなかった。ただ本当に、現象の症状を確認しているだけなのだろう。私は少し警戒しながらも続きを待った。


「文字災害には段階がある」とセオドアは言った。「ただの魔導暴走なら外部に漏れない。だが今ここで起きているのは、記録の自己増殖と概念侵食だ。書かれたものが現実に影響し、現実の変化がさらに書物を生む。この循環が成立すると、個人の体調不良では済まなくなる」


「世界が壊れる?」と私が問うと、彼はあっさり頷いた。


「小さく言えばそうだ。正確には、現実を支える“記述の整合性”が崩れる」


アリアが窓辺でくすりと笑う。「堅い言い方」


「君は黙っていろ、物語偏性体」


その呼び方に、空気が微かに張り詰めた。アリアの笑みが、ほんの一瞬だけ消える。彼女はすぐに元の柔らかい表情に戻ったが、その一瞬を私は見逃さなかった。物語偏性体。セオドアはアリアをただの少女として扱っていない。そして、アリアもその認識を快くは思っていない。


「その呼び方、嫌いです」とアリアが言う。


「知っている。だから使っている」


二人の応酬は短かったが、そこには確かな火花があった。いい。私は心のどこかでそう思った。ヒロインを育てるなら、私だけでなく、世界が彼女にどう反応するかも必要だ。アリアは“私にとって脅威”なだけでは足りない。他者にとっても異質で、しかも無視できない存在として立ち上がっていく必要がある。今の一言で、その輪郭はまた少し濃くなった。


「続けて読め」とセオドアが私に言った。「今そこに書かれていることは、たぶん現状の唯一の手がかりだ。ただし、読む前に防壁を敷く」


「防壁?」


彼は小型の銀板を二枚、円卓に置いた。板の表面には細かな魔術式が刻まれている。「記録隔離式。暴走した情報を室内に留める。万能じゃないが、何もしないよりはましだ」


リゼットが即座に動き、部屋の四隅に似たような板を配置していく。ノエルは半ば呆然と眺めていたが、私と目が合うと慌てて手伝い始めた。その様子が少し可笑しくて、こんな状況なのに笑いそうになる。世界の危機と、新入り書庫係の必死さが同じ画面に収まるのは、なんとも奇妙だ。


準備が整うと、私は再び本に目を落とした。


――『錨を確保する方法は三つ。第一、現世で残した連絡文に干渉すること。第二、こちら側で“向こうを強く想起する媒体”を作ること。第三、人を介すこと。最も危険なのは第三だが、最も強い』


人を介す。私はページの続きに目を走らせる。


――『ヒロインを使う案は却下。彼女は物語側へ寄りすぎる。主人公単独では不安定。第三者が必要』


その一文に、アリアが不満げに眉を寄せた。「却下、ってひどくないですか」


「自業自得でしょ」と私は小声で返したが、内心では別のことを考えていた。第三者。現世では私を覚えている誰か。こちら側では物語に飲まれすぎていない誰か。その橋渡しが必要だというのなら――。


「真理……」


気づけば、友人の名前を口にしていた。


現世で私を最も強く“作者として”見ていたのは、たぶん彼女だ。母は娘として、弟は姉として私を見ている。けれど真理は、私がどんなものを書いて、何に躓き、どういうときに悪い癖が出るかまで知っている。もし向こうへ届くなら、最初に届くべきは彼女かもしれない。


「その名前、重要か」とセオドアが即座に反応した。


「現世の友人です。私のことを、たぶんかなり強く覚えてる」


「なら候補になる」


アリアが面白くなさそうに目を細めた。「へえ。向こうにそんな人がいるんですね」


「いるよ」と私ははっきり言った。「私には家族も友達もいる。こっちの事情で勝手に切り捨てられるほど薄くない」


その言葉は、半分以上、自分に言い聞かせるためのものだった。こちらに来てから、私は生き残ることと世界の異常を追うことに集中しすぎていた。けれど向こうには生活があった。締切に追われて、コンビニのコーヒーで眠気をごまかし、真理と夜中に通話して、母に「ちゃんと食べてるの」と言われてうんざりして、弟に既読無視されていた、あの雑然とした現実が。物語は大事だ。でも、現実を置き去りにしていいほど、私は綺麗にできていない。


「感情の強度は悪くない」とセオドアが言う。「問題はそれをどう形にするかだ」


私は次の行を読む。


――『最初の接触は“言葉”ではなく“痕跡”で行うこと。文章をそのまま送ろうとすると世界同士の抵抗が強すぎる。代わりに、向こうにしかわからない癖、共有記憶、未完の一文を使え』


そこまで読んだところで、閲覧室の空気が変わった。


最初は小さな違和感だった。温度が下がったわけでも、音が消えたわけでもない。ただ、“視線”のようなものが増えた気がした。私たち五人以外に、もう一つ何かがこの部屋を見ている。紙の裏側から覗くような、じっとりした気配。


「来るぞ」とセオドアが短く言った。


直後、壁の文字が一斉に崩れた。ばらばらになった文字群は床に落ちず、空中で渦を巻き、黒い帯になって部屋の中央へ集まっていく。ノエルが息を呑み、リゼットが一歩前に出る。アリアは笑わない。ただじっと、その渦を見ていた。


黒い文字帯はやがて、人の輪郭を作り始めた。顔はない。いや、作られては崩れ、崩れては作られる。肩のあたりからは私の下書きの文が垂れ、腕の先には没設定の断片が絡みついている。人型ではある。けれど人間ではない。文章の寄せ集めでできた、何かだ。


「……これ、何」


私が呟くと、セオドアが即答した。


「記述残滓。だがこの規模は異常だ。誰かの未整理な設定群が核になっている」


私の胃のあたりが冷える。未整理な設定群。つまり、私の没メモや断片がここで“形”を持ち始めているのだ。


その黒い存在が、輪郭の定まらない顔をこちらに向けた。次の瞬間、ばらばらの声が重なり合って聞こえてくる。男の声、女の声、子供の声、老人の声。それらが無理やり一つの言葉を形作った。


「作者」


ぞくりと、背筋が震える。こいつは私を認識している。


「下がって」とリゼットが言い、剣を抜く。だが、私は反射的に首を振った。「だめ。たぶん、物理じゃ散るだけ」


「ならどうする」


「言葉で抑える」


即答しながらも、心臓はうるさい。ここで失敗したら、室内はさらにひどいことになる。けれど逃げるわけにはいかない。これが第十話の山だと、どこか冷めた部分で理解していた。最初の大逆転。ここで読者を掴み切るには、単なる回避では足りない。私は“勝たなければ”ならない。


記述残滓が腕のようなものを振るう。文字の束が鞭のようにしなり、壁を削った。石片が飛び散る。ノエルが小さく悲鳴を上げる。私は紙を引き寄せた。焦るな。重すぎる言葉は使わない。対象を絞り、効果を限定し、過程は世界に任せる。


だが、その前にアリアが動いた。


「右!」


彼女の声に、私は反射的に身をずらした。直後、黒い文字の矢がさっきまで私のいた位置を貫く。床に突き立ったそれは、すぐにばらけて読めない断片に戻った。


「助けるの?」と私は息を切らしながら聞いた。


アリアはわずかに唇を上げる。「今あなたに死なれると、つまらないので」


ひどい言い方なのに、少しだけ安堵した。敵でありながら、今この瞬間は同じ場に立っている。その関係性の危うさもまた、彼女をヒロインたらしめている。


セオドアが短い呪文を唱え、銀板の結界が明滅する。リゼットは記述残滓の動きを読んで牽制し、ノエルは倒れた棚の陰から「核っぽい文字列があります!」と声を張った。見ると、渦の中心、胸にあたる位置に、やけにはっきりした一文がある。


――『作者は、物語を都合よく救えない』


それは、私がかつて自分に向けて書いた批評メモだった。安易なご都合主義を避けるために、自戒として残した一文。よりによって、今それが核になっている。


「……ああ、もう」


私は苦笑した。こんな形で、自分の創作論に殴られるとは思わなかった。


けれど、逆に言えば核が見えた。こいつは“救えない”という断定に支えられている。なら、真正面から“救える”と書けば重すぎる。失敗する。必要なのは、その断定を少しだけずらすことだ。


私は書いた。


『作者は、都合よくは救えないが、工夫して一つだけ道を作れる』


書いた瞬間、頭の奥が鋭く軋んだ。重い。かなり重い。けれど、完全否定ではない。“一つだけ”“工夫して”という限定が効いているはずだ。次の瞬間、記述残滓の胸の文字列が大きく揺らいだ。


「今です!」とノエルが叫ぶ。


リゼットが動いた。彼女の剣は文字の鞭を斬るためではなく、その一瞬生まれた隙を広げるために振るわれる。セオドアの結界が中心部だけを強く照らし、アリアが風のような速さで回り込んで、黒い渦の流れを意図的に乱した。彼女は魔法を使っているわけではない。もっと、物語の“流れ”を押しているような動きだった。


私はもう一度書く必要があった。これが最後だ。重すぎる一撃は危険だが、ここで押し切らなければ意味がない。


『核の一文は、ただのメモに戻る』


短く、具体的に。対象を絞り切った文。


発動した瞬間、世界が小さく軋んだ。記述残滓の胸の文字列が、ばらりと崩れる。断定としての力を失い、ただの“書かれた紙片”へと落ちていく。すると全身を支えていた文の束も、一斉に結び目を失ったようにほどけ、黒い帯は無数の断片へ戻って床に降り積もった。


静寂が来た。


遅れて、私は膝をついた。痛みが一気に押し寄せてくる。頭痛だけじゃない。耳鳴り、吐き気、視界の端のちらつき。かなり無茶をした自覚がある。


「ユイ様!」


ノエルの声が近い。リゼットがすぐ肩を支え、セオドアが何かの薬液を嗅がせる。鼻に刺さるような匂いに思わず顔をしかめたが、少しだけ意識が戻った。


「……勝った?」


「一応」とリゼットが答える。珍しく、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。「少なくとも、この場は収束しました」


その言葉に、胸の奥で何かがほどける。最初の勝利。完全無傷ではない。圧勝でもない。けれど、確かに私は“物語の脅威”を一つ、自分の言葉で退けたのだ。


アリアが私の前にしゃがみ込む。彼女の銀の瞳は、いつもの余裕の笑みよりも少しだけ深い色をしていた。


「おめでとう」と彼女は言った。「これでやっと、作者らしくなってきた」


「褒めてるの、それ」


「半分は」


「残り半分は?」


「警告です」


彼女は私の耳元近くで、静かに囁いた。


「今の勝ち方、向こうにも見えてますよ」


ぞっとした。現世。真理や家族がいる、あの側。まさかと思ったが、アリアの表情は冗談を言っている顔ではない。


「どういう意味」


アリアはすぐには答えず、私の胸元に目を落とした。そこには、さっきの戦いの衝撃で服の内側から滑り落ちた、小さな紙切れが挟まっていた。私は見覚えがなかった。震える指で取り出してみる。メモ用紙の切れ端。そこに、現世のボールペンで走り書きされたような文字があった。


――『続きを勝手に書いてるの、あんたでしょ。生きてるなら返事して。真理』


呼吸が止まりそうになった。


真理からだ。私宛てだ。現世から、こちらへ。しかも、今の勝利の直後に。


「……嘘」


「嘘じゃないです」とアリアは楽しそうに、でもどこか静かに言った。「向こうも始めましたね。あなたを探すのを」


リゼットもセオドアも、その紙片を見て顔色を変えた。ノエルだけが状況を完全に飲み込めず、しかしそれでも、この一枚がとんでもないものだということだけは理解したようだった。


私はその紙を、両手で握った。震えはまだ止まらない。けれど、それは恐怖だけじゃない。向こうは終わっていない。私を覚えている。探している。しかも、ただ待っているだけではなく、“返事”を求めてきた。


なら、やることは決まった。


私はゆっくり立ち上がった。足元はまだ不安定だったが、視線だけはまっすぐ前を向いていた。


「……返す」


自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


「現世に返事を返す。こっちで生き残るだけじゃない。向こうと繋ぐ方法を見つける」


セオドアが興味深そうに私を見る。「それができれば、記録学上の革命だ」


「革命で終わらせる気はないです」


私は真理のメモを胸元にしまい直した。「家族も友達も、勝手に置いてこない。こっちの物語も、向こうの現実も、どっちも諦めない」


アリアが立ち上がり、少しだけ目を細めた。その表情には、初めて見る種類の熱があった。愉悦とも違う、単純な敵意とも違う。もっと本質的な、物語の中心に立つ者だけが持つ執着に近いもの。


「いいですね」


彼女はそう言った。


「じゃあ、わたしも本気を出します」


その宣言に、閲覧室の空気がまた一段変わる。彼女はこれまで手加減していたのか、と問い詰めたい気持ちもあった。だが、今はそれよりも、彼女自身が“ここから育つ”と宣言したことの方が重かった。ヒロインが本気を出す。つまりこの物語の難度も、密度も、一段上がるということだ。


私は彼女を見返した。


「望むところ」


強がりではあった。けれど、嘘ではなかった。


最初の勝利を得て、最初の返事を受け取って、私はようやく理解したのだ。この物語は、ただの転生サバイバルじゃない。作者である私、物語に近づいていくヒロイン、そして現世で私を探す人たち。その全部が同時に進む、多層の戦いだ。だから、ここから先はもっと難しい。もっと面白い。もっと深くなる。


床に散った文字の断片の中で、ひときわ小さな一行が目に入った。戦いの最中には気づかなかった、核の残骸の一部だ。


――『第十話で、主人公は初めて“返事”を受け取る』


私はそれを拾い上げ、少しだけ笑った。


「遅いよ」と小さく呟く。「もう自分でそこまで書いたから」


その瞬間、どこか遠い現世の部屋で、真理がもう一度メッセージを送ろうとしている気がした。母が眠れないままスマホを握っている気がした。弟がぶっきらぼうに検索窓へ私の名前を打ち込んでいる気がした。全部、想像かもしれない。けれど今は、その想像さえ、次のページへ進む力になる。


円卓の上には、まだ開いていない紺と赤茶の本が残っている。現世への返事。ヒロインの本気。もう一人の介入者の正体。魔導局の本当の狙い。書庫の奥に眠る没案の残骸。広がるべきものは、いくらでもある。


私はペンを握り直した。


次は、ただ勝つだけじゃない。届かせるために書く。守るために書く。奪われないために書く。そして、アリアにも、現世にも、物語そのものにも宣言する。


私はまだ、終わっていない。


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