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おかえりの声

作者: 弓庭柔悟
掲載日:2026/02/12

『おかえりの声』

夕方六時。

玄関のドアを開けると、ひんやりした空気が肌にまとわりついた。

「ただいま」

そう言った瞬間、家の奥から、少し遅れて声が返る。

「おかえり」

懐かしくて、優しい声。

それを聞くたび、胸の奥がじんと痛む。

この家には、もう私しか住んでいない。

それなのに、帰ると必ず迎える声がある。

コートを脱ぎ、電気をつけないままキッチンへ向かう。

声は、いつも決まって同じ場所から聞こえた。

「今日は遅かったのね」

「うん、ちょっとね」

「ちゃんとご飯、食べてきた?」

「まだ」

「じゃあ、温めてあるわ」

冷蔵庫を開けると、鍋が一つ。

中には、母が生前よく作っていたカレー。

――三年前に、母が亡くなってからも。

「またカレー?」

「文句言わないの」

その返事に、思わず笑ってしまう。

声の調子も、言い方も、生きていた頃と同じだ。

レンジに鍋を入れると、背後に気配を感じる。

振り返っても、やっぱり誰もいない。

それでも私は、そこに母が“いる”前提で話を続ける。

「今日さ、仕事でミスしちゃって」

「焦るからよ」

「分かってるけど……」

「あなたは真面目すぎるの」

叱る声すら、愛おしい。

この声がある限り、私は一人じゃないと思えた。

食事を終え、空いた向かいの椅子を見る。

そこに母が座っていた記憶だけが、くっきり残っている。

「ねえ」

「なに?」

「最近……声、遠くない?」

沈黙。

「そんなことないわ」

でも、その返事は少し震えていた。

「前は、もっとはっきり聞こえた」

「……年のせいよ」

「幽霊に年ってあるの?」

冗談めかして言った瞬間、

空気が、すっと冷たくなる。

「……あなた」

母の声が、いつもより低かった。

「ここに縛っているの、あなたでしょう」

胸が、強く締めつけられる。

「違う」

「違わないわ」

私は、テーブルの縁を握りしめる。

「だって、ここにいてって言った」

返事はない。

「いなくならないでって、お願いした」

キッチンの隅、母が倒れた場所を、無意識に見ていた。

「寂しかった」

「……」

「お母さんがいなくなったら、私、何もなくなる気がして」

声が、少しずつ弱くなる。

「だから、毎日話しかけて」

「おかえりって言って」

「帰る場所を、作ったつもりだった」

しばらくして、消え入りそうな声が返る。

「それは……鎖よ」

涙が、止まらなくなった。

「気づいてた」

「最近、声が薄くなってるの」

「私の記憶が、追いついてないだけで」

「本当は、もう……」

「……行かなきゃいけない?」

「ええ」

その声は、どこか安堵していた。

「あなたが前に進むなら」

私は、ゆっくり立ち上がる。

「ごめんね」

「縛りつけて」

「お母さんの人生の続きを、奪ってた」

静かな気配が、私の背後に立った気がした。

「……ありがとう」

「産んでくれて」

「育ててくれて」

「それから……待っててくれて」

一瞬だけ、

温かい何かが、背中を包む。

「もう、大丈夫よ」

その声は、今までで一番はっきりしていた。

「あなたは、生きなさい」

「……うん」

玄関へ向かい、靴を履く。

ドアを開ける直前、

最後に、私は言った。

「いってきます」

少し間があって、

とても穏やかな声が返る。

「いってらっしゃい」

その声を最後に、

家の中の気配は、完全に消えた。

それ以来、

この家で「おかえり」の声を聞いた人はいない。

ただ、春の日に家を引き払ったとき、

キッチンの床に、ひび割れた梁の跡が見つかった。

そこには、

長い間、誰かが留まっていたような――

不思議な、温もりだけが残っていた。



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