おかえりの声
『おかえりの声』
夕方六時。
玄関のドアを開けると、ひんやりした空気が肌にまとわりついた。
「ただいま」
そう言った瞬間、家の奥から、少し遅れて声が返る。
「おかえり」
懐かしくて、優しい声。
それを聞くたび、胸の奥がじんと痛む。
この家には、もう私しか住んでいない。
それなのに、帰ると必ず迎える声がある。
コートを脱ぎ、電気をつけないままキッチンへ向かう。
声は、いつも決まって同じ場所から聞こえた。
「今日は遅かったのね」
「うん、ちょっとね」
「ちゃんとご飯、食べてきた?」
「まだ」
「じゃあ、温めてあるわ」
冷蔵庫を開けると、鍋が一つ。
中には、母が生前よく作っていたカレー。
――三年前に、母が亡くなってからも。
「またカレー?」
「文句言わないの」
その返事に、思わず笑ってしまう。
声の調子も、言い方も、生きていた頃と同じだ。
レンジに鍋を入れると、背後に気配を感じる。
振り返っても、やっぱり誰もいない。
それでも私は、そこに母が“いる”前提で話を続ける。
「今日さ、仕事でミスしちゃって」
「焦るからよ」
「分かってるけど……」
「あなたは真面目すぎるの」
叱る声すら、愛おしい。
この声がある限り、私は一人じゃないと思えた。
食事を終え、空いた向かいの椅子を見る。
そこに母が座っていた記憶だけが、くっきり残っている。
「ねえ」
「なに?」
「最近……声、遠くない?」
沈黙。
「そんなことないわ」
でも、その返事は少し震えていた。
「前は、もっとはっきり聞こえた」
「……年のせいよ」
「幽霊に年ってあるの?」
冗談めかして言った瞬間、
空気が、すっと冷たくなる。
「……あなた」
母の声が、いつもより低かった。
「ここに縛っているの、あなたでしょう」
胸が、強く締めつけられる。
「違う」
「違わないわ」
私は、テーブルの縁を握りしめる。
「だって、ここにいてって言った」
返事はない。
「いなくならないでって、お願いした」
キッチンの隅、母が倒れた場所を、無意識に見ていた。
「寂しかった」
「……」
「お母さんがいなくなったら、私、何もなくなる気がして」
声が、少しずつ弱くなる。
「だから、毎日話しかけて」
「おかえりって言って」
「帰る場所を、作ったつもりだった」
しばらくして、消え入りそうな声が返る。
「それは……鎖よ」
涙が、止まらなくなった。
「気づいてた」
「最近、声が薄くなってるの」
「私の記憶が、追いついてないだけで」
「本当は、もう……」
「……行かなきゃいけない?」
「ええ」
その声は、どこか安堵していた。
「あなたが前に進むなら」
私は、ゆっくり立ち上がる。
「ごめんね」
「縛りつけて」
「お母さんの人生の続きを、奪ってた」
静かな気配が、私の背後に立った気がした。
「……ありがとう」
「産んでくれて」
「育ててくれて」
「それから……待っててくれて」
一瞬だけ、
温かい何かが、背中を包む。
「もう、大丈夫よ」
その声は、今までで一番はっきりしていた。
「あなたは、生きなさい」
「……うん」
玄関へ向かい、靴を履く。
ドアを開ける直前、
最後に、私は言った。
「いってきます」
少し間があって、
とても穏やかな声が返る。
「いってらっしゃい」
その声を最後に、
家の中の気配は、完全に消えた。
それ以来、
この家で「おかえり」の声を聞いた人はいない。
ただ、春の日に家を引き払ったとき、
キッチンの床に、ひび割れた梁の跡が見つかった。
そこには、
長い間、誰かが留まっていたような――
不思議な、温もりだけが残っていた。




