第11話
「お兄ちゃん、朝だぞー」
「……あ、あと、……五分……」
「……起こしてって、そう言ったのお兄ちゃんじゃん」
重い瞼を押し上げる。
元来早起きの妹にアラーム役を頼んだのは僕だけど、眠気には勝てない。
僕は再び夢の中へ落ちていく。
「もう……おきてよー」
うつ伏せの腰に、ずしりと重みがかかる。
妹が僕の背中に乗り、ゆさゆさと揺さぶってきた。
呼吸が苦しい。
「ふあああ」
「あ、おきた」
妹が僕から離れる。
「……おはよ」
「はい、おはよう。……とりあえず、そのダボダボTシャツから覗いてる小さな膨らみは隠そうか。お兄ちゃんは心配だぞ」
「家でしか着ないからいいのー」
妹は起き上がった僕に半纏を着せかけてくれた。
されるがままだ。
「朝はまだ冷えるから、ご飯食べてきなよ」
「んー」
「あと寝癖、ひどいよ」
「んー」
「あと汗臭い。昨日、お風呂入った?」
「んー?」
生返事をしながら、ようやく異変に気がついた。
猛烈に腹が減っている。顔も髪もべたついている。
そして、パジャマじゃなくてカッターシャツを着ている。
――思い出した。
昨日、剣道部のマネージャーとして入部したんだ。
いきなり練習に参加して、松原先輩の後ろについて走り回って。
帰宅するなり泥のように眠ってしまったらしい。
「……ん? あれ、のぞみ」
「なに?」
「今何時?」
「六時半前、くらい」
『朝練は七時からだから、それまでには校門に来てね』
松原先輩の言葉が蘇り、一気に血の気が引いた。
ここから学校まで歩いて二十分。
「やべっ!」
風呂にも入らず登校なんてできない。
僕は秒速でシャワーを浴び、着替えて、菓子パンを掴んで家を飛び出した。
「ちょっとあおい! お弁当まだよ!」
「ごめん母さん!」
入部のことを伝えていなかったから、母さんは余裕綽々だった。
待っている暇はない。
赤信号で立ち止まり、スマホを確認する。
そこで気づいた。レイくんからメッセージが来ていた。
「あ、やば」
内容は「今暇?」程度の他愛ないものだったけど、既読無視をしてしまった罪悪感が胸を刺す。
慌てて短く返信を打ち、青信号を合図に再び走り出した。
◇ ◇ ◇
学校到着、六時五十分過ぎ。ギリギリセーフだ。
息を切らせて道場に飛び込み、更衣室のドアを開ける。
「あ」
「へ?」
中には、多田さんがいた。
着替えの途中だった。
ふくよかな胸。
白い下着。
綺麗な脇。
見開かれる瞳。
まずい。
――そう思った時には、もう手遅れだった。
◇ ◇ ◇
「災難だったね、木村くん」
「……まあ、僕が悪いんですけどね」
頬を赤く腫らした僕を見て、松原先輩は愉快そうに笑った。
平手打ち一発で済んでよかったと思うべきか。
「でも、更衣室はどうにかしないとね。男子だからって教室で着替えてこいってのも可哀想だし……」
腕を組んで考え込んでいた先輩が、不意にポンと手を打った。
嫌な予感がする。
名案が浮かんだというより、面白いイタズラを思いついた時の顔だ。
「ちょっと待っててねー♪」
先輩はスキップせんばかりの足取りで部室の奥へ消え、すぐに戻ってきた。
その手には、不気味な黒いもじゃもじゃが握られている。
「……かつら?」
「そ。ほら、こっちこっち」
手招きされるままに近づくと、無理やりかつらを被せられた。
さらにどこから取り出したのか、ファンデーションのようなものを顔に塗られる。
「んむ。体操服も相まって、どう見ても女の子だ。いやこれ、レベル高いよ」
「……やめてくださいよ」
「にゃはは、ごめんごめん」
その時。
入り口から声がした。
「かおり、わたし、タオル忘れてない?」
ランニングに出ていた多田さんだ。
僕は慌てて背中を向ける。
同級生に女装がバレるなんて死活問題だ。
中学時代に経験があるとはいえ、ブランクが大きいし、何より恥ずかしすぎる。
「あ、これね。はいタオル。……ていうか、もう一周してきたんだ。相変わらず早いね」
「……ねえ、松原先輩。その子は?」
多田さんの怪訝そうな声。
「あー……体験入部の子? かな? だね?」
「何故に疑問形なの」
先輩も少しは悪いと思ったのか、誤魔化してくれた。
でも、絶対にバレるわけにはいかない。
僕は久方ぶりに「スイッチ」を入れた。
大丈夫だ。電話口なら、いまだに女性と間違われる声なんだから。
「あ、えっと、はい。そうです。その……わ、わたし、まだ部活決めていなくって」
裏声を使って答える。
「――え?」
多田さんが息を呑む気配がした。
どうしたんだろう。やっぱり違和感があったか?
焦る僕の隣で、松原先輩が援護射撃を放つ。
「そうそう! えっと、その……そうだ! 彼女は『まもるさん』って言うの。確か。ね?」
「あ、はい。そうです」
適当な相槌を打つ。
「まもる」は僕の名前の音読みだし、昔は実際にそう名乗っていたこともあるから、咄嗟に出てもおかしくない。
「――まもるさん……?」
多田さんの声が震えている気がした。
「あ、澪ちゃんさ。早くランニング行かないと、時間なくなっちゃうよ!」
「……そう、だね。ごめん。じゃあ、行ってくる」
多田さんは足早に去っていった。
助かった。
僕はかつらをひっぺがし、松原先輩に詰め寄った。
心臓がバクバク言っている。
まさか。
この「まもるさん」という偽名が、多田澪にとってどれほど特別な意味を持つ言葉なのか。
この時の僕は、まだ知る由もなかったのだ。
◇ ◇ ◇
剣道部の朝練は、学校の外周ランニングのみ。
距離はおよそ一キロ強。何周するかは個人の裁量に任されているらしい。
マネージャーの仕事は、水分補給用のスポーツドリンクを準備することくらいだ。
二周、三周と重ねる部員のために、僕は手早く準備を整える。
「朝練は自由参加だから、三年生以外は全員集まってる感じかな。と言っても、三人しかいないけど」
松原先輩が苦笑する。
「澪ちゃんは特に速くて、いつも一番。元々、朝走る習慣があるんだって」 「そうなんですか」
入部前は「体育会系の縦社会」に怯えていたけれど、先輩二人は僕に対して厳しく当たらない。
マネージャーという立場のおかげか、それとも性別の壁か。
いずれにせよ、僕は安堵していた。
「ま、澪ちゃんなら、それくらい当然か」
「……そんなに凄いんですか?」
僕が聞くと、先輩は「まあね」と胸を張った。
「私と澪ちゃんは幼馴染なんだけど、あの子の強さは折り紙付きだよ。大人の有段者、それも男性相手でも勝っちゃうくらい」
「へえ……」
「大会経験がないから公式記録はないけど、実力だけなら県内でもトップクラスだと思う」
「そんなに」
僕が感心していると、走ってくる人影が見えた。
先頭は、やはり多田さんだ。
彼女は給水所の前を通り過ぎる際、僕の方を一瞥もしなかった。
立ち止まることなく、そのまま二周目へと入っていく。
心なしか、視線が冷たい。……やっぱり、今朝の更衣室の一件で嫌われたらしい。
二年の堀田先輩も、多田さんを追って通過していく。
そんな中。
昨日もヘトヘトになっていた一年生――小柄なのに「ある部分」だけは発育のいい女子部員が、ふらふらと戻ってきた。
「だ、大丈夫?」
「だ、だい、じょうぶ、れすぅ……」
言葉になっていない。今にも倒れそうだ。
僕は慌ててコップを持って駆け寄った。
「少し休みなよ」
彼女はコクコクと頷き、受け取った水を一気に飲み干した。
そして、パン! と自らの頬を叩いて気合を入れると、再び走り出した。
まあ、走っているというよりは早歩きに近い速度だけれど。
「真央ちゃん、頑張り屋だなぁ」
「大丈夫なんですか、あの人」
「体力は人一倍ないかもね。運動経験ゼロらしいし。でも、熱意は十分。……応援したくなるよね」
「……ですね」
懸命なその背中を見て、少しだけマネージャーのやりがいを感じた気がした。
◇ ◇ ◇
教室へ戻ると、すでに多田さんは着替えを終えていた。
男子である僕は、女子全員が着替え終わった後に更衣室を使うというルールで事なきを得たのだが……。
「…………」
多田さんと目が合うと、プイッと露骨に顔を背けられた。
どうやら、とことん嫌われてしまったらしい。
まあ、着替え中の更衣室を開けてしまったのだから、自業自得だ。
気まずい思いで自席に座り、なんとなく多田さんの背中を眺める。
彼女は携帯を取り出すと、慌てた様子で必死にフリック入力を始めた。
かと思えば首を傾げ、何やら悩んでいる様子。
さっきまでの不機嫌オーラとは打って変わって、コロコロと表情が変わる。
おかしな人だ。
僕は観察をやめ、授業の準備に取り掛かった。
ブブッ。
マナーモードにしていたポケットの携帯が震える。
画面を見ると、レイくんからのメッセージだった。
『大分疲れたみたいだね。うちも、運動部初心者の子が、いつもへとへとになってるよ。頑張って!』
「……どこの部活も、同じような感じなんだなぁ」
そんな感想を抱きつつ、僕は返信を打つ。
『こっちもだよ。でも、一生懸命な姿を見ると応援したくなるよね』
送信して、画面をオフにする。
予鈴のチャイムが鳴った。
ふと多田さんを見やると。
彼女は携帯の画面を見つめながら、花が咲いたようにニコニコと笑っていた。 何か、いいことでもあったのだろうか。
僕は首を傾げながら、教科書を開いた。
すぐ近くで微笑む彼女の「送信相手」が、まさか自分だとは露知らずに。
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