3
私は、何もすることができない。
彼の苦悩を、知ることもできない。
「戦争が終結すれば、奴隷制度は無くなる」
彼は一言そう言って、机の上に広げられた地図に目を落とした。
瀕死だった彼を拾い、後見人となってくれたのは、この国の退役軍人だったという。
運が良かったのだと彼は言う。確かに彼は、運が良かった。
多くの少年奴隷は、成人を迎える前に過労でその短い命を終える。
だがそれ以上に、彼は血の滲むような努力をしたのだろう。
彼の出自を厭う者もいたに違いないが、今、この野営地で彼に忠誠を誓わない者はいない。
彼は皆から尊敬されていた。
その日は朝から騒々しかった。
「薬師殿、大佐を見かけませんでしたか」
突然、兵士の一人が看護の天幕にやってきて私に問いかけた。
負傷兵以外がこの天幕に来ることはあまりない。少し不思議に思っていると、彼は少し気まずそうな顔になった。
「その、あなたならご存知かと……」
その意味を理解した瞬間、私の顔はみっともない程に赤くなった。
思わず、しぼったばかりの冷たい手拭を頬に押しあてると、彼はなおも続けた。
「大佐はいつもあなたを探しているから」
周囲の目にもあきらかだったのかという恥ずかしさと、込み上げてくる妙な嬉しさに自分自身を叱りつけながら、もうそれ以上は言わないで欲しいと願い、私は慌てて口を開いた。
「何かあったのですか」
数時間前、帝都から遣わされた早馬によって、一通の書簡が届けられた。
長い戦を終えて、ついに隣国と和平交渉の段階に入ったため、彼に一時帰国の指令が出たのだ。
だが彼は、その書簡を読み終えるなり破り捨ててしまった。
見るものが居竦むような、激しい怒りを露にした目でこちらに振り向くと、その場にいたものは皆、一瞬びくりと身を振るわせた。
「しばらく一人にしてくれ」
彼は、凍りついた声音でそう吐き捨てると、破り捨てた書簡を蹴散らして天幕の外へと出て行ってしまったのだという。
その尋常でない様子に、側で見ていた者達は、心配をしているようだった。
ざわめく天幕の片隅で動揺していると、天幕の外から老人が戻ってきた。
「また降りだしましたよ」
老人は早歩きで棚の前に行き、外に干していた包帯や清潔な布を置くと、私と兵士を交互に見つめた。
「大佐を探していらっしゃるのかね」
驚いて兵士と顔を見合わせると、老人は肩をすくめてみせた。
「あの方にだって、一人になりたい時くらいありますよ」
そう言って諭すと、兵士はしぶしぶといった表情で天幕の外へと出て行った。
「薬師殿には知っていただいた方がいいでしょうな」
意味をはかりかねて、彼の顔を見つめかえすと、老人は、その穏やかな顔に珍しく怒りの表情を浮かべていた。
「条約内容をご覧になるかな」
そう言って、彼は懐から一枚の紙を取り出した。
折り畳まれたそれを開き、ある一文を私に分かるように指で指し示す。
「隣国の奴隷制は継続されるようです」
彼の静かな怒りを孕んだ声に、私の頭はまるで鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。
全身が凍りつき、そこから動けなくなる。
「廃止されるんじゃ……」
奴隷制は廃止される。今後、人身売買に関わった者は厳罰に処される
以前、私の村で、この国の兵士が口上を読み上げたときのことを思い出し、やっとのことで掠れた声を出すと、老人は苦々しい顔で首を横に振った。
「残念ながら、見送りにされたようです。一部の者が反対していたのは耳にしていましたが……」
もともとこの国には、奴隷制度は存在しなかった。
一方、奴隷制を持つ隣国には、戦勝国側の法律が適用されるはずだった。
しかし、国内には異論を唱える者も少なくなかった。
行き場を失った多くの奴隷がこの国に流出するのを恐れ、急遽、条約内容が変更されたという。
「結局、何も変わらないのです」
老人の突き刺さるような言葉に、私は愕然とする。
激しくなる動悸を抑えることができず、勢いのままに外へと飛び出した。
あの人は今、どんな思いでいるのだろうか。
鉛色の空からは容赦なく雨が降り注ぎ、結い上げた髪からほつれた毛束が頬に貼り付く。
ぬかるんだ地面は歩みを進める度に泥が跳ね、裾に飛び散る。
だが、そんなことにかまっている余裕は無く、私は闇雲に走っていた。
彼がどこにいるのか、全く見当がつかなかったが、足を止めることができなかった。
まるで、永遠に彼が見つからないのでは、という妄想に取り憑かれているようだ。
服は水分を吸って重くなり、肌に貼り付く感触が気持ち悪かった。
なんとなく、天幕の張られた野営地一帯にはいないような気がして、暗く湿った木立の中へと足を踏み入れる。
その瞬間、木の根に足を取られて盛大に転んでしまった。
膝の痛みと、感情に押し流されて、涙が込み上げてきたが、なんとか起き上がって彼を捜し続けた。
足下に気を付けながら、慎重に奥へ入っていく。
何かに導かれるようにして歩いていくと、やがて、僅かに開けた場所が見えてきた。
正面には、一際大きな木がそびえ立っている。
雨で黒く光るその木肌に視線を彷徨わせると、根もとに座り込み、虚ろな瞳でこちらを見つめている彼と目が合った。
「何をしに来た」
なんの感情も籠らないその声に、私はまた、涙が込み上げてくるのを感じ、唇を噛み締めながら、彼に近づいていく。
もしかしたら、既に溢れてしまっているのかもしれないが、降り注ぐ雨のせいで分からなかった。
「帰りましょう」
すぐ側で腰を落とし、その腕に手を置く。
振り払われるかもしれないと思ったが、その様子がないことに、心の中で安堵の息をついた。
湿ったシャツを通して感じる彼の肌は温かく、そこからは蒸気が発せられているようだった。
「どこへ」
そう言って彼は、皮肉めいた笑いをかすかに口元に浮かべた。
彼の言った意味が、どのようにもとることができたので、私はなんと答えたらよいのか分からなかった。
しばらく黙り込んでいると、急に彼の手が私に向かって伸びてきた。
少しばかり驚いていると、彼は、私の頬に貼り付いている濡れた毛を払うようにして耳にかけてくれた。
そろそろと、彼の暗い目を覗き込むと、不意に何かに気付いたような顔をされた。
「泥だらけじゃないか」
唐突にそう言うと、私の頬や鼻に付いた泥を熱心に拭いだす。
「まさか転んだのか」
「えぇ、木の根につまづいて。でも一度だけです」
「怪我は?」
大丈夫です、と言う前に、彼は私の体をさぐるように両手を動かしはじめた。
「どこか痛い所は?」
「いいえ」
私を心配する真摯な表情に、瞼の内側が熱くなってくる。
「私はどこも、痛くないです」
それでもどこか不安そうな表情を浮かべる彼に、私は手を回し、そっと抱きしめた。
彼は抵抗せずに、まるで子どものように身を預けてくる。
その様子が切なくて、私は彼の濡れた頭の上で、声を出さずに泣いた。
もしかしたらこの人は、永遠に休まることがないのかもしれない。
私には、彼を助けることができない。
「あの村にいたときは、偉くなりさえすればいいと思っていた」
彼はくぐもった声でそう言うと、顔をあげ、私を見つめた。
目が赤くなっているが、彼の目に映る私も同じだろうと思った。
彼は、自嘲的な笑みを一瞬だけ浮かべたが、すぐに表情を無くした。
「ただ無知なだけだった」
「そんなことありません」
私は震える声で何とかそう囁き、彼の冷たい頬に両手を添える。
底の見えない暗闇の様な目に焦点が合うと、はかり知れない恐怖が私を襲った。
「今のあなたは、力を持っています」
「いや、あの頃と何も変わらない」
鼻で笑う彼に、私はもう一度口を開く。
「いいえ、あなたを慕う人が大勢います」
そのまま私は彼の肩に顔をうずめ、そっと呟いた。
「私もその一人です」
天幕に戻ると、泥だらけの私達を見て彼の部下達は慌てたが、彼は気にする様子もなく、いつものように固い口調で口を開いた。
「私はこれから帝都に戻る。数日の間、後を頼む」
部下の一人にそう言うなり、彼は濡れた服の上に外套をはおりはじめた。
「大佐殿、せめて服を着替えて」
「どうせ濡れるのだ。このままでいい」
困り果てた表情の兵士を一瞥し、彼は私に向き直った。
「風邪をひく」
そう呟くと、側にあった毛布を掴み、私の肩にかけた。
「心配をさせてすまなかった。早く宿舎に戻れ」
「帝都に戻って、どうするつもりですか」
言葉をさえぎるようにそう言うと、彼は少し緊張した笑みを浮かべた。
「行ってくる」
そう言いのこして、彼は野営地を後にした。
彼は、いつ戻ってくるのかはっきりと言わなかった。
そのことが不安でしかたなく、私は休憩の時間になる度に、彼の発っていった小道を見つめる日々を送っていた。
あの村で彼を待ち続けていた時も、彼がいつ帰ってくるのかなんて分かるはずもなかったのに、こんな不安を抱えたことなど無かった。
たった数日の間のことなのに、どうして落ち着いていることができないのだろう。
「薬師殿、大佐が戻られたらすぐにお知らせしますから」
見かねた衛兵の一人に少し困ったような口調で言われてしまったが、どうしても確かめずにはいられなかった。
だが、森の奥へと続く小道の先は暗く、時々、木の枝が風で重たそうに揺れるだけだった。
彼が発って1週間が過ぎたある日、私は夢を見た。
どうしてかは分からないが、彼は、戦場に向かおうとしていた。
私には彼を、引き止めることができなかった。
「たとえ私がどんなに引き止めたとしても、あなたは行くのでしょう」
少しからかうように笑いながら言うも、まるで心臓をギュッと掴まれたような苦しさを覚えた。
「すまない」
黒く澄んだ瞳をまっすぐこちらに向け、彼は静かに言った。
私はゆるく首を横に振り、唇をそっとかむ。
私は、そんな彼だから好きなのだ。
「もしあなたが傷を負えば、私がそれを治すまでです」
「ありがとう」
もしかしたらこれは、未来の私達の姿なのかもしれない、と夢の中で思った。
「一緒にいてくれてありがとう」
彼は私を抱きしめると、耳元でそう囁いた。
私は、彼を知ることも、助けることもできない。
私ができることは、ただ寄り添うだけ。
ふと目を覚ますと、彼が、とても心配そうな顔で私を覗き見ていた。
「……いつ、戻られたのですか」
自分から出た声が、意外と落ち着いていることに、少し驚く。
だが彼は、その問いには答えずに、私の頬に手を伸ばした。
彼の大きな手が、私の頬をそっと撫でた。
指先がかすかに耳に触れていき、その瞬間、背筋に甘いしびれが奔る。
その少し荒れた掌は温かく、私はうっとりと目を閉じた。
「何故、泣いている」
その言葉に慌てて目元に指先を滑らせると、目尻が冷たく濡れていた。
彼の怖いくらい真剣な瞳に促され、私は、つたない様子で言葉を紡いだ。
「……この数日の間、あなたが帝都に発って、なぜかとても不安だったのです」
彼の目が大きく見開かれ、口を開いて何か言おうとするのを見て、慌てて先を続ける。
「変ですよね。待つのには慣れているのに」
「いや、それは」
「あなたに再び出逢うことがなければ、こんな気持ちになることもなかったと思うのです」
少し笑ってみせると、彼は複雑な表情になった。
「だから、嬉しくて」
「嬉しい?」
「えぇ、今は、こうしてあなたの側にいることができるのですから」
私はそのまま、勢いにまかせて彼に抱きついた。
彼の息を飲む声が聞こえ、ほんの僅かの間、戸惑っているようだったが、やがて、彼の大きな手が私の背中に回されると、私達は大きな安堵に包まれた。
私と彼の小さな息づかいが、夜の闇のなかに溶けていく。
私は目を瞑り、彼の体に強く身を寄せた。
すると、それが合図のように、彼は私を寝台の上にゆっくりと押し倒した。
急のことで驚き、固い体の下で強ばっている私を見下ろすと、彼はなだめるように優しく微笑んだ。
そっと、いたわるように髪を手で梳かれると、次第に強ばりが解けてくるのが分かった。
「嫌か」
「嫌じゃない、です。でも、ちょっと待ってください」
彼は、慌てる私を無視し、全身が粟立つような極上の笑みを浮かべると、頬に口づけを落としてきた。
それはまるで鳥の羽のように軽い感触なのに、痕がつくのではと思うほど熱い。
「もう待たない」
彼は真顔でそう言うと、私の唇に指先を滑らせた。
くすぐったくて息を漏らすと、すぐに彼の舌が滑り込むように侵入し、私の舌を優しく絡めとる。
私がかすかに呻くと、今度は首筋に手をすべらせて、そっと愛撫した。
それだけで私の体は炎に包まれるように熱くなっていく。
やがて彼の手があらぬ方へと伸びていくと、思わず私は小さな悲鳴をあげた。
しかし、彼がすぐに口で塞いだので、声は外に溢れることなく飲み込まれていく。
息苦しさと、初めて知る痛みと快楽の間で、何も考えられなくなってしまう。
ただ、激しく脈打つ互いの鼓動が感じられるだけだった。
彼の甘い唇が、少し無骨な指先が、彼の紡ぎだす全ての動作が切なく、嬉しかった。
彼から与えられるものは全て、心地よさも痛みも、何もかもが愛おしかった。
やがて辺りが静まり返り、かすかに虫の鳴き声が聞こえるだけになると、彼は名残惜しげに身を起こし、私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
何故か自分の声は掠れていて、慌てて咳き込むと、彼は満足気に口角をあげた。
「何がおかしいのですか」
「いや、良い声だなと思って」
「誰のせいだと思ってるんです」
できるだけ冷静に対応したかったのに、勝手に頬は熱くなり、彼の顔を真っ直ぐに見ることができなかった。
身支度を整えようとすると、今度は手伝おうとするので、余計に恥ずかしい。
少し目線を反らしながら、私はずっと聞きそびれていたことを思い出し、慌てて彼に向き直る。
「帝都はどうでした」
「それなんだが」
彼は少しだけ体を離すと、少年のようないたずらっぽい目をしてみせた。
「強請をかけてきた」
どうやら彼は、帝都で極秘裏に高官達と会ってきたようだった。
彼らの汚職や醜聞をちらつかせ、条約内容の再検討を迫ったというのだ。
「なんて危険なことを……」
「いや、そうでもない。敵の敵は味方だからな。彼らを快く思っていない者達にも持ちかけた」
彼は心底おかしそうな表情で言うのだが、彼がいくらかの権力を持つ人達を敵に回したのは事実だろう。
それを考えると、私は薄ら寒くなった。
「それよりも重要なのは、この問題が、脅しに応じた奴らのように単純ではないということだ」
急に彼の目は鋭くなり、表情が固くなった。
「たとえ奴隷制度が廃止されても、その後遺症はしばらく続くだろう」
少し遠い目をする彼に、私は手を伸ばし、彼の頬を両手で包み込む。
彼はゆっくりと目をこちらに合わせると、とても小さな声で呟いた。
「俺は、自分や周りが思っているほど強くはないようだ」
彼は、そのことに自分でも驚いているようだった。
ふと脳裏に、木の根もとに座り込む数日前の彼と、家の裏口に立ちすくむ幼い彼が浮かび、そして消えていった。
「だから……どうか、ずっと、側にいてくれ」
「えぇ、もちろん」
彼は、私を見つめる瞳をやわらげると、そっと嬉しそうに微笑んだ。
私にできることはそれだけだ。
でも、それでいいのだと思う。
これからは、あなたと共に生きていく。
私達は互いに微笑み合うと、夜明けの近い天幕の外へと向かった。