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「あの方は、本来ならば、このような所にいる人ではないのですよ」
大佐という身分であれば、自ら戦線に赴く必要などなかった。
最初に彼の傷を見た時に感じた私の疑問に、老人は困ったような顔をした。
静まり返る夜の野営地の片隅で、私達は声を潜めて話していた。
「ですがいつも、我々と一緒になって剣を振るおうとするのです」
そう言って彼は溜め息をつくと、森の中に広がる暗闇を見つめた。
「まるで、何か強迫観念にでもかられているように。そうせざるを得ないといった様子で」
何となく、私には彼の気持ちが分かるような気がした。
身分の下のものの命が、粗末に扱われる事が耐えられないのだと思う。自分の身だけ安全な所に置くことなど、考えられないのだろう。
彼のことだから。
老人と別れて、私は自分の宿舎に戻ろうと、ランプを手に夜道を歩く。
ふと暗がりの向こうから、見覚えのある人影がこちらに歩いてくるのが見えた。
「交代か?」
「はい」
頷く私に、彼は気遣うようにそっと微笑む。
薄明かりに照らされた彼の表情に、疲れのようなものが滲んでいるのが見えた。
あれから私達は、再会の余韻に浸る間もなく、すぐにテントの外へと呼び出された。
この野営地に、新たな急患が運び込まれてきたのだ。
人手が足りない状況で、怪我人は日々増えていく。
私の日常は、村にいた時と一転した。
何も考える事ができない程、めまぐるしく動き回る日々。
おかげで私達は、一日にこうして、一言二言交わせれば良い方だった。
お互いに忙しく、ろくに話もできていない。
「ご苦労だった。ゆっくり休め」
「あなたも」
じっと彼の目を見つめ、言い含めるように言う。
彼は、少し困ったようにその凛々しい眉を下げて笑った。
「そうだ。これを」
今日、ずっと渡しそびれていたものを、彼に差し出す。
つられるようにして上に向けられた大きな掌に、薬包紙に折り込まれた小さなそれを乗せた。
「いつもすまない」
そうは言っても、こんなものは気休めにしかならない。
彼に今必要なものは、休息だった。
誰もがそんなことはわかっているのだが、状況がそれを許さなかった。
傷は直りかけていたが、本当はこのように働き通しで動き回って欲しくなかった。
「まだ、痛みますか?」
「いや」
毎日、同じ返事を聞いている。
彼が違う答えを言うわけがないのを分かっているのに、つい同じ事を聞いてしまう。
じっと彼の黒い瞳を見上げていると、吸い込まれそうになる。
昼間よりもずっと深い輝きを放つそれは、まるで冬の夜空のようだった。
思わずそっと手を伸ばすと、こちらを静かに見下ろしていた彼が顔を傾けてきた。
髭の生えはじめた頬に指先を這わせると、そのざらついた感触が伝わってくる。
彼は軽く目を閉じて、私の好きなようにさせてくれた。
私の手は、しばらくの間、彼の頬を撫でるように彷徨う。
額にかかった濃い色の髪を、かきあげるように後ろに撫で付けると、彼は微かに口を開いてうめき声をもらした。
瞼を薄く開けた彼と目が合い、思わずパッと手を離す。
「困ったな」
彼はそう言って苦笑いのようなものを浮かべると、宙に浮いたままの私の手を握り、手首に唇を落としてきた。
少しカサついた感触が、敏感な皮膚の上を滑り、私は自分の肌が粟立つのを感じた。
体の内側が熱を発し始めるのを感じ、私の頭は少しボウッとなる。
再び、その鋭い瞳を見上げると、彼はいつになく余裕のない表情をしていた。
追い込まれ、切迫感にかられた獣のような視線に、私の体の熱は、じわじわと全身に広がっていく。
キスを、されるのだと思った。
「……宿舎に戻るんだ」
押し殺したように低い声でそう言うと、彼はついっと顔を背け、私の脇をすり抜けていった。
しばしの間呆然とし、慌てて後ろを追うように振り返ると、そこにはもう、彼の姿はなかった。
火照ったままの頬に手を当てながら、私はしばらく、一人でぼんやりとしていた。
求められているのに、彼はあれ以来、一度も手を出してこない。
もっとも、私達が一緒に過ごせる時間は先ほどのようにほんの僅かだった。
翌朝、看護の天幕に赴くも、どこかいつもと違う雰囲気に違和感を覚える。
いつもは騒々しい朝の空気の中、今日は行き交う人もまばらで、あたりは随分と静かだった。
「小隊を率いて視察に出ているのですよ」
棚の上の薬瓶に手を伸ばすと、背後で手伝っていた老人が話しかけてきた。
その言葉に慌てて振り返ると、彼は心配ないというように笑ってみせた。
「北の先が堕ちたそうで」
それは、以前私がいた国の話だった。
私のいた村は南の方に位置しており、最後の砦ともいえる北の都が陥落したという。
「そう遠くない先の話、長く続いたこの戦もようやく終わりそうですな」
ぼやくようにそう言うと、彼はにっこりと微笑んだ。
この戦が終わったら、彼はどうするのだろう。
そして私は?
落ち着かない心をなだめるように、ポケットにしのばせた薬包紙の端にそっと触れる。
日はとっくに落ち、あたりは暗闇に包まれていた。
いくつかの天幕には明かりが灯っていたが、一番奥にある大きな天幕は、いまだひっそりと静まり返っていた。
「遅いですね」
簾をあげて、何度も外を覗く私に、老人がポツリと呟く。
夜勤の者と交代した後も、いつものように夜道で彼と逢うこともなかった。
夜更け過ぎ、私は宿舎の寝台の上に腰を掛けていた。
明日はいつものように早いのだから、いい加減もう寝なければいけないと分かっているのに、どうにも落ち着かず寝付けないのだ。
耳を澄ませても、外からは何の音も聞こえてこない。
暗闇の中に、光も音も、吸い込まれていくようだった。
突然、かすかに馬の蹄が打ち鳴らされるような音が聞こえてきた。
呼応するように私の体はぴくりと反応し、薄暗い部屋の中で、分厚い天幕の向こうに顔をむける。
布を隔てた向こう側から、小さな明かりがチラチラと見え、何人かの話し声が聞こえてきた。
私は息を殺すようにし、しばらく、身じろぎもせずにその方向をじっと見つめていた。
やがて、人の話し声が聞こえなくなる。
そろそろと寝間着の合わせを握りしめていた手をはずし、椅子の背にかけておいたショールを掴む。
そのまま勢いよく立ち上がり、天幕の外に出ると、私は数時間前にきた道を戻ることにした。
夜の空気は、薄い寝間着だけでは少し肌寒い。
慌ててショールをかき合わせるようにして羽織り、とうに明かりの消えたいくつもの天幕の間を、小走りで駆けていく。
やがて遠くに、一際大きい天幕から、薄い明かりがこぼれているのを目にとめる。
何故かふと、子供の頃を思い出し、可笑しいような気持ちになった。
そういえば昔もこうして、闇夜にまぎれて彼に逢ったのだと。
こみあげる笑いをこらえるように口元に手を押しあて、天幕の前で立ち止まる。
周囲に気付かれないように、そっと滑り込むようにして中に入ると、驚いて目を見開いた彼と目が合う。
「まだ、起きていたのか」
少し、間の抜けたような声を出し、こちら見る彼の表情が、少し硬いものに変わっていく。
「何故そんな格好をしている」
彼は大股で私に近づくと、自分の上着を脱ぎ、私の肩にかけた。
「薬を」
握りしめたそれをいつものように渡すと、彼は柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
その微笑みは、どこか幼い頃の彼によく似ていた。
今も変わらずに、私に向けられていることに、不思議な感覚を覚える。
「早く宿舎に戻れ。風邪をひく」
そう言って彼は私の頬をそっと撫でると、天幕の入り口へ促そうとした。
「もうすぐ、戦が終わるというのは本当ですか?」
唐突に切り出した私に、彼は少し驚いた表情を見せながら、そっと頷いた。
「あぁ」
「もし戦が終わったら……」
そこまで言いかけて、急に、どうすればよいのか分からなくなり、口をつぐんだ。
所在なく視線を彷徨わせ、もう外へ出ようと思った瞬間、彼が抱きしめてきた。
肩にかかっていた上着は背中を滑り、乾いた音をたてて床に落ちた。
こうして彼に抱きしめられるのは二回目だということに、今気がついた。
動転しつつも、私は震える手を彼の背中にまわす。
彼の胸に顔を埋め、安堵のあまり息を大きく吸い込むと、かすかに土ぼこりの匂いがした。
そのことに、何故か満ち足りた気持ちになる。
「戦が終わったら、帝都に一緒に来てくれないか」
彼は私の頭に頬をすりつけながら、よく通る静かな声でそう言った。
抱きしめたまま、彼は近くの寝台にゆっくりと腰を下ろす。
彼の上で膝立ちになった私は、ゆっくりと顔を持ちあげると、黒く澄んだ瞳がこちらを見上げていた。
「私は軍人だから、いつかまた戦線に戻るかもしれないが……」
「その時は私も一緒に行きます」
後を継ぐようして、思わず口を開くと、彼は鋭く目を細めて何かを言おうとした。
その口から何か発せられる前に、私は無意識のうちに手を伸ばして唇に触れる。
そっと、弓なりに反った輪郭を指先でなぞり、頬に手を添える。
少し困惑した表情を浮かべる彼を無視して、もう片方の手を逞しい肩に置き、顔を近づけた。
「もう、遠慮をしないでください。欲しいものは欲しいと一言いえば、手に入るのですよ」
彼の黒い瞳を上から覗き込み、思い切ってそこに口づけを落とす。
昨日も手首に感じた、少しカサついていて、でも柔らかい感触に、愛おしさが込み上げてくる。
すると、私の腰に回されていた彼の大きな掌が、私の頭を捉えた。
そのまま、彼の体は寝台に沈んでいき、いつの間にか、私は彼の上に馬乗りになっていた。
彼の背の傷を思い出し、慌てて降りようとする私を、彼は引き止めるように強く引き寄せる。
押し付け合っていただけの口づけは、ゆっくりと激しいものに変わっていく。
わけも分からずに、おずおずと舌を差し込むと、待っていたかのように彼が出迎え、優しく絡めとられた。
その感触に背筋がぞくりとし、思わず身震いをすると、なだめるように彼の手が背中をさする。
互いに、飢えているかのように貪り続け、舌を絡め合った。
苦しくなって僅かに唇を離し、彼の胸に手を当てると、激しく脈打つ鼓動が伝わってくる。
そこに耳を当てるように頭を押し付けて体を寄せると、彼の手は、再び私の腰に巻き付いてきた。
互いに上下する胸を合わせながら、荒くなった息が落ち着くまでの間、しばらく私達はじっとしていた。
「……でも今日は、ゆっくり寝て下さい」
小さな声でそう呟くと、彼は大きく溜め息をつき、ふと思い出したように喉の奥で笑い出した。
「そうさせてもらおう」
ひとしきり笑った後、彼はそう言って、私を強く抱きしめたまま、驚くべき早さで寝息をたて始めた。
その規則正しい鼓動を聞きながら、私もそっと目を閉じ、幸せな気持ちで眠りにつく。
今は、これでいいのだと思いながら。