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約束など、何も交わさなかった。
私と彼の間には、何もなかったのだから。
ある日、家の裏に倒れ込んでいた所を介抱したのがきっかけだった。
治りかけた傷の上に、重なるようにして刻まれた、真新しい鞭の痕。
逃亡をはかろうとする奴隷には、時として死罪をも科せられる事があった。
ひと月に数回、その痛々しい傷に薬を塗り込んでやる時だけ、私は彼に会う事ができた。
夜更け過ぎに、家の裏口に立ちすくむ彼を確認し、薬箱を手にして無言で近づく。
お互いに、何かを話す事もほとんどなかった。
なるべく傷口に染みないようにと、自分の手の動きに細心の注意を払い、暗闇の中で目を凝らして、黙々と処置をしていく。
時々彼が、誰に言うのでもなく何かを呟くのを聞いていた。
「いつか絶対、ここから逃げ出してやる」
憎しみのこもったその言葉を聞く度、幼い私は複雑な想いにかられた。
彼にとって、この村は憎悪の対象であり、未練などどこにもない事は明白だった。
自分自身、彼が解放されるのを望んでいたのに、胸中に得体の知れない不安が押し寄せてくる。
こうして、彼と会う事もなくなるのかと思うと。
「ありがとう」
別れ際にいつも、その年相応の無邪気な笑顔を見る度に、自分の心拍数があがるのがはっきりと分かった。
昼間には決して見る事のない、私だけに向けられたそれを、そっと胸の中にしまい込む。
ある日突然、彼はいなくなった。
怒り狂った雇い主の呼びかけにより、村中総出で山狩りがはじまった。
松明を掲げた人達が集まり、どこか異常な空気に包まれたその光景は、今でもはっきりと覚えている。
遠く離れた隣村まで探しに出たそうだが、結局、誰も彼を見つける事ができなかった。
最終的には、逃亡先でのたれ死にでもしたのだろうと推測され、それ以来、彼の事が話題にのぼる事はなくなった。
私ひとり、彼は必ずどこかで生き延びていると固く信じ、それを支えに生きてきた。
別に、いつかどこかで会えると思っていたわけではない。
ただ、彼が生きていると信じるだけで、心が軽くなるのだ。
両親が亡くなってからは、薬師としての家業を引き継ぎ、ひっそりと生きてきた。
何度か、村に渡り来る商人から、都にある薬学院に行く事をすすめられた。
女で薬師として身をたてている事が珍しかったらしい。
私自身、この閉鎖的な村を何度出ようと思ったことか。
でも、もしあの人が帰って来たら?
今この瞬間にも、目の前の扉を叩く音が聞こえてきそうな気がしてならない。
そう思うと、私はここから一歩も動く事が出来ないのだ。
ふと、外から聞こえた悲鳴に体が跳ねる。
何事かと思って外に出ると、そこには異国風の服に身を包んだ屈強な男達がいた。
もう随分と前から、この国は隣国と戦争をしていた。
もっとも戦線は遠く、辺鄙な田舎まで、その状況が伝わってくる事はなかったため、あまり意識した事はなかった。
側で怯えている人に事情を聞くと、どうやらこの地域一帯は、隣国に明け渡されたらしい。
そう言われても、いまいち実感が湧いてこない。
「今日からこの村は我が帝国の支配下におかれる」
広場に集まった村人達の口から動揺した声が漏れる。
「従って、奴隷制は廃止される。今後、人身売買に関わった者は厳罰に処される」
淡々とした口調で読み上げられる口上に、歓声のような声がどこからかあがる。
奴隷制度は、この国の古い慣習だった。
裕福な者達は、その権力を誇示するかのごとく、奴隷を持つのが当たり前だった。
この小さな村では、奴隷を持つ家は限られていた。
一部の者達が、その権力を振りかざしていた事に、内心眉をひそめていた者は少なくない。
「最後に、この村に薬師はいるか?」
その問いかけに、村中の視線が私に集まる。私が何か言う前に、男達がこちらに向かってくる。
自然と人々が彼らに道を譲り、私は逃げ場を失ってしまった。
「今すぐに旅路の支度を……同行願えるな?」
有無を言わさない、その迫力にたじろぐ。とても、断れるような状況ではない。
静かに頷くと、目の前の男は満足そうな顔で踵を返す。
戦線からの噂は、あまりいいものではなかった。
看護のために連れて行かれた女達の末路を嘆く、帰還兵の話を耳にしたことがある。
溜め息をつき、僅かな荷物を片手に扉に手をかける。
結局、この扉が彼によって開かれる事はなかった。
そっとノブを撫で、目を閉じる。
いい機会なのかもしれない。もういい加減、彼の事は忘れてもいいはずだった。
それなのに、この年になるまで、未練がましく思い出にすがっていた自分が情けない。
想いを振り切るようにして、扉の向こうへ足を踏み出した。
小隊に連れられてきた先は、国境沿いの森を抜けた所にある野営地だった。
一際大きな天幕の前で、男が簾をあげ、中へ入れと促す。
「大佐殿、薬師を連れて参りました」
「ご苦労だった」
外よりもいくらか薄暗い内部に目をこらすと、奥から、一人の男が近づいてくる。
「下がっていい」
その低く響く声を合図に、私をここまで連れてきた男が外へ出ていく。
その事に焦り、不安を感じて出口に視線を彷徨わせると、すぐそこまで近づいてきた男が、私の顎を捉える。
乱暴に、男の方へと顔を向けさせられ、全身が緊張で強ばった。
思わず強く瞑ってしまった目を、恐る恐る開き、目の前にある顔に焦点を定める。
その瞬間、互いの目が合わさるが、すぐに男は視線をそらした。
もう、10年以上も会っていないのに、どうして一瞬で、彼だと分かってしまうのだろう。
その広い肩も、逞しい体つきも、私よりずっと高い背丈も、何もかも、あの頃の少年とはかけ離れた姿なのに。
鋭く光る黒い瞳が、唯一、あの頃と変わらない輝きを放っている。
「あ……」
何か言わなければと思うのに、全てを忘れてしまったかのように言葉が出てこない。
口元を両手で覆い、じっと彼を見つめていると、ふと、彼の目が睨むように細められた。
「今日からお前はこの軍隊に仕えてもらう」
再会を喜ぶどころか、冷たく、抑揚のない口調に、全身が凍り付く。
あの村に、彼が心に留めておきたい記憶など何もなかった。
私の事など、とっくの昔に記憶の片隅に追いやられているのだと分かった。
「ここ数日の混乱で看護の手が不足している」
めまぐるしく変わる戦況に翻弄されたのは、私達だけではなかった。
「後で怪我をしている者達を診てもらう。何か必要なものがあったら遠慮なく言え」
淡々と、機械的に説明をする彼の言葉をぼんやりと聞いていると、ふと彼の目がこちらを向く。
「何か質問はあるか?」
「……いえ」
そう一言呟くと、彼は、用は済んだとばかりに口をつぐむ。
重苦しい沈黙が流れ、私は外へ出て行くべきなのか、それともここに留まるべきなのか悩む。
「大佐殿、包帯の替えをお持ちしました」
沈黙を破るような明るい声に目をやると、一人の老人が天幕の中に入ってきた。
「さぁ、手当をいたしましょう」
そう言って促すと、彼は心底嫌そうな顔をして老人を手で制する。
「いらん。もう治っている」
「駄目ですよ。治りかけが一番重要なんですから。おや?」
初めて、私がいる事に気がついた老人が、目を丸くしてこちらをじっと見つめる。
「もしかして、新しくいらした薬師殿ですかな?」
「あ、はい」
急にふられて、びっくりしていると、老人は人のよさそうな笑顔で頷き、何かを思いついたような表情になった。
「丁度いい。素人の私よりも、貴女にしていただいた方がよろしいでしょう」
そう言うなり、手にしていた薬箱を私に押し付け、さっさと天幕の外へと出て行ってしまった。
何も言えずに固まっていると、彼が困ったような顔でその方向を見やる。
「さっきも言ったように、もう治っているから手当など必要ない」
「……怪我を、しているのですか?」
初めてそう問いかけると、彼はびっくりしたような顔でこちらに向く。
「だから、もう治っていると」
「診せてください。素人判断は危険です」
戸惑う彼を、半ば強引に寝台に座らせる。
「どこを怪我したんですか」
勢い込んで訪ねると、彼は困った顔のまま、私から視線をそらして呟く。
「……背中だ」
すぐに彼の背後にまわり、傷を診せるように促す。
意外にも、彼は素直に私に従い自ら服を脱いでいく。
背中に負担をかけないように手伝っていると、布地の下に包まれた固い筋肉に触れ、一瞬動揺してしまう。
「……っ」
下に着たシャツを脱ぐ時に、僅かに痛みをこらえるような声が聞こえ、慌てて我にかえる。
血が滲み、乾いて赤茶色に染まる包帯をゆっくりとはがし、そこに視線を落とした瞬間、息が止まりそうになった。
背中を斜めに奔る、刃物で切り裂かれたような大きな傷。
それは赤く腫れ上がり、ひどく膿んでいた。
「……どうしてここまで放っておいたのですか!」
衝動的に、きつい口調で怒鳴ると、一瞬彼がびくりと動いた。
それでも、何も言わない彼に、なぜか涙が込み上げてくる。
必死でこぼれ落ちそうになるのを堪え、その傷に手当を施していく。
傷はそこまで深いものではなく、見た目ほど悪化してはいなかったが、それでも、もしかしたら感染症にかかっていたかもしれない。
そう思うと、感傷的になってしまい、更に涙が溢れてくる。
「っふ……」
目の前の背中には、幾重にも重なる古い傷跡があった。
その逞しい筋肉の上で、僅かに皮膚を押し上げている。
そっと手で触れると、静かに、彼が息を飲むのが分かった。
彼はもう、自由を手にしていた。
やっと、彼は、自分の居場所を見つけたのだ。
もう、私は待つ必要がないのだ。
寂しさというよりも、嬉しさと安堵が一気に押し寄せてきて、目を瞬かせると涙がこぼれてしまった。
堪えきれなかった嗚咽が漏れ、振り返った彼に気付かれてしまった。
「村に置いてきた男がそんなに恋しいか」
凍てつくような眼差しに、なんの事を言われているのか分からなくて、呆然とする。
涙を拭っていた私の左手を強く引き、その薬指にはめてあった金のリングを忌々しげに見つめている。
「心配しなくても、村を襲うような真似はしない」
こちらを正面から見据える瞳から、目が離せない。
「だが、お前は帰さない」
その低い声に、背筋に寒気が奔る。
彼は氷のように冷たい表情のまま、乱暴に肩をつかみ、私を寝台の上に押し倒した。
一瞬、彼の顔が苦痛に歪むのを見たような気がしたが、見上げたその瞳は暗く曇り、なんの感情も読み取れない。
「……やめて」
止まる事を知らない涙が頬を伝うのを見て、目の前にある形のいい唇の片側がつり上がる。
「敵国の卑しい男になど抱かれたくないか」
乱暴に胸元をはだけさせ、そこに顔を近づける。
「ただの一奴隷の事など、すっかり忘れてしまったか」
自嘲の笑みを浮かべ、押さえつけた手に力を込めてくる。
その痛みに顔をしかめるが、声を出す事が出来ない。
私は抵抗する事も忘れ、その言葉に愕然となった。
彼は、私の事を忘れていなかったのだ。
「私はまだ、未婚です」
喉の奥から、震える声を絞り出す。
彼はその事をさほど気に留めた様子もなく、鼻で笑うような声を出し、剥き出しにされた胸に息を吹きかけた。
思わずビクッと体が反応してしまい、空気に晒されたそこが疼く。
ある意味、これは私が望んでいた事だったのかもしれない。
ずっと、彼の事だけを考えていた。
「ほう。だとしたら俺は、この男に感謝するべきなのかな」
そう言ってかざした彼の手には、いつの間にか、薬指にはめてあった金色に光るものがあった。
「それはちがっ…ん!」
言いかけた言葉が外に出ることはなく、彼の口によって塞がれてしまった。
その乱暴な様子とは裏腹に、彼の唇の動きはひどく優しく、滑らかだった。
体中が喜びに打ち震え、自然と彼の舌を迎え入れていた。
互いの舌を絡ませ、その行為に没頭する。
きつく押さえつけられていた手はいつの間にか解かれ、彼の手が私の頬をすべる。
自由になったその手を、彼の髪に差し入れた。
その瞬間、びくりと動いた彼が、ゆっくりと口を離す。
肩で息をつき、喘ぐ私を、欲望でどんよりと曇った瞳が、見つめている。
「……指輪は偽装です」
激しく上下する胸に手を当て、やっとの事で口に出す。
その言葉に我に返った彼が、不審気な顔で睨む。
「この年で未婚だと……色々とうるさく言われるので」
「どうして……」
信じられないという顔で、こちらを見つめる彼に、私はそっと微笑む。
「ずっと、あなたの事を待っていたから」
するりと口からこぼれ出た言葉に、彼が呆然とした表情で固まる。
それを見て、自分がとても馬鹿な事を言ってしまったのだと気がついた。
「ごめんなさい。こんな事を言われても困りますよね。でも、会えて、嬉しくてーー」
再び込み上げてきた涙に、手で顔を覆う。
「あなたは、もう、あなたが居るべき場所を、見つけたのですね」
精一杯の笑みを浮かべると、口を開けたまま放心していた彼が、何か言いたそうな表情になる。
「……先ほど言った事は忘れてください」
居たたまれなくなって顔を反らすと、私にのしかかっていた体の重みから解放される。
そのまま、両脇に手を差し込まれ、上半身を起こされて座ると、私と彼は対峙するような格好になった。
私の肩に両手をつき、覗き込むように顔を近づけてくるので、驚いて身を引くと、追いかけるようにして彼の唇が私のそれに優しく触れる。
そのまま、背中に腕を回し、力強く抱きしめられた。
「……待たせて悪かった」
低く呟く声に、腕の中で激しく首を振る。
「俺の居る場所は、昔からずっと、お前が居る場所だった」
噛み締めるようにして、そう言う。
彼の胸に押し付けていた頬から、その言葉が振動となって伝わってくる。
ゆっくりと体を離して顔をあげると、優しく微笑む彼の顔が、そこにあった。
「これからも、ずっと」
降り注ぐ日差しのように、柔らかいその笑顔に、私はそっと頷く。
頬を伝う涙を拭われ、無言のまま見つめ合う。
私の居る場所は、あなたの居る場所。
心の中でそう呟き、差し伸べられた温かい腕の中へと飛び込んだ。