4.月明かりが照らす逃走劇
額の辺りがヒリヒリする。
目を閉じていても、俺へと振り下ろされた刃が近づいてくるのが手に取るようにわかった。
……死んだらどうなるんだろう?
死後の世界とかあるのだろうか?
それとも、また別の誰かに生まれ変われるのだろうか?
もし生まれ変われるのなら、チート能力で無双して一生働かなくても生きていける大金を稼いでハーレムを作って堕落した生活を送りたい。
もしくはどこぞの国の王女のペットにでも……あれ?
目を閉じてから結構経ったけど、全然斬られないな。
どうしたんだ?
「……?」
薄目を開けてみる。
最初に目に入ったのは、空中で完全に静止したカタリーナの剣。
「く……!」
カタリーナから、苦悶の声が漏れ出てくる。
ハッとなって目完全に目を開いてみれば、彼女は黒い人型の何かに背後から絡みつかれていた。
そのせいで身動きが取れないようだ。
何が起こってるんだ?
よくわからんが、これはチャンスだ!
「じゃあな、騎士様!」
「待て!」
俺はこの隙に急いでカタリーナから離れ、扉の方へと向かう。
ラッキー!
命拾いしたぜ!
しかし今のはいったいなんだったんだろう?
まさかリュコスか?
そう思って彼の方を見る。
「ク……な、なんだ!これは!」
リュコスを取り押さえていた看守達もまた、カタリーナと同じように黒い人型の何かに絡みつかれ、リュコスを取り逃がしていた。
あっちもうまくやったらしい。
「な……」
だが、肝心のリュコスはこの黒い人型に心当たりがないのか、普段よりも大きく開かれた瞳で看守を眺めながら呆然と立ち尽くしていた。
リュコスじゃないのなら一体誰が……?
その時、俺の疑問に答えるかの如く、鈴を転がすような笑い声がこの場に響き渡った。
『フフ……フフフ……フフフフフフフフフフ!』
「誰だ!」
今だ黒い人型の何かに動きを封じられている中、姿が見えぬ声の主へと叫ぶカタリーナ。
『フフフフフフフ!ここね!』
何もない空間から突如、藍色の長い髪をなびかせながら女が現れた。
貫頭衣にも似た薄手のドレスを身に着け、どこか儚い雰囲気を纏う彼女は、何かを探すように辺りをキョロキョロと見回している。
切れ長なグレーの瞳がこちらを向き、俺のことを捉えると――
『……いた!』
嬉しそうに顔をほころばせた。
その瞬間。
「っ!」
今まで感じた事の無いような寒気が背筋を走り抜け、体中から冷や汗が噴き出てきた。
カタリーナに睨まれた時とは違う。
論理や経験ではなく、本能がけたたましく警鐘を鳴らすような、魂へと刻み込まれた恐怖に俺の心は支配されてしまった。
この女は一体何者なんだ……?
恐怖で頭が回らない。
手足に鉛でも括りつけられたかのように体が重く感じる。
俺は思わず足を止めてしまった。
『~♪~♪』
倒れた囚人達が流した血の海の中、鼻歌なんて歌いながら女がこちらへと近づいてくる。
その姿は一枚の絵画のように美しく、そしてあまりにも心地よい音色を響かせていて、それがまた余計に恐ろしさを引き立てていた。
『フフ……あなたね?私の封印を解いてくれたのは』
見惚れるような笑みで女が語りかけてくる。
『ずっと一人ぼっちで退屈していたの。あなたには感謝して……あら?これは……あの女の……』
楽しそうに喋っていた彼女が何かに気づいた途端、声のトーンが低くなっていった。
『そう……私の……手を出すんだ……へぇ……?』
ねっとりと絡みつくような声で何かを呟く女は、さっきまでの儚げな雰囲気とは打って変わって、かなり危険な匂いを発している。
俺の目の前に立つ彼女は、唇と唇が触れてしまう程に顔を近づけて、白くしなやかな両手をそっと俺の頬に添えてきた。
……俺はとんでもないものに魅入られてしまったのかもしれない。
すると、依然として拘束されたままのカタリーナが、戦慄したような表情で会話に割り込んできた。
「……貴様、今ソイツが封印を解いたと言ったな。ならば、まさか……!」
額に大粒の汗を流しながら、彼女は女へと問いかける。
女はカタリーナの声に反応して振り返った。
『あら?あなたも……フフ。まあいいわ』
一瞬だけ何かを言いかけてやめた彼女は、芝居がかった声で名乗りを上げる。
『察しがいいわね。その通り。私は月神セレーネ。千年の時を経て、今ここに復活したわ』
月神。
それは太陽神と対になる、この世界の神の一柱だ。
この神々しさと、近くにいるだけで畏れを感じてしまうような存在感。
女の言っていることが真実であるというのは、疑いようがなかった。
なら、あの黒い人型は彼女がやったものか。
しかし、封印されていたってどういうことだ?
それに、その封印を俺が解いただって?
コイツらは一体何を……。
「っつ……!」
突然、激しい頭痛と倦怠感が襲ってきた。
立っていられなくて、思わず片膝をついてしまう。
『ごめんなさいね。あの女の加護の上から私の加護を掛けたから、ちょっとつらいかもしれないけどすぐに治まるわ。ええと、エルス、だっけ?』
「う……ぐうっ!」
セレーネと名乗った女は顔をこちらへ向けて申し訳なさそうに何か言っているが、あまりの苦しさに言葉が入ってこない。
それからしばらくして、ようやく痛みが治まってきた。
「ハァ……ハァ……」
息を切らしながらその場に立ち上がる。
加護が……なんだって?
『あら……?そろそろ時間かしら?』
困惑する俺を特に気にした様子もなく、セレーネが微笑みかけてくる。
『私の【影人形】であの子達はしばらく動けないから、その内に逃げなさい。それじゃあね。また、近いうちに』
彼女はそう言い残すと、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように消え去ってしまった。
「え――」
唐突に現れ、一方的に自分の主張を押し付けて風のように去っていったセレーネ。
オオヒルメと言いセレーネと言い、神ってこんな自分勝手なのか?
だが、セレーネのおかげで再び脱獄のチャンスが生まれたのも事実。
ほんの少しだけ感謝しておこう。
「ハァ……よし!」
乱れていた息がだいぶ元に戻ってきた。
これ以上もたついていたら応援が来てしまうかもしれないので、急がなければ。
俺は再度扉へと向かって駆け出す。
「逃げるぞ!おい!……リュコス!」
「は……あ……ああ……」
扉の手前で立ち尽くしているリュコスを回収する。
正直放っておいてもいいのだが、コイツにはなぜか妙な仲間意識が芽生えてしまっていた。
役に立たないと言いつつ、助けられた場面も何度かあったしな。
「く……う……おおお!【フレア】」
扉を抜けて念願のシャバまであと数歩というところで聞こえてきたカタリーナの声。
背中に異常な熱気を感じて振り返ってみれば、セレーネによって拘束されたままの彼女の前に、巨大な炎の塊ができていた。
「ッ……!」
「逃がさん……!」
炎の塊が射出される。
アイツ、剣だけじゃなくてそんなのもあるのかよ!
熱い、デカい、そして速い。
三拍子そろった炎の塊は、とても避けられそうにない。
「ヤべ……あっ!お前!俺を盾にするんじゃねえ!」
「うるせえ!俺は何を犠牲にしても絶対生き残るんだ!」
リュコスが素早い動きで炎の塊から身を守るように、俺の後ろへ隠れる。
コイツ……やっぱり助けるんじゃなかった!
そんなことをしている間にも、炎の塊が迫ってきて――
「え……!?」
俺の目の前で見えない壁に阻まれたかのように止まり、そして消滅した。
「な……貴様、その力は太陽神様の……それに、月神のものも!」
太陽神の……なんだ?
そっちは分らんが、月神ってことは、今のがセレーネの言ってた加護のことか?
「フッ……信じてたぜ、相棒!お前ならやってくれるってよ――痛ってえ!」
いい笑顔のリュコスがウザかったので、ひとまず一発殴っておいた。
「おいおい、さっきのはほんの冗談じゃねえか。許してくれよ、な?」
コイツ、人を盾にしておきながらよくもまあ……!
リュコスが喋れば喋る程怒りが込み上げてくるのだが、今はそんなことをしている場合ではない。
「まあいい。話は後だ。さっさと逃げるぞ」
「おうよ!」
俺達は目の前にある扉を抜け外へと出る。
「待て!一度防いだからと言っていい気になるな!【フレ……】グッ!ゲホッ、ゴホッ」
カタリーナが再び炎を放とうとしていたが、どうやらあの一撃が限界だったらしい。
咳き込んで呪文をうまく唱えられていなかった。
「今度こそじゃあな!」
カタリーナという化け物を撒き、俺達はとうとう念願のシャバへと辿り着いたのだった。
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「……ここまで来れば、ひとまずは大丈夫だろ」
リュコスが足を止める。
シャバに出た俺達はその後も迫りくる追っ手から逃げ続け、気づけばさっきまでいた監獄はかなり遠くなっていた。
「朝……か。」
水平線の向こうから日が昇り始めており、ついさっきまで暗かった空も明るくなっている。
「ハ……ハハハ!やった……やったぞ、エルス!俺達は逃げ切ったんだ!あの地獄から!ギャハハハハ!」
よほど嬉しかったのだろう。
リュコスが上機嫌で肩を組んでくる。
「ああ!俺達は……自由だああああぁぁぁぁ!」
俺も肩を組み返し、朝日に向かって叫ぶ。
もう公開処刑に怯えなくていいし、そう思うとなんて爽やかな朝なんだ。
リュコスともここに来るまでなんやかんやあったが、今までのことは水に流してやろう。
無事脱獄を成功させた俺達はしばらくの間、心の底から湧き出る抑えきれない喜びを互いに分かち合うのだった。
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「ご報告いたします。例の罪人の公開処刑は滞りなく行われました。」
「そうか……報告、ご苦労だった。」
「はっ!それでは失礼いたします。」
制服を着た男が部屋から出ていく。
彼が遠くへ行ったのを確認した後、私は近くの壁を拳で殴りつけた。
手の甲がジンジンと痛むが、それを気にする余裕は今の私にはなかった。
「おのれ……」
先の男が報告した公開処刑。
そこで死んだ罪人は、本来処刑されるはずだった者ではなく替え玉だ。
それを知っているのは一部の者だけで、上からは緘口令が敷かれている。
なぜ私がそんな情報を持っているのかと言えば、本来処刑されるはずの罪人の脱獄を目の前で許してしまったからだ。
月神セレーネという人知を超えた存在まで出てきてしまったため、『相手が悪かった』と上からのお咎めはごく軽いものだった。
けれども、だからと言って罪人を逃してしまったという事実は消えない。
物に当たって少しだけ冷静になった私は、机の上に置いてある書類へ目を向ける。
そこには休暇届と書かれており、下の方には申請が受理されたことを示す判子が押されていた。
「今度こそ……必ず……」
許可証を机の中にしまい、近くに置かれていた剣を手に取る。
鞘から抜いて軽く振ってみたが、いつもより余計な力が入っているような気がした。
「ソラーレ王国騎士の名誉にかけて」
別に、上から指令が出たわけではない。
「カタリーナ・フォン・シュロートの名に誓って」
言ってしまえばただの私怨であり、自己満足だ。
だが、どうしても自分が取り逃がした罪人を野放しにしておくことが許せなかった。
「――月神セレーネの封印を解いたあの男を必ず捕らえる!」
誰にも知られることのない誓いを胸に、私は罪人探しの旅に出るための準備を始めた。