表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

山岳信仰と母

 夜が明けました。いつもなら日の出前から出発の準備を始めるのですが、明るくなるまで微睡を楽しみます。今日はあまり慌てなくてよかった。昨日は目標の八経ヶ岳に登れなかったので、帰りの距離がかなり短い。更に下山は同じ距離でも時間が短縮できます。予定では昼過ぎに下山することになっていましたが、ゆっくり出発しても午前中の早い時間には、天川村に停めてある相棒のスーパーカブと再会が出来るでしょう。


 尿意を催しました。できればもう少し寝ていたかったのですが、起きることにします。寝袋のドローコードを引っ張りました。口が開いて冷気が入り込んできます。テント越しに外が明るいことが分かりました。靴を履いて表に出ます。雪が降っていました。風はありません。


 用事を済ませて、テントに戻ります。ガスバーナーを取り出して、お湯を沸かすことにしました。食欲はなかったのですが、暖かいものは口にしたい。湯を沸かしている間に、パッキングを始めることにしました。テントの中からキャンピングマットを取り出して土間に敷きます。その上に僕の荷物を並べました。テントは小屋の壁に立てかけて、短時間ではありますが乾かします。寝袋も、ジッパーを下ろして開いた状態で干します。それ以外の荷物も、忘れものがないように注意しながらまとめていきました。


 そうこうしている間に湯が沸きます。乾麺を鍋に投入しました。野宿をした朝は、いつもインスタントラーメンを食べます。非常に便利。食欲が満たされるだけでなく体も温まるので、寒い朝はとても助かります。麺は勿論のこと、汁まで全て平らげました。食べ終わったら、ガスバーナーやコッヘルを梱包します。続いて、テントや寝袋も、専用の袋に梱包しました。


 ナップザックの口を広げます。底の方に寝袋とテントを押し込みました。その上に、ガスバーナーとコッヘル、更に着替えといった諸々の荷物を押し込んでいきます。最後にゴミ袋。ゴミ袋を収納する前に、重要な仕事がありました。大きいやつです。携帯トイレで用を済ませました。その内容物をゴミ袋に入れて、ザックに収納します。特に紹介する事柄ではないかもしれませんが、これはとても重要なことでした。用は済ませれるときに済ませないと、登山の途中では出来ません。だって、雪の中ですから。


 パッキングが完了して、用も済ませて、出発の準備が出来ました。ストックを両手に持って、下山を開始します。ただ、下山のルートは全て新しい雪で覆われていました。フカフカの新雪になります。ビロードを敷いたようで滑らか。とても美しい。スマホを持ち上げて写真を撮った後、少し思案しました。


 ――この美しい景色を、僕が穢して良いのか?


 穢すも何も、歩かなければ帰ることが出来ません。一歩踏み出しました。足が雪の中に沈みます。二歩三歩と足を進めると、次々に足跡が出来ました。雪の深さは膝下くらい。登山靴での歩行は、全く問題はありません。雪を蹴りながらガンガンと進んでいきます。面白い。


 歩きながら少し気になったことがありました。昨日出会った男性は、僕と同じように雪山でテント泊をすると言っていました。僕が新雪をラッセルをしているということは、この登山道は誰も歩いていないということになります。ということは、まだ山の上の方にいるのでしょうか?


 実は、雪は降り続けていました。天気はこのまま回復する兆しがありません。僕は下山までの距離が短いけれど、山頂からだとかなりの道のりになります。少し心配になりました。結果論になりますが、昨日は途中で断念して良かったと思います。今の僕では、経験も装備も体力も全てにおいて足りていませんでした。それが分かっただけでも、大きな収穫でした。


 その後、3時間かけて下山します。素晴らしい雪景色の連続でした。新雪をかき分けて歩くので、途中ルートが分からなくなったことが何回かありました。そうした時は、スマホを取り出しヤマップのアプリで確認します。初心者にとって、GPS機能は命綱でした。またヤマップの登山地図を参照しながら、実際の地形を確認することで、地図読みも少し上達したような気がします。


 連休最後の2月24日は、登山客と全くすれ違いませんでした。多くの登山客で賑わっていた昨日とは、大きな違いです。理由は天候でした。下山の間、ずっと雪が降っていました。途中、森が途切れた尾根では風がかなり強く、吹雪になっていました。防寒着のフードを深く被って、足元に注意しながら歩きます。風が強い場所は、地形によって一か所に雪が集まっているところがありました。そうした場所を歩くと、かなり雪が深い。腰まで埋まります。


 登山口に到着しました。やれやれです。予定よりも距離が短かったとはいえ、往復で12km歩きました。足はかなり疲労しています。5日前にも高見山に登っていたので山登り連投でした。太腿が一回り大きくなっています。――僕は生活で正座をすることが多いのですが、太ももがパンプアップしたことで3日ほど正座が出来ませんでした。


 天川村も雪が積もっていました。道路は車によって轍が出来ています。その轍を踏みしめながら天川村の役場に向かいました。僕のスーパーカブは、雪対策にバイクカバーを掛けてあります。そのバイクカバーの上に、白い雪がこんもりと積もっていました。駐車場を見回すと、昨日出会った男性の車がありません。テント泊をせずに、昨日のうちに下山したのでしょう。ホッとしました。もしまだ山にいたのなら、この雪で下山は大変だったと思います。


 バイクカバーを外して、ナップザックをリアキャリアに固定しました。相棒に跨り、キーを差し込みます。キックペダルを強く踏み込みました。


 ――ブルルン!


 氷点下ですが、一発でエンジンが掛かりました。調子が良い。そう言えば僕のスーパーカブは、冬だからといってチョークを引っ張らなければエンジンが掛からないということはありません。多分、毎日乗っているからだと思います。これが、一日でもエンジンを掛けない日があると、次の日はエンジンが掛かり難い。つまり機嫌が悪い。可愛い奴です。アクセルを回して、雪の中ゆっくりと走りました。極太の結束バンドタイヤは、雪に絡みついています。登り坂であっても何とか登ってくれました。この後、4時間かけて大阪に帰ります。


 今回は、八経ヶ岳の山頂まで登ることが出来ませんでした。そのことを残念だとは思っていません。それよりも次の目標が出来ました。春夏の間に、八経ヶ岳に再度登ってみたい。困難だと言われるバリエーションルートにも挑戦してみたい。その上で、冬の八経ヶ岳にもう一度チャレンジします。今回のリタイヤを糧にして、万全の態勢で挑みたいと思います。


 山登りの特徴は、他人と争うのではなく、自分との戦い。険しい山であればあるほど、その高みに自分を近づけようとします。とてもストイックなんですよ。山岳信仰も、性質は似ているんじゃないでしょうか。また山岳信仰では、山を女神に例えます。山は母体と考えました。つまり、生と死を司る場所――子宮になるのです。山は川が生まれる場所であり、熊や鹿が生まれる場所でもありました。生活に必要な木材も山から分けてもらいます。古代の人々は、山と関わり合いながら生きてきました。


 そういえば、古代の日本は妻問婚でした。一族の財産は娘が相続し、母系で子孫に受け継がれていきます。また神道的な儀式では巫女が活躍するのですが、神の声を聞くのは女性の役割でした。古代は、何かと女性が活躍する場面が多い。明確な文献は提示できないのですが、女性が子供を産むという現象は、古代の人々にとっては奇跡そのものでした。信仰の始まりは、そうした奇跡を起こす女神信仰から始まった……みたいな話を聞いたことがあります。子供は母親に対して全幅の信頼を寄せます。山岳信仰では、そうした母に対する想いを山に重ねていたのかもしれません。


 今回の雪山での体験で、特に何かが理解できたということはないのですが、また行きたいと思いました。母なる場所に。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ