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トラブル

 天川村は、近畿の屋根ともいわれる大峯山脈の谷あいにありました。北方に修験道誕生の地である標高1,719mの山上ヶ岳があり、そこから始まる川は山上川と呼ばれています。東方には標高1,780mの大普賢岳があり、そこから始まる川は川迫川と呼ばれています。南方には標高1,895mの弥山があり、そこから始まる川は弥山川と呼ばれています。この三つの川が合わさると天ノ川と名前を変えました。天ノ川の流れは、紀伊半島の中央では十津川、下流では熊野川と名前を変え、最後は太平洋が広がる熊野灘に至ります。そうした天ノ川に寄り添うようにして天川村があり、その天川村を囲んでいるのが先ほどの三岳をはじめとする大峯山脈であり、その座主として近畿最高峰の標高1,915mの八経ヶ岳が鎮座していました。


 八経ヶ岳への登山道は幾つかありますが、今回僕が選んだのは天川村の沢谷から始まる登山道になります。沢谷は天ノ川が大きくカーブした内側に形成された平らな土地で、天川村役場や小中学校といった施設がありました。集落の外れに登山口があり、天に向かって真っすぐ伸びた杉が林立する中、南東に向けて登山道が伸びています。登山道は雪が堆積していて白い階段になっていました。堆積した雪はフワフワのパウダースノーで、掬いとってみましたが重さがありません。階段中央の雪は激しく踏み固められていて、今日の登山者の多さを物語っていました。


 期待通りです。雪山登山に初めて挑戦しますが、心配していたのは雪で登山道が分からないことです。また新雪が堆積した登山道は、雪をかき分けるラッセルが必要でした。装備が不十分な僕にとって、登山レベルはなるべく下がってくれた方が助かります。雪が踏みしめられているお陰で、アイゼンを装着していない登山靴でも危なげなく登れました。なんならこのまま登山靴だけで登り切れるんじゃないだろうか……と思ってしまうくらいです。アイゼンはザックのバンドに引っ掛けてぶら下げていました。いよいよ歩くことが困難になったら、アイゼンを装着するつもりです。


 ただ、まー、それでも初っ端からかなりの急登でした。延々と登りの階段が続きます。何度も足を止めました。息が上がります。吐く息が白い。歩みを進めていくと、前方に人影が見えました。天川村役場で見かけた登山者です。歳の頃は40代くらいかな? 多分僕よりも少し若い。足元はチェーンスパイクを装着していて、手にはピッケルを持っていました。にこやかに僕から声を掛けます。


「おはようございます」


「おはようございます」


「今日は、どこままで登られるんですか?」


「テン泊なので、弥山まで行くつもりです。雪に埋まった弥山の鳥居を触ってみたくて……」


「へー、僕も弥山でテン泊するつもりなんです」


「そうなんですか。ただ、村の人に聞いたのですが、山の上は腰上の雪だそうですよ」


「腰上か~」


 その男性に、僕は困った顔を見せました。いや実際に困りました。腰上では、僕の装備では太刀打ちが出来ません。


「雪山は初めてなので、行けるところまで行くつもりです」


「そうなんですか! 僕も登山初心者なんです。弥山が無理でも、狼平までは行きたいですね」


「狼平か……」


 八経ヶ岳周辺には避難小屋が二つありました。ひとつは弥山にある弥山小屋、もう一つは弥山川の横にある狼平避難小屋になります。ネット上の写真を見る限り、どちらも立派な山小屋でした。今晩はテント泊をするつもりですが、雪上にテントを張るわけではありません。避難小屋の中にテントを張るのです。この方法はネットの情報で知りました。そうすることで、氷点下の寒さをかなり和らげることが出来ます。僕のテントはドーム型なので、ロープを張らなくても自立することが出来ました。また、弥山小屋には自由に使える毛布があるとの情報もネットで得ていたので、氷点下の寒さに耐えきれないようならその毛布を使うことが出来ます。しかし、狼平にはその毛布がない。理想は弥山小屋での宿泊が安心ですが、無理なら手前の狼平で宿泊するしかない。そんなことを思案していると、その男性が僕に道を譲りました。


「お先にどうぞ」


「ええ、ありがとうございます。では、お先に失礼します」


 先を歩きながら、何となくプレッシャーを感じました。その男性から「歩くのが遅いな~」と思われるのも嫌なので少し早歩きになったのですが、直ぐに息が上がります。暫く登ってから後を振り返りましたが、男性の姿は見えませんでした。


 ――案外と遅いな。


 その男性の装備を思い返します。登山靴にはチェーンスパイクを装着、手にはピッケルでした。テント泊の用意は道具が嵩みザックがとても重くなります。ピッケルは雪山登山において有用な道具ではありますが、短いので杖代わりにはなり難い。その重いザック背負いながら、男性は前のめりになりながら歩いていました。実に歩き難そうです。対して僕のザックも重いのですが、両手にストックを持っていました。このストックのお陰で、背中の重量を足と杖に分散することが出来たので、胸を張って登ることができました。この差は大きい。改めてストックの有用性を感じました。


 300mほど標高を上げると、登りの階段が終わりました。そこからは杉林に挟まれたなだらかな尾根が続きます。一息つくことが出来ました。アイゼンを装着しないままなので、足が滑らないか心配だったのですが、案外と歩けます。気温が高くなり雪が解け始めたら、ツルンと滑ってしまうのでしょうが、氷点下なので解ける気配がありません。踏みしめられた雪道は問題なく歩けるのですが、フカフカの新雪であっても膝下くらいならガンガンと歩けます。正直なところ、

 ――アイゼン、いらんやん!

と思いました。


 ただ、斜面を横切るトラバースは少し怖かった。両手のストックは、山手側は突き刺そうにも壁が迫っている状態なので刺しにくいし、谷側はストックが届かなくて空振りします。そんな折に足を滑らせました。アイゼンがないので、グリップが利きません。山手側に倒れこむことで、全身で滑り落ちるのを阻止しました。危ないところです。ゆっくりと起き上がりながら、アイゼンを装着することにしました。少し開けた場所で、重いザックを肩から下ろしました。ベルトで固定しているアイゼンを取り出します。


 ――!?


 どうも片方のアイゼンの様子が、何か変です。初めは何がおかしいのか分かりませんでした。雪の上に並べてみると、左足用アイゼンの部品の一部が無くなっていました。


 ――えっっっ!


 思わず声を上げてしまいました。ザックに揺られながら、どこかに落としてしまったようです。部品が外れるような構造ではなかった筈なのですが、現に無くなっています。途方にくれました。アイゼンなしで、このまま登るのは危険すぎます。かといって、戻ったからといってアイゼンの部品が見つかる保証はありません。二者択一。行くか戻るかを、ここで決めなければいけません。心の中では、「保険として、なぜチェーンスパイクを持ってこなかったんだ」と、何度も反芻し後悔しました。アイゼンがなくても、チェーンスパイクさえあれば、何とかなったはずだからです。自分の馬鹿さ加減にイライラしました。


 ――どうしよう?

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