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6 打ち明け話

雑草林はあっさり抜け出ることができたけど、そこにあったのは見知らぬ森だった。

蒸し暑く、僕は流れ落ちる汗をぬぐった。

うるさいほどの虫の音と、時折何かの動物の声が聞こえ、僕と美津子は震えあがってその場に立ち止まった。

目が慣れたとはいえ、明かりのない夜の森を歩くのは至難の業だった。

張り出した木の根に躓き、突然現れる大きな岩に足を滑らせた。

スマホは落としそうだったのでポケットに突っ込んだ。

左手の美津子の手は放すわけにはいかなかった。

僕はなぜか、小学校の時に学校で飼っていたウサギのことを思いだした。

夏休み、美津子が飼育委員だったので、餌をやるときよく正人と二人でついて行った。

僕は家でニンジンの皮とキャベツをもらい、それを三人でウサギに食べさせた。

ウサギに餌をやり終えると、今度は三人で誰もいない学校を探検してまわった。

体育館裏のひんやりした静けさや、グラウンドの周りに植えられた木々の木漏れ日が、誰もいないと言うだけで見知らぬものに思えた。コイのいる池や、低学年が植えたアサガオや、使われていない教室なんかを見て回った。

それがちょうど一年前のことだったことを思い出した。

たった一年前なのに、ひどく遠い過去のことに思えた。

それはとても幸せな時間だった。

そしてもう、二度と戻れない時間のような気がした。


どれくらい歩いたのかわからなかった。

小さな川を見つけたので、それに沿って下流に歩いていくと、大きな池にたどり着いた。

池には大きな月が映っていた。

この池に来るまで、空に月が昇っていることなんて気が付かなかった。

僕はしばし、その月に見惚れた。

まるで長い間洞窟の中を彷徨い、やっと地上に出てきた探検家のようだった。

ふと隣を見ると、美津子も同じように月を見ていた。

その顔は、なんだか僕の知っている美津子ではないような気がした。

少し青ざめ、表情を失い、月光に照らされるその顔は神秘的ですらあった。

しばらくすると、僕の視線に気が付いたのか、美津子と目が合った。

僕は照れくさくなって視線を逸らし、「もう少し歩こう」と言って美津子の手を引いた。

池はとても広かった。

歩いても歩いてもどこにもたどりつかなかった。

近所にこんな池などあっただろうか。

そもそもこんな森も。

僕たちは本当に異世界にいるのだろうか。

それともただの迷子なのだろうか。

それとも夢を見ているだけなのだろうか。

それとも死んでしまったのだろうか。

それとも……、それとも……。

何もわからなくとも、美津子がいてくれることが僕の支えになった。

振り向くと、美津子もそれに応えるように僕の目を見返してきた。

僕はやはり、前を向いて歩くしかなかった。


しばらく歩くと、美津子の歩くスピードが少し落ちてきた。

そう言えば、さっきからまったく休んでいないことに気づき、僕は適当な場所を見つけて腰を下ろした。

美津子は何も言わず、ぴったりと僕にくっつくように隣に座った。

僕は美津子の肩に腕を回した。

美津子の頭が僕のすぐ顔の下にあった。

美津子の汗の匂いがした。

暑かったけれど、腕の中にある美津子の体温は心地よかった。

なんだか少し眠くなってきた。

急に体の疲れを感じ、僕は自分でも気づかないまま意識を失うように眠りに落ちた。


ふと目を開けると、辺りはまだ暗かった。

自分の置かれた状況を思い出すのにほんの数秒かかった。

池が見えた。

月はどこかに消えていた。

代わりに無数の星が輝いていた。

夢ではないのだと思えるほどには目がさめた。

ほんの少し寝ただけだったけど、体がだいぶ軽くなっていた。

美津子がいなかった。

あれ? と思い体を起こすと、僕は「美津子?」と小さく呼んだ。

すぐに美津子は戻ってきた。

用を足しにでも行っていたのだろう。

ひどく喉が渇いていた。

それにお腹も減っていた。

何か食べるもの……、と言って探したところで、こんな山の中で見つかるわけがない。

それでも、せめて水が飲みたい。

目の前に池がある。

僕は立ち上がり、池のすぐ前まで行った。

スマホの明かりで水面を照らした。

無数の黒く小さい影が水中を逃げて行った。

なにかと思いよく見ると、数え切れないほどのオタマジャクシが浅い水の中を泳いでいた。

僕は気持ち悪くなり、池の水はあきらめることにした。

けれど飲めないとなると、余計に水が欲しくなった。

「喉が渇いた……」後ろで見守る美津子にそう言うと、美津子も頷いた。

僕は再び美津子の手を握ると、特にあてもなく池のほとりを歩いた。

しばらく歩くと美津子が僕の気を引くように立ち止まった。

「どうしたの?」と僕が聞くと、美津子は何やら指さして「き、き、き、きぅ、きぅ……」と言っている。

僕は美津子の指さしたものを見て言った。「え、なにこれ。キュウリ?」

それは四十センチ近くもある大きな白みがかったキュウリだった。

「でかい! なにこれ!?」そう言って僕はその巨大なキュウリを手に取ってみた。

なんだか知っているキュウリより柔らかい。むにむにしている。

「あ、あ、あ……」と美津子が言うのでそちらを見て見ると、その手には普段僕らが食べるのと同じサイズの緑色のキュウリがあった。これはちゃんと身が詰まった感じで硬かった。

「キュウリって、成長するとこんな大きくなるんだ」と言いながら二人で目を合わせた。

それぞれ二本ずつ小さなキュウリを取ると、座れるところを見つけ、並んで二人でキュウリを食べた。

普段キュウリなんて好んで食べることはないけれど、この時ばかりは水気を含んだキュウリがたまらなく美味しく感じた。

喉の渇きが癒されると、美津子はまたさっきのように僕の腕の中に体をあずけた。

「あ、あ、あ、あぅ……、あぅー、う……」美津子は何かを言おうと声を出したのだけれど、それは言葉にはならなかった。美津子のキツオンは、どんどん酷くなっているように思えた。

「待って……」僕はそう言うとポケットからスマホを出した。

グループLINEに正人からのメッセージが届いているのを見つけたけれど、今はなぜだかそれを見る気にはなれなかった。

美津子は肩にかけていた小さなカバンから自分もスマホを出すと、メッセージを打ち始めた。

「和也、わたし、謝らなければいけないことがあるの」そこまで打って、美津子はしばらく考え込んだ。何をどう伝えればいいのかわからず、頭の中で話を整理している感じだった。僕は黙って待った。

やがてまた美津子は打ち始めた。今度は長いメッセージを書いているのか、少し時間がかかった。

「実は私、ずっとこの世界に来ようと考えていたの。お父さんに会うために……」美津子のメッセージはそんな風に始まった。美津子はそれを、正人とのグループLINEではなく、僕個人に送ってきていた。時々美津子は僕だけにメッセージを送ってくることがあった。別に正人に知られて困るようなことではないのだろうけど、なぜか美津子は僕にだけ打ち明け話をすることがあった。

「私のお父さん、私がまだ小さい頃にいなくなっちゃったの。お母さんは、お父さんは自分で死んじゃったんだって言ってた。でもあとで近所のおばさんが教えてくれた。お父さん、死んだんじゃないよ、違う世界に行ったんだよ、って。死んだお父さんの顔見てないでしょ? って言うの。棺桶の中、ちゃんと見た? 見てないでしょ? 棺桶の中、空だったんだよ? って言うの。お母さんは、あの人は少し頭がおかしいから何を言っても信じちゃだめだよ、って言うんだけど、私にはどうしてもそのおばさんが言ってることが嘘だと思えなかった。だから私はそのおばさんに聞いたの。お父さんんはどこに行ったの? って。そしたらおばさん、踏切だよ、って教えてくれた。どこの踏切? って聞いたら、隣町の団地のとこだよって教えてくれた。それから私はその踏切を探した。独りで隣町に行って、いろんな人に話を聞いて、あの踏切を見つけたの。いろんな噂も聞いた。あの踏切で電車にひかれると、違う世界に行っちゃうんだって噂を。あのおばさんの言ってたこと、嘘じゃなかった! って私は喜んだ。そしてお父さんはまだどこかにいるんだって。でも、でも、私はお父さんに会うことができなかった。怖かったから。電車に飛び込むことが怖かった。ほんと言うとね、あの踏切には何度も独りで来てたんだ。二人には何も言わなかったけど。小学生の頃からずっと。お母さんが夜に働いている時、夜中にそっと家を抜け出して、独りであの踏切の前まで行ったの。独りで電車に飛び込むために。けどね、勇気がなかった。独りで電車に飛び込むことができなかった。怖かったの。じっと独りで踏切の前に立って、泣きながら目の前を過ぎていく電車を見ていた。しばらくしてお父さんの顔をだんだんと思い出すことができなくなって、それでも胸の中には寂しさだけがいつまでも残って、それから中学になって、私はあの踏切のことを忘れようとしたんだけど、やっぱり夜には寂しくなって泣くことがやめられなかった。そして」美津子のメッセージはいったんそこで途切れ、そしてもう一言付け足されていた。

「そして知らない振りして、和也と正人をあの踏切に誘ったの。独りで飛び込むのが怖かったから」

僕がそのメッセージを読み終えると、美津子は声を出さずに泣いていた。

僕は知らなかった。

美津子がどれほど苦しい思いをしていたのかを。毎夜、どれほどの孤独を感じながら泣いていたのかを。

僕と正人の前では、少し神経質ではあるけど美津子はごく普通の明るい女の子だった。

美津子の泣いた顔すら想像できなかった。

「お、お、おめんああ……、おえんああ……」美津子は泣きながらそう言った。ごめんなさいと言いたいのだと僕にはわかった。美津子の悲しみが僕にも伝わり、僕も自然と涙を流していた。

僕は何もいわず、美津子をぎゅっと抱きしめた。

どんな言葉を選べばいいのかわからなかった。

毎晩独りであの踏切の前に立つ美津子の背中に、どんな言葉が慰めになるのかなんて僕にはわからなかった。

どれだけ寂しかっただろう、どれだけ怖かっただろう、どれだけ、どれだけ……。

だから僕は、美津子をぎゅっと抱きしめ、背中を撫でた。

美津子は肩を震わせ、鼻をすすり、僕の腕の中でどんどん小さくなった。

このままにしていると、美津子は消えてなくなるのではないかと思えた。

もういいんだよ、もういいんだよ、僕がいる、ずっとそばにいる、僕が美津子を悲しみから救ってやる、幸せにしてやる。

溢れるそんな気持ちを表す言葉が見つからなかった。

美津子の閉じた瞼から途切れることなく流れる涙の匂いに誘われるようにして、僕は美津子の唇に自分の唇を重ね合わせた。温かくて、軟らかい唇だった。







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