正人の話 其の壱
ひどい寒気がした。
夜とは言え真夏の暑さの中、寒さのあまり冷房を消した。
部屋の明かりも消した。
まぶしくてまぶしくて我慢できなかったからだ。
布団に潜り込むと、自分の立てる呼吸の音が耳障りで我慢できなかった。
背中から首筋のあたりに悪寒が走り、顔全体にざわざわと何かに触れられているような違和感があった。
顔の皮膚の中を何千匹と言う目に見えない小さな虫がチクチクと這いずり回っているような違和感だ。
歯ががたがたと音を立てた。
自分の体ではないみたいだ。
爪を立てて顔をかきむしった。
違和感は消えなかった。
どれだけ顔を掻きむしっても、痛みすら感じなかった。
自分の手を見ると、指に血がべったりとついていた。
鏡を見ると、掻きむしった傷跡から血が滲んでいる。
やがて顔がでこぼこになってきた。
鏡を見るのも顔に触れるのもやめた。
その一時間ほど前、美津子からLINEが届いた。
「ねえ正人、和也と三人であの夜のことをもう一度話したいので、公園で会えますか?」
見知らぬ男が夜の踏切に飛び込んだ日から、ちょうど一週間ほどたってからのことだ。
「わかった。行くよ」そう答えた。
その時はなんともなかった。
「クシナダ……ヒメ……」
誰かの声がした。
低くくぐもった声だった。
いや……、いや……、俺が言ったんだ。
俺が言ったんだけど、俺じゃない……。
俺じゃない誰かが、俺の中からそう言ったんだ。
「狂おしい……、ああ、ああ、なんて美しさだ。狂おしい……、クシナダヒメ。そなたの血で、この喉を潤したい。流れ出るその赤い血が、我の口に溢れ、喉を流れて行くのを感じたい」
その言葉に、まるで本当に喉の奥に誰かの血が流れ込んでくるような錯覚に囚われた。
「ああ、ああ、クシナダヒメ。どこへ行った……。我はここにいる。暗闇の中、そなたの甘美な血の滴りを夢に、悠久の時を生きてきた。クシナダヒメ、我の前に姿を現せ。その白く血の通う首を我の前に差し出せ。我の牙を受け入れよ。美しき、美しきクシナダヒメよ……」
自分が自分ではないような気がした。
手があり、足があり、顔があり、人間の形をしていることがどうにも我慢ならなかった。
腕をもぎ取り、口を裂き、本来の自分の姿へ戻りたかった。
そして、そして、なによりこの乾ききった喉を、溢れんばかりの温かい血で潤したかった。
はあ、はあ、はあ、はあ……、意識が遠のいていった。
自分を失いそうだった。
目を閉じると、まるで地面から草の根を引っこ抜くように、自分がこの身体から引き抜かれていくような気がした。
美津子……、和也……、美津子……、和也……。
二人の名前を呪文のように唱えた。
た、助けてくれ……、美津子……、和也……、お、俺の中に何かがいる……。美津子……、和也……、「美津子……、和也……、美津子……、和也……、ス、スサノオ……」
「その名を口にするなあああああああ!!!」
自分の口から出た叫び声に我に返った。
「な、なんだ今の……。どうしちまったんだよ、俺……」
寒気は嘘のように消えていた。
汗が酷い。
着ているものがすべて汗で体に張り付いている。
けれども体は軽かった。
部屋の明かりをつけ、鏡で顔を見た。
ひっかき傷がいくつかあり、血が滲んでいたが、そんなに気にするほどでもない。
「そうだ、美津子、和也」
箪笥の上の時計を見ると、約束の時間を一時間以上過ぎていた。
「やっば!」
慌ててスマホを探した。
「どこだどこだ、どこだよ!?」
布団をひっくり返すとその下に見つけた。
ロックを解除し、LINEを開く。
「遅れて悪い! 今から行く!」
美津子にそう伝えると、汗に濡れた服も着替えず、玄関を飛び出して行った。